死を受け入れる
「また来いよ!」
と、元気に言ってくれたのは私のおじいちゃん。80歳だ。
70代後半でパソコンを覚えてWordやExcelを使いこなし町内用の回覧書類などをサクサクと作れる程。お見事である。
趣味は、日曜大工からガーデニング。手先が器用で何でも熟す。連絡があれば仕事へも行く。もの凄く器用な人。
頭も良い。テレビを観ながらああでもないこうでもない。これはこうだ。若者の自分より今のことを知っていて知識がある。
そんなおじいちゃんも、実はガンの末期。開けてびっくり、全身転移。
時は遡るが、今から20年前。胃癌をやったおじいちゃんは16時間にも及ぶ大手術を行なっている。その時の余命宣告は3ヶ月であった。
余命3ヶ月が20年生きるなど、1番びっくりしたのは誰でもない、おじいちゃん本人だろう。
そんなおじいちゃんのガン全身転移を聞き急遽会いに行ってきた。
「俺はもう終わりだ」
その一言を発するおじいちゃんは、痩せてしまい目に力がなく遠くを見ていた。声に覇気が無く身体中痛そうにしていた。
今まで弱音など1度も吐いたところを見たことがなかった私にとって、その一言が衝撃的過ぎたのであった。
「自分の身体は自分が1番分かる、もう長くない事もね」「外の花を片付けたいけど身体が痛くて動けない。誰かにお願いしなきゃなぁ」「ここまで生きてきてしたいことはした。悔いはない。でも婆さんを1人にしていくのが唯一の心残りだ」「免許の更新をする為に白内障の手術だってした、5年は乗ろうと決めてたけど」「早く楽になりたい、苦しむのは嫌だよ」
私は、今まさに死ぬことを受け入れようとしているおじいちゃんを目の前に、ただただ心の中で泣くしか無かった。
今私がこうしている間も、ご飯も食べられず身体中が痛み、死が迫る中で必死に生きるおじいちゃんの事を考えると心が裂けそうになる。
死を受け入れようとする今、何を思いながら時間を過ごしているのかな。
余命宣告を受けている今、終活を始めても中々身体が動かなくて凄く辛いだろうな。
心情を察する事しか出来ないもどかしさと、何処かに吐かなければ気が狂いそうだから此処に残しておきます。
大好きなおじいちゃん。少しでも楽になりますように。