vol.11 鎌倉150km自転車旅行記
自然と目線が青空に吸い込まれていく朝だった。前夜まで降った雨が細かいほこりを落とし、初冬の晴天を一層際立たせる12月初旬。僕は一路、鎌倉へと自転車をこぎ出した。
大学卒業後、入社まで設けた1年のギャップイヤー。やりたいことがあれこれと思い浮かんでくるなかで、どうしても挑戦しておきたいことがあった。それが「鎌倉への自転車旅」。鎌倉は大学1年生の頃、一度電車で訪れたことがある。当時は北鎌倉駅で降り、そこから徒歩で寺社をめぐり鶴岡八幡宮へ、最終的には江ノ島に赴いた。目にとまった場所を次々と訪れた前回とは違い、今回は明確な目的があった。それが、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した人物ゆかりの地を巡ること。地元鹿児島が舞台となった「西郷どん」以来、久しぶりに熱を込めて楽しんだ作品。主役の北条義時を筆頭に、魅力的なキャラクターたちの軌跡をたどりたくなった。なぜ自転車で行こうと思ったのかはよく覚えていない。往復5千円近くする電車賃を渋った、という建前はあるが、どことなく今回は自転車で行くことが何よりの正解だと感じていた。それなりの覚悟を持って設けたこの1年に、強烈なハイライトを残したかったのかもしれない。往復150km10時間。旅行後、案の定周囲には驚かれた。引かれたと表現した方が正しいかもしれない。
万全の防寒対策を、季節に似合わない暖かな日差しがたやすく勝った。交差点で止まる度に、厚手の装備から順にリュックサックへ帰って行く。額にじんわりと浮かぶ汗を、冬の冷たい空気がなでていくのが心地よい。ただひたすらに漕ぎ続けた。デリバリーのアルバイトをしている僕は、普段自転車に乗るときは時間に追われている。稼ぎのために、仕方なく漕いでいる面が大きい。それが今は、自ら何かを追って進んでいる。決して急ぐ必要はないけれど、早く目的の地を踏みたくて自然と足に力が入る。そんなポジティブな感情だけで、5時間の道中を乗り越えるエネルギーに不足は無かった。
マップに表示された道のりに従いつつも、一番早いルートを再検索しなが進んでいると、強烈な横文字が目に飛び込んできた。
ベイブリッジ…..。
既に環七を降りて川崎も抜けようとしていた。ここで左に曲がればベイブリッジへ。まっすぐ進めば横浜市街地へ。迷わず左へと舵を切った。20分後、僕の太ももは悲鳴を上げていた。当然ながら、橋と両の陸地をつなぐのは急な坂道だ。ましてや国内でも最大級の橋。メインディッシュにたどりつくまでの試練は予想を遙かに上回っていた。緩やかに左へと曲がる坂道をひたすらに立ち漕ぐ。いくらギアを下げても負担は減らなかった。車道を進んでいるため、下りて歩くことは許されない。生き地獄を進む度に、足が風船のように少しずつ膨張していくのが分かった。
ようやく坂を上り終えた刹那、左から真っ青な景色が飛び込んできた。それは、清々しい晴れ空よりももっと深く、濃い青だった。絨毯のように広がった海面を、船舶たちが行き来する。ゼンマイ仕掛けかと錯覚するほど規則正しく交差していく。空と海の境目がこの上なくきれいにまっすぐだと認識できたとき、はじめてあの坂を上って良かったと思えた。決して、南の島のような美しさはない。それでも、日本の玄関口の一つとして栄える工業団地を真っ青な空と海が包み、太陽が照らしている。その事実だけで、たまった疲労を吹き飛ばすには事足りた。むしろその疲れさえも、この情景をより美しく思わせる材料となっていた。
それも束の間、50センチほど右を大型トラックがものすごい勢いで通り抜けた。そうだ、ここで気を抜くことは事故を意味する。平日に観光気分で渡る者は少ない。ほとんどが運送業のトラックだ。左に映る絵画のような情景と、右から迫る真っ当な現実に挟まれ、今後おそらく経験することはない道を進んだ。橋からの景色を収めた写真が一枚もないのはそのためである。
ようやく大きな道路を抜け、最初に訪れたのは「上総介塔(かずさのすけとう)」。源頼朝が鎌倉に御所を開いた当初、現在の千葉県中央部に圧倒的な勢力を構えていた上総広常。やがて頼朝軍に加わったが、最終的には頼朝の命の下に殺された。彼を偲んで立てられた上総介塔は、市街地の中にあっけないほどひっそりとたたずんでいた。
次に目指したのは「梶原太刀洗水(かじわらたちあらいみず)」。前述した上総広常を殺めた梶原景時が、血に染まった己の剣を洗ったという伝説が残る場所だ。いざ向かおうとした僕に立ちはだかったのが「朝夷奈切通(あさいなきりどおし)」。鎌倉幕府3代執権北条泰時が開削したとされている。鎌倉と外の地域を結ぶ山道としての機能を果たしたそうだが、平成生まれの人間が自転車を携えて入って良いような道ではなかった。
前日までの雨で地面はぬかるみ、安定した足場はない。所々小さな川が出来ているほどだ。もちろん舗装などされていない。ゴツゴツした岩肌にぶつかる度、後輪が跳ね上がる自転車が不憫で仕方なかった。間の悪いことに、日が沈みかけてきた。木々に覆われた山中はぐっと気温が下がる。「野犬注意!」の看板を発見して恐怖がピークに達した頃、ようやくお目当ての場所にたどり着いた。が、当時にタイムスリップして梶原さんご本人に「ここで本当に剣洗ったんですか?」と訪ねても「否」と答えそうなほど、うわさに聞いていた伝説の地はスケールが小さかった。
その後、有名な鎌倉の大通を進み、次々と目的地を巡った。
気がつくと鎌倉は夜だった。この地で一夜を明かすのも初めてだ。次の日のスケジュールを考えると、どうしてももう一つ行っておきたい場所があった。覚園寺。北条義時が、夢で戌神様に遭遇したことがきっかけで建立されたといわれる本堂は、鶴岡八幡宮から少し離れた山の中、携帯電話の電波も途切れるような場所に構えられていた。階段を上った先にくべられている松明に、お堂の荘厳さを感じる。拝観料がかかるうえに、写真撮影も禁止。一種の畏れを感じながら踏み入った。
覚園寺のメインである薬師堂。中央に据えられた薬師如来像を中心に、戌神様を含め干支になぞらえた十二神将像が左右に並ぶ。敷居をまたぐと一気に違う空気に包まれたのが分かった。人もまばらな夜のお寺、俗世とは明らかに隔たれたお堂に、神々の仏像と僕一人。後方では親切な住職さんがお堂の説明をしていたが、あまり耳に入ってこなかった。寺社仏閣は何度か参拝したことがあるが、ここまで近く仏像を拝めることも少ない。僕はこの瞬間がたまらなく好きだ。仏像をどこから見つめても、目が合っている気がする。己の中に潜む卑しい気持ちを全て見透かされているような思いに駆られ、呼吸さえも丁寧にしようと心がけてしまう。何かが大きく変わるわけではないけれど、お堂から一歩外に出たとき、どことなく背筋がすっと伸びる。そんな変化をもたらすだけのパワーが、確かにそこにはあった。
地元の銭湯で一日の汗を流し、ネットカフェに泊まった翌朝、改めて鶴岡八幡宮へ。前日巡りきれなかった場所を訪れた。
こうして、僕の一風変わった鎌倉探訪は幕を閉じた。帰り路は皇居など東京のど真ん中を上っていったのも良い思い出だ。自転車で現地を訪れて良かったことがあるとすれば、身をもって鎌倉の地の利を体感したことだろう。鎌倉は海に面している上、周囲を山々に囲まれて明らかにアップダウンが激しい。5時間漕ぎ続け、やっとの思いでさしかかった鎌倉でその事実を知ったときは心が折れかけた。あの時代を生きた人々がこの場所を攻め落とすのは至難の業だっただろう。
時々、人はなぜ歴史に惹かれるのだろうと思う。この旅を通してなんとなくそれが分かった気がした。想像できるだけで良いのだ。歴史が文字通り過去に起こったことである以上、いくら事細かに文献などが残っていても、真実を知るものは現世に一人もいない。それは決して悲観すべきことではなく、僕等が想像できる余白を作ってくれているとも言えるのだ。
志半ばで刃に倒れた彼はどんな思いでこの世を去ったのだろう。
鎌倉で武家社会の礎を築いた彼は、どんな思いでこの地を見下ろしたのだろう。
手を真っ黒に染めながらも必死に鎌倉を守り抜いた彼は、どのように同胞たちと別れを告げてきたのだろう。
大河ドラマのような映像作品をはじめ、書籍や旅などを通して当時に思いをはせ、自由に妄想する。そのプロセスを僕は楽しんでいるのだなと、訪れた先々で合掌する度に痛感した。
きっとこの先、この旅路を振り返って色々な思いや発見があふれてくるのだろう。今はまだ見ぬその欠片たちに出会うのも、存外に楽しみだ。