新年早々仕事辞めた話
今日、あったかもしれない未来をまた一つ閉ざすことになった。
具体的に言うと、ついさっき「辞めます」電話を職場にしてきたところだ。
「また一つ」というより、それが辛い今残された最後の未来だったかもしれない。
けれど私は愚かなことに、微(かす)かな希望にすがるべきだったかもしれないのに、自らそれを終わらせてしまった。
なんで新年早々こうなったかというと、
年末12月に入社→研修中に体調不良で出勤できなくなる
→そのまま大晦日になってしまい言いそびれる
といった理由だ。
職場には役に立てなかった上、退職手続きという手間を掛けてしまって非常に申し訳ない限りだ。
そもそも年末に来ること自体がいい迷惑だっただろう。
本当にこれで良かったのかな。
12月下旬の年末から大晦日まで、世間がクリスマスやら紅白やらで浮かれる最中ず〜〜〜〜っと考え何度も悩み続けた末に出した結論にも関わらず、
「本当にこれで良かったのか」。
後悔は消えない。
念入りな下調べをした上で、みずから志願した職場に晴れて採用してもらったにも関わらず、
どうして自分からせっかく掴んだチャンスを(結果的に)ふいにしてしまったのかというと、
研修2日目で環境に対して拒絶反応が出てしまったからだ。
「何かが違う」と思ってしまったからだ。
そして何より、教育担当でもない歳下の学生バイトから「使えない奴だ」と直接帰り際に言われたことをきっかけに、もし無事に研修を終えたとしても
「自分はここで役に立てないのではないか」
と疑問を持ってしまったからだ。
2週間悩んだ末に私は、
「これ以上時間をかけて先延ばしにしても結論は変わらない」
「このまま体調不良で休み続けても職場に迷惑が掛かる」
「休みがちな人間に対して良い印象を持たれるはずがなく、(仮に復帰したとしても)余計に居づらくなるだけだ」
そう考え、先のように電話で一報を伝える決心をしたのだった。
そう、無理をして「ここで復帰して巻き返す」ことも出来たのだ。
しかし、今までの経験則からか、それとも鬱傾向ゆえか。それすらも「虚しい」と思ってしまった。
「このまま頑張っても未来はないんじゃないか」
と思ってしまった。
まさしく「無駄に失敗の年月を重ね生き続けてきた末路」だった。
今の私にはもう、何も残っていない。
将来性も、生活資金も、学生という特権も、若さゆえの滾(たぎ)るような熱意、体力も、唯一の取り柄でもあった忍耐力、諦めの悪さも。
ぜんぶ刹那(せつな)的で衝動的な理由で捨ててきてしまった。
Alas(アラース), そこにあるのはただ側(はた)から覗くのもおぞましい、無駄に歳だけを重ねた醜悪(しゅうあく)な鬱ニート。
成功体験を知らぬまま前に進んで来てしまった、虚(うつろ)で悲惨な哲学ゾンビの末路。
人を惹きつけるカリスマ性も、人を楽しませる話術も、
はたまた何かに特化しているような特筆すべき才も、
私は持って産まれなかった。
それらを兼ね備えた恵まれた人たちは、最初から天の上の人たちだった。羨ましいとは幾度も思ったけれど、嫉妬に狂うほどの熱意はなく、ただ他人事のように映った。直接関わる機会もなかった。
私は「努力」という言葉が嫌いだ。
なぜなら努力とはハイリスクなギャンブルだからだ。
聞くに努力とは、「正しい方向性で」成されない限り結果につながらないらしい。
そして間違った努力というものはそもそも「努力」とは認められず、「徒労」とか「ただ頑張っただけ」になるらしい。
実際にそういう人は私の他にもいたけれど、
今はどこでどうしているのやら、知る術がない。
私は不器用で、「正しい方向性の」努力ができない。
だから情けない話、私は努力というものを「知らない」。
或(ある)いは「教わってこなかった」。
「努力」も、「未来」も、「美しい星」も、
私の視野の著(いちじる)しく狭(せま)い目では生きているうちに見ることができそうにない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?