随想|闘魂!ブラディ・ファイト1991
kentaro fujitaは、事務職のかたわら、詩、エッセイを執筆、現在、Amazon Kindleで自身の執筆30年を記念した詩集『GROUND』を発売中。この公式noteでは、好きなひとや大切にしていることなど、誰の役にも立たないしょーもないことをお届け、たまーに、空を見たかいと、あなたのとなりで寄り添える姿になりたい。
年末年始の過ごし方
1991年末、私は祖母の家で年越しを迎えていた。1990年末からは、祖母のところで過ごしていたが、紅白歌合戦の途中で離れに移動しカウントダウンもせずに寝る、あまり変わらない普通の日である。
番組表が掲載された雑誌をみていたところ、12月31日の深夜にサザンオールスターズの年越しライブがあると書いてあった。
しかし、祖母の家はビデオなんてなく、私が離れで見ていたテレビも30センチ四方の小さいテレビでありアンテナを調整してやっと見える程度であった。CDラジカセも重くて持ち運べなかったので、カセットテープを持ち込み、古いラジカセで聴いていた。
年越しライブをどうしても見たいが、そのチャンネルの電波が入らず映らないので、祖母の道を挟んだ裏の家の方にビデオテープを渡して録画を頼んだ。嫌な顔をされたが、何とか録画はしてもらえた。
内容は、1991-1992年の年越しライブ「闘魂!ブラディ・ファイト」である。プロレスとロックを融合したと、横浜アリーナで開催された。今回は、ライブレビューをお届けしたい。
ちなみに、この頃のライブはまだ、イヤモニを着けておらず、この広い会場でも耳でテンポ取ってたのかな、ほぼ基本に忠実なアレンジなので、体の感覚であるのか。また、モニターの歌詞を見ながらではないため、桑田さんが前を見て歌っている時期なところも、見どころである。
ロックな前半戦とビートルズ
ビデオテープの画質が落ちるほど見て、カセットテープに音源だけ録音して何度も聴いた記憶の限りと、セットリストを基に、振り返ってみたい。
アナウンサーが「激動の1991年も、残るところ、残り10分少々となりました。文化の発信地、ここ横浜で…」と話すところから始まり、「ボディ・スペシャルⅡ(BODY SPECIAL)」(シングル)の演奏が始まる、「突然のクライマックス!でたー!」と、煽るコメントともに、お面とマントを付けて登場する桑田氏、大森氏のギターを弾く苦しそうな顔が素敵、ラストで、お面とマントを外す桑田氏、かっこよすぎる。今では、当時の桑田氏よりも歳上になったが、表現者としての姿を強く感じた。
きっと「ハイテク除夜の鐘」(アナウンサーのコメントより)への時間調整のような、松田さんのドラムソロを挟んで、この年に発表された唯一のシングル「ネオ・ブラボー!!」(シングル)へ続く。
カウントダウンであれば、1分くらい前から演奏が終わり、みんなでカウントダウンを見守るというのが、現在の通例であるが、当時(このとき)は、曲が終わり、残り3秒弱で年越しを迎えた。時間配分ミスではなく、きっと予定通りでこの時間だったのだと思われる。
CMを挟むと、ゆったりした曲が始まっていた。「ラーメン、ラーメン」と始まる「いとしのフィート」(アルバム『熱い胸騒ぎ』)である。ここまで聴いたことがなかった私は、衝撃を受けた。サビが「お正月、お正月」で落とすロックバンドがあるだろうか。今でも好きな曲であるが、この演奏感のバージョンが気に入っている。
「悪魔の恋」(アルバム『SOUTHERN ALL STARS』)である。ギターロックが好きなので、
関口さんが休んでいたため、ベースは根岸孝旨氏が担当していて、間奏の始まりで、「でーでっ、でーでっ」と始まり、ベースを弾き倒して、「根岸孝旨ーー!」と桑田さんに紹介されて、曲の途中でCMに入ってしまう。この完全版を聴けたのは、まだ先のライブであったのでまた探しておきたい。
ちなみに、根岸さんって、この頃から、サザンでは「エロティカ・セブン」(シングル)くらいまで、桑田佳祐氏の『孤独の太陽』(1994年9月)にもクレジットがあった気がする。奥田民生さんのサポートやYMOのレコーディングメンバーをやってて、Coccoさんのプロデュースは知ってたけど、サザンサポートから離れても見かける名前であるが、「悪魔の恋」のベースプレイは素晴らしい演奏であったので応援している。
セットリストや他の方の投稿と比較して合わない部分があるが、サザンとビートルズの曲をメドレーがあり、「合体っ!」(直前のMC)とあった。
当時まだビートルズを聴いていなかったので、サザンに近いと衝撃を受けた。ポールの曲が多い気がするが、今でも人生の好きな曲10には入る「I Am The Walrus」(アルバム『Magical Mystery Tour』、ジョン)や、「Nowhere Man」(ラバーソウル、ジョン)も歌われた。サザンでは「政治家」(アルバム『SOUTHERN ALL STARS』)をやったのも歴史を感じるが確かに曲調は合う。この録音テープを聴きながら、ビートルズ部分の歌詞を替え歌っぽく書いてたし、友人のMY氏の兄がビートルズのアルバムを全揃えしていたので今回の曲が入ってるアルバムから聴き始めた。個人的には中期のエキセントリックさが好きで、桑田さんが良く話題に挙げていた、ジョンレノンをと合わせて別で書いてみたい。KUWATA BANDの『ROCK CONCERT』(1986年12月)での「Hey Jude」(ビートルズ、ポール)で知っていたり、当時のNHK-FMのラジオ番組で弾き語りしてくれていたので、桑田さん経由で少しながらビートルズをたしなんでいた。
君だけに夢をもう一度
そしてまたCM明けに、新曲をと「君だけに夢をもう一度」(当時未発表、シングル「シュラバ★ラ★バンバ(SHULABA-LA-BAMBA)」、アルバム『世に万葉の花が咲くなり』)を初演奏。
何かの機会で書いたが、歌詞が分かりやすかったので、書き起こしたことと、当時中学3年生で、中学には生徒の詩や書いたことを通りすがりの黒板に書いてくれるという機会があった。中学3年の春休みから書き始めたので、何度か黒板に書いてくれたが、1992年の年明けに「君だけに夢をもう一度」という題名で詩を書き、黒板に書いてくれと先生にお願いした。
当時の国語教師は願いを叶えてくれたが、「前半と後半で詩の構成(テイストや表現)が違うので、テーマはひとつに絞ったほうがよい」とアドバイスをくれた。しかしそれは受け入れることができず、作品の中で違う展開にすることを個性(作風)として、今でも信念であり売りであると折れていない。この言葉の構成が美しいことが分からないのかと、国語教師を超えたと思えた瞬間であった。その国語教師は、ある日、文章を書くことが宿題として出し、私は、「綺麗な花を咲かせるために」(今、思えば、サザンのアルバムに『綺麗』(1983年7月)があること、曲に「愛は花のように(Olé!)」(アルバム『SOUTHERN ALL STARS』)があるから既視感があったのだと思う。)という詩を書いたところ、その黒板に載せてくれたことが、はじめて詩で得た結果である。その後も宿題と称して、国語のノートに詩を書いて提出していた。
小学生の頃から否定され続ける形で生きてきたが、おそらくきっとはじめて理解してくれた教師であったと思う。詩を通じて理解してくれたので、今でも執筆しているのだと思える。話は戻るが、この曲の最後の、「ちゃー、ちゃららー、ちゃららー、ちゃららー」ってところは、ビートルズの「Here comes the sun」(アルバム『アビーロード』)なんですよね。
ちなみに、先行シングルとして発表された、シングル「シュラバ★ラ★バンバ(SHULABA-LA-BAMBA)」(1992年7月)は、当時、docomoのCMソングであった。フジテレビ系列のテレビ局で、「笑っていいとも!」という番組があり、12時52分頃のCMで登場していた。発売前からオンエアしていた気がして、ラストサビの「パラディディソ、パラダイス」あたりが使われており、今までにないすごい曲が来たなと思った。
また、あまりエピソードとしては言いたくはないが、高校生の頃、いわゆる陰気であるにも関わらず、無謀にも生徒会役員(副会長)に立候補した。意味もなく紹介文に「修羅場穴場女子浮遊」というフレーズを使い、全校生徒の前でのスピーチでも、このフレーズとともに意味の分からない話をして、結局、落選。当時、おそらく600人くらいは生徒はいたが17票あたりで大落選した。投票結果が放課後の校内放送で聞いたが、忘れてしまった、黒歴史のひとつである。
いい意味でぎゅっと詰まったお決まりな後半戦
「ミス・ブランニュー・ディ(MISS BRAND-NEW DAY)」(アルバム『人気者で行こう』)から始まる後半は、「マチルダBABY」(アルバム『綺麗』)も同じく、1991年秋に実施した「THE 音楽祭1991」のアレンジを踏襲している。今では、後半パートはお祭り騒ぎな演出になっているが、モニターもないこともあり、音を届ける情熱を感じる。
「みんなのうた」(シングル)、今のようにovertureと呼ばれる別メロディではなく、「このむーねに」とサビをアカペラで歌い上げて、Aメロに入る展開。まだ、新曲と呼べる範囲であったと思われる。歌詞のことは、私自身はあまり気にしてない。Dメロ、ラストサビ前「熱い波がまた揺れる」が、「てってれ、てーれ、てってれってー、愛を止めないで」と原さんと聴かせるところがあって、しばらくこのバージョンで続けると思うんです。もう何年か後に、カラオケで歌うときに、こう歌いたくて仕方なかったですね。
「フリフリ'65」(アルバム『SOUTHERN ALL STARS』)では、オープニングで話していたロックとプロレスの融合が登場する。2サビの後、国語の教師を経てプロレスラーとなった、馳浩選手(この後、石川県知事を経て国会議員となる)が登場して、やっとオープニングの伏線を回収したのです。蝶野正洋選手もVTRで出演して、桑田さんが蝶野選手に竹刀を突きつけるって、今だと、大物同士のやりとりになるのですが、当時だからこそできたのでしょう。「けつかんのう…かもんじゃ」と締めくくり、ビートルズの「HELTER SKELTER」(アルバム『ホワイトアルバム』、ジョン)に繋がる。ビートルズを歌う桑田さんはかっこいい。Mr.Childrenが「フラジャイル」(1995年8月)という曲で、オマージュしてて、これは!と思うのはまだ先のこと。
そして最後は「勝手にシンドバッド」(アルバム『熱い胸騒ぎ』)への繋ぎも、よく使っている繋ぎで、ぐいっと行く感じですね。コールアンドレスポンスも最近のやり方と同じ感じで、でも、今みたいに、ばーんと締めず、エンドロールでメンバー紹介して終わりという流れで、お祭りサザンではなくロックを聴かせてもらうライブであった。これもしかしたら、何日か公演をしていたので、生放送と録画をどこかで切り替えてたのかもなと思ったり、事実は当時の記憶のままだけど、素晴らしいライブのひとつである。