石巻

【いつか来る春のために】❹第二章 加奈子の想い出編  黒田 勇吾

 

              第二章

 加奈子が車で牧野石駅前の駐車場に着いたのは朝の九時をまわったころだった。雲はあったが、太陽が牧野石市役所の左手に昇っていた。風はあまりない。良し、幸先良好、と加奈子は思いながら車からベビーカーを出して組み立て、車の助手席の光太郎を抱っこして乗せた。光太郎に厚着をさせてきたけどちょうどいい天気だな、と加奈子は思いながら散歩の準備を終えるとゆっくりと駅のほうへベビーカーを押して歩き出した。
 加奈子にとっては今日のこの街中の散歩が思い出旅行のようなものだった。加奈子の生まれた中押三丁目の実家はここから歩いて十分ほどの場所。隆ちゃんからプロポーズされた森石漫画館の中州はそこからすぐ近くだった。あの祭りの夜の大切な思い出を今日は確かめに来た。そして光太郎にその風景を見せてあげるのが今日の目的だった。そしてもう一つ大切なことも・・・。

 隆ちゃんと何度この道を歩いただろう。出会って初めてのデートもこの道を通った。私が小さかった時からこの駅前通りと立河のアーケード通りは友達といつも遊んだ場所だし、学校の通学道路だった。久しぶりに来てその変わらぬ駅前の風景に安堵しながら交番の前の横断歩道を渡った。

市役所の前には仮面ライダーの像が立っている。どこかから来た観光客らしき人たちがその前で記念撮影をしている。左に曲がって交差点を渡り右にゆっくりと歩いていくと、サイボーグ009の像が見えてくる。いつかのデートでここで写真を撮ったっけ、と加奈子は思った。そのとき隆ちゃんは、サイボーグ000は僕のことだ~、と冗談を言った。えぇ9人しかいないんじゃないのと言ったら、その十人目が僕なのだ~、と言って私を追いかける仕草をした。私はわざと走って逃げながら、じゃぁ隆ちゃんは人間じゃないのね、と叫んだら、下半身だけ人間で~す、と下らぬ冗談を言ってわたしを笑わせた。近くを通ったおばさんが変な顔をしていたのが忘れられないな、と加奈子は思い出して噴きだした。ベビーカーの光太郎がこちらを見て笑った。光ちゃん、あなたのお父さんはとにかく面白い人だったのよ、と光太郎に話しかけた。光太郎がいつもの、あはぁ、という笑い声をあげた。ご機嫌がいいときの笑い声に加奈子は思わず微笑んだ。

 立河通りのアーケード街を南流川方面に向かってゆっくりとまた歩き始めた。地方銀行がいくつかぽつぽつと建っているが、ここはもうシャッター通りから駐車場通りに変貌してしまった。個人経営のブティックや飲食店などもあるけれど、何か物悲しい。寂れてしまったという言葉がぴったりの道。もうこのまま以前のような活気のある商店街に戻ることはないのだろうか。残念だなぁ、というのが地元で生まれ育った加奈子にとっての率直な感想だった。

 お父さんがいつか言っていたなぁ。僕たちが高校生の頃はここの通りが牧野石の繁華街で、地方からやってくる客や漁師たちが、がやがやと歩いていてそれは賑やかだったんだ。大きなスーパーもいくつかあったし書店もあった。喫茶店は高校生でいっぱい。そんな華やかな場所だったんだよ、と。時代の流れはどうしようもないのかな、さびしいけれど。そんな思いを抱きながらミドリ屋楽器店を右に見やって松栄丸本店の交差点を右に折れた。そこで一度立ち止まり、哺乳瓶に入れてきた白湯を光太郎に飲ませてから、おむつが濡れていないか確認した。毛糸の帽子をかぶっているので寒くなさそうだ。加奈子もバッグからペットボトルのお茶を取り出して一口飲んだ。
 左を行って三丁目をしばらく戻ると私の実家があったところに行けるがそこにはもう家はない。地震と津波で全壊し、今は蛇川地区に土地を買って家を新築し、兄夫婦と両親が四人で暮らしている。
「加奈ちゃんじゃないの!」不意に横から女性の声がした。見ると幼馴染の真理ちゃんだった。洋服屋の真理ちゃん。小学校から高校までずっと一緒だった懐かしい笑顔があった。

「加奈子ちゃん、久しぶりぃ、買い物か何かで来たの?」真理ちゃんは大きな声でそう言ってから、うわぁ光太郎君、かわいぃ、とベビーカーを覗き込んだ。
「真理、元気だった?光太郎はもう六か月目なの。お父さん似で~す」加奈子はいつもうるさいほど元気な真理ちゃんに笑いかけてから、一緒にしゃがみ込み、ベビーカーを押さえた。ひとしきり子供の話で盛り上がった後、加奈子は真理ちゃんに聞いた。
「お店、再開したって聞いてたんだけど、よかったね」
真理ちゃんはありがとうと言ってから
「この界隈もずいぶん変わってしまったわ」と急に声のトーンを落として応えた。
「この一年で廃業したところもかなりあるし、いまだに再開できないお店も結構ある。復興なんてまだまだ。復旧さえもう無理だし、とにかくある意味で震災の打撃を受けたのはこの辺りが一番だと思う。飲み屋街もまだ再開していないところがずいぶんあるの。とにかく人がいなくなったという感じね」
「そんな中でのお店の再開、勇気が必要だったでしょうね」
「加奈子ちゃん、負けたらおしまいだもん。うちは津波の時家族みんな無事だったから、みんなでもう一度頑張ろうって結論出して、ようやくお店再開で~す」真理はVサインを出して笑った。しかしすぐその笑みを消して
「ごめん、加奈子ちゃんの前で家族の話をして・・・と真顔になってぺこりと頭を下げた。
「真理、あぁ、気にしないで。うちはもう立ち直って元気で~す。光太郎もこうして順調に育ってるし、いつまでもめそめそしていられないしね。前を向いて歩きだしたから」加奈子は笑顔でVサインを返した。
「そっか。なんかほっとした。あっ、加奈子ちゃんごめん。今からお客さんのところに行くんだ。明日十時半、行くからね。その時ゆっくり話そ」真理ちゃんは胸の前で手を小さく振り、明日ね、と言って三丁目のほうに歩いて行った。加奈子は手を振りながら、大変な中でも元気いっぱいの真理だな、と思った。彼女にもずいぶん心の支えになってもらった。あぁ、私はこの一年間、いろんな人に守られてたなぁ、と思いながら遠ざかっていく真理の後姿を一時見つめていた。

再び歩き出して次の交差点を左に曲がった。通称 川通りの道。ここを百メートルほど行くと南流川にかかる内瀬橋がある。加奈子は交差点を曲がったところでまた足を止めた。一昨年の夏、祭りの日、ここで隆ちゃんが金魚掬いをやったんだよね。忘れられない場所。

あの日二人で何気なく金魚掬いをしているのを見ていたら、隆ちゃんが、加奈子おれもやるから付き合って、と急に言いだして金魚掬いのおじさんにお金を払った。そしてしゃがみ込んでお椀のような最中で作ったポイで真剣に金魚を掬い始めた。見ていると赤い金魚には目もくれず、黒い大きな一匹の出目金ばかりを狙って必死になっていた。ポイが壊れるともう一回といってまたやり始めた。隆ちゃん、出目金は難しいってば、と言うと、うんと答えながら相変わらず一匹の大きな出目金だけを狙い続けていた。8回くらいでようやく目当ての出目金を掬った時には真剣な顔だった隆ちゃんが子供の笑顔になって、私に加奈子やったぜ、とVサインした。私は少し怒った顔をした。そんなにお金を使って、と私がなじったら、ハハハと笑ってビニールに入った出目金を見つめた。それから内瀬橋を渡って森石漫画館に到着したとき、何をするのかと思ったら、漫画館の向こうの広場まで私の手を無理やり引いて、川のほとりでしゃがみ込んだ。そして私に言った。夕闇が迫っていた。たくさんの人が夜の花火大会を見るための場所取りをしていた。

「加奈子、この出目金ね、さっき俺が見たとき、私を掬ってと話しかけてきたんだ。それでこの子をあの狭い水槽から救ってあげたってわけ」
「隆ちゃん、出目金が話すわけないでしょ」と私は呆れて隆ちゃんを見た。
「いや、確かに俺を見上げて、私を助けてと話しかけてきたんだ。この出目金は雌だった」私は思わず噴き出して笑った。そんな私のことは気にも留めず、南流川のほとりまで下りていき、出目金をそっと水辺に逃がした。そのあたりを出目金は泳いだ後やがて見えなくなった。それを確かめた後で振り返り、満足そうに私を見つめて少し真剣な表情で隆ちゃんは言った。
「何か大切なことをするときは、善いことをやってから行うと必ず成功するって、おじいさんが言ってた。それを今しました」

「え、これから何か大切なことをするの」私が訊ねたら、あとでわかります、加奈子、もう少しその辺を歩くべ、と私の手を握った。その夜、花火が上がっている空の下で隆ちゃんは私にプロポーズをしてくれた・・・
 加奈子は金魚掬いをした思い出の場所からゆっくりと内瀬橋に向かってまた歩き始めた。少し涙がでそうだったが我慢した。今日は絶対に泣かないと決めて来たのだ。

ここは一方通行で狭い道。端っこを歩きながら光太郎に話しかけた。光ちゃん、今からお母さんがプロポーズされたところに行くからよく見といてね。ベビーカーの光太郎に話しかけたら、いつの間にか眠っていた。あら、と思いながらかけている毛布をそっと直した。光ちゃん、寝てたら見れないですねぇ、と呟きながら加奈子は川瀬通りの交差点を渡って内瀬橋の緩い坂をのぼった。橋は50メートルほどのスロープになっていて真ん中が少し高い。目の前の右手に漫画館があって、そこは南流川の河口にある中洲になっていた。プロポーズされた場所は漫画館の左手の中州の神社があった広場。畳屋さんの横の坂を下りていき、すぐに突き当たりの狭い神社があって、そこであの日花火を見ながら告白された。

しかしその神社は今はない。津波によってすべて流され、削られ、その場所は今小さな湿地帯のようになっている。だから今は下りていくことができない。加奈子はその変わり果てた思い出の場所の前に立ってあの日の光景を思い浮かべた。

かつてのやしろ跡


 隆ちゃんと私は花火が始まった7時半には社についていた。周りには花火見物をする家族連れや恋人たちがたくさんいた。あちこちで歓声が上がっていた。しばらく座って花火を見ていた隆ちゃんが急に立ち上がった。
「加奈子、中洲って南流川に浮かぶ大きな船のようだべ。この俺たちがいる場所はその船の甲板と同じだと想像してみて」隆ちゃんの言葉に確かに言われてみれば中洲は南流川の上流に突き進む客船のような形をした子島だと思った。
「加奈子、立って目をつむってけろ。俺たち二人は映画のようにタイタニック号の先端に今立ってる。どう、イメージできっか?だから目をつむってみてよ。俺はレオナルド・デカプリオ、加奈子はお相手の女優。名前なんて言ったかなぁ、まあいいや。それで二人はここから新たな旅立ちをするんだ」
「うん、イメージはできたけど、映画では二人きりでしょう」
「そりゃそうだけど、今は周りの人は無視してけろ、そのまま目をつぶっててね」そう言うと隆ちゃんは私の後ろから両手を回してそっと抱き寄せた。そして耳元で言った。それは花火の音でかき消されないで加奈子の心に届いた。
「空に咲いた花火は美しいよね。でも地上のなかで一番美しいのは加奈子だ。今日から二人は新しい人生に船出する。一生離さないから俺と結婚してくれ」そして私の手に何かを持たせた。私は少し涙目になりながら目を開けてみると、金色のリボンがついた小さな箱だった。涙でリボンが虹色に霞んで光った。開けるとダイヤのリングが花火の明かりで見えた。私はわっと泣いてしゃがみ込み、隆ちゃん、ありがとうと言った。隆ちゃんは結婚してくれるよね、とあらためて確かめた。私は振り向いてその眼を見ると頷いた。声がかすれて返事ができなかった。そのとき立て続けに花火が空に輝いて周りから歓声が上がった。。。。。

 加奈子は川の流れに目をやった。あの時隆ちゃんは、私を一生離さないと言ったんだよなぁ、とぼんやり思った。社があったあたりに上流から流れてきた水が渦になって小さなしぶきを上げた。少し風が出始めたのだろうか。ふとベビーカーの光太郎を見るといつの間にか目を覚まして私を見ていた。光ちゃん、起きたのね、と声をかけておむつを確かめてみるとちょっと濡れていた。そうだ、漫画館でトイレを借りようと思い道を渡って中に入った。工事中だったが、守衛らしき人にお願いしてしばらくそこで休憩させてもらうことにした。そしてタンブラーに入れて持ってきたミルクを光太郎に飲ませはじめた。中洲で津波に流されなかった建物はここだけだったんだよなぁと周りを見渡した。十五分ほどで光太郎が180mlのミルクを全部飲んで笑った。お腹いっぱいになりましたか、よかったですね光ちゃん。あと一か所で終わりですからねぇ、と声をかけてまた立ち上がった。

外に出ると、日差しが少し翳って雲が多くなっていた。加奈子は早足になりながら漫画館の向こうに向かって行き、そこにある椅子に腰かけた。ベビーカーのストッパーを押して動かないのを確かめてからボックスから小さな直方体の手作りの灯篭を出して、そこに準備してきた手紙の封筒を入れた。手紙には、プロポーズの時に指輪の箱に巻かれていた金のリボンを巻いてきた。光ちゃん、ちょっと待っててねぇ、と声をかけてから、加奈子は水辺の近くまで階段を下りてしゃがみ込み灯篭をそっと川に浮かべた。薄紅色の紙づくりの小さな灯篭がゆらゆらと揺れながらゆっくりと川下に流れ始めた。加奈子は立ち上がって流れていく灯篭に向かって手を合わせ祈った。

(隆ちゃん、ありがとう。幸せな思い出をありがとう。光太郎は元気に成長しています。お母さんもずいぶん元気になりました。あなたに最後の手紙を書きました。どうぞ読んでくださいね。私と隆ちゃんの思い出と、あの日のことと、これからの私の想いを書きました。どうかいつまでも光太郎と私とお母さんの三人を見守っていてね)
 そうして加奈子は川面を下流へと遠ざかっていく灯篭を見つめながら溢れでそうになる涙をこらえた。灯篭は昼の光に照らされて時折きらきら輝きながら、揺らめいてやがて小さくなっていった。
 加奈子はしばらくぼうっと立っていたが、不意に目をきつく細めて川下の灯篭を睨み返すと、意を決したように振り返り、ベビーカーのあるベンチへ歩き出した。

           加奈子の手紙
 前略、隆ちゃん、元気ですか。もうすぐお別れして一年が経とうとしています。今仮設住宅のお部屋ではあなたの子供、光太郎がすやすやと寝ています。こうしてあなたに手紙を出そうと思ったのも、あなたがいなくなってからの激動の日々をあなたにご報告することと、あなたとの忘れ得ぬ二年あまりの日々を心の中で整理して、新しい出発をしようと思ってペンを執っています。
あらためて出会いからいろいろ振り返ると本当にいろんなことがあったんだよなぁと感じます。思い出がたくさんありすぎるよ、隆ちゃん。
 隆ちゃんとの初めての出会いを思い出すと、今でも腹が立ってくるよ。
三年前になるのかな、牧野石駅前の午後の広場で初めて隆ちゃんと出会った。夏の暑さが一段落して、ようやく涼しい風が吹き始めた頃だったよね。看護師だった私は仕事を終えて駅前を歩いていた。家に帰る途中でちょうどバス停の前だったわ。土曜日だったから診療は午前で終わって、一時ごろだったかな。突然歩いていた私の右肩に何か飛んできてとまった。えぇ、と驚いて肩を見ると大きな茶色のカマキリがこちらを見ていた。私は叫んだ。随分大きな声だったと思う。大の虫嫌いだった私が特に苦手なカマキリ。どうしていいかわからなくなり、だれか~と助けを呼んだ。すぐに近くにいた若い男性が近づいてきて、私の右肩にとまったカマキリを捕ってくれた。わぁ、助かったと思ってその男性を見たら、肩に虫かごを懸けていてその中に素早くカマキリを入れた。その時のセリフ今でも忘れない。
「お嬢さん、失礼いたしました。僕の友達の茶太郎がカゴから脱走を図りました。ご迷惑をおかけシマウマ」隆ちゃんは私を見て笑った。まったくなんで笑ったのよ。今でも腹が立つよ、隆ちゃん。それになによ茶太郎って。おまけに最後がシマウマって寒いギャグ。
「ちょっと、そのカマキリあなたのだったのですか。ちゃんと管理してください。何で駅前でカマキリに襲われなくちゃならないのよ」って怒ったんだけど、あなたの格好を見てなんだこの人少し変人っぽい、と思って引いちゃった。野球帽をかぶり、緑のTシャツに茶色の半ズボン、そしてコンバースのシューズ。肩に下げた虫カゴ。まるで小学校の子供じゃないの。
 そのあとの謝罪と言い訳を聞いて少しは納得したけど、本当に変な出会いだったわ、隆ちゃん。
「すいませんでした。私は小学校の先生をしていまして、今日は子供たちと電車で鹿山まで虫取り課外授業をしてきたんですよ。先ほど解散したばかりです。ご迷惑をおかけしました」その丁寧な謝罪に納得して、あ、意外とまともな人なんだと思ったけど変な気分だったわ。やはり危ない人かな,と思ってすぐにその場を去ったけどね。
 そして次の週の土曜日、医院で仕事をしていたら隆ちゃんが診察に来てて、あ、あのへんな人だと思った。私の顔を見たら、やぁ、と手を上げて笑ってるし、やだこの人ストーカーと思った。だってなんで私がここに勤めていることが分かったのか不思議だったから。風邪で診察に来たんだ、と一言だけ言って
またね、と馴れ馴れしく手を上げて帰っていった。それから毎週土曜日、三回も続いたわね。隆ちゃん、一か月も風邪ひいている人いるわけないじゃない、まったく。四回目の日、医院の仕事を終えて外に出ると、あなたが何気なく駐車場で待っていた。そして何故かスーツ姿に着替えていた。
 へぇ、意外とかっこいいんだ、と思った私の心を見透かされたのかなぁ。

あなたはすたすたと寄ってきて、ええと、なんだったかなぁ、そうこう言ったんだ。私は山内隆行と言います。この近くに住んでいます。先月の駅ではご迷惑をおかけしてすいませんでした。お詫びといってはなんですが、私の好きなブラックフライデーというロックグループのコンサートが牧野石市民会館であるんですが、一緒に行ってくれませんか。たぶん楽しめるかと思います。って私をナンパした。ブラフラの歌は私も好きだったからよく聴いていた。何で私の好きなミュージシャン知ってるのかなと思ったけど丁重にお断りしたら、ブラックフライデーは今年いっぱいで解散するんです。ボーカルがソロになるということなんです。これが最後のチャンスです。永遠にもうライブは聴けないんです。それでもいいんですか、と脅しとも取れるわけのわからない誘い方をしてきた。それがなんか可笑しかったんだわ、隆ちゃん。というか私はなぜか隆ちゃんに惹かれている自分がいることに気づいてた。不思議だよね、恋って。カマキリの赤い糸が縁した二人。私は押し切られる感じでOKしてしまったんだなぁ。それが隆ちゃんとのお付き合いの始まり。
 隆ちゃん、あなたとのデートはいつも楽しかったわ。夏は昼顔海岸に海水浴にも行ったし、双方の家族で牝鹿半島にもキャンプに行ったわね。忙しいときは街をぶらぶらしただけのデートもあった。いろんな思い出がたくさん私の心にしまってあります。そうそう八木山動物公園にも行ったけどやはり一番の思い出は、鳴子温泉の旅行かな。
 震災の前の年の夏に隆ちゃんから婚約指輪をいただいて、そのあと双方の家族にご挨拶して晴れて公認の仲になった。翌年の三月の挙式の日取りも決まり、二人であの冬に婚前旅行で行った鳴子温泉。それが二人の最後の旅行だったね。
 牧野石を車で出発して古川を過ぎたあたりから雪が降ってきてロマンチックだった。このままスキーに行くのもいいかなとか言ったっけ。あの鳴子OOホテルのバイキングは美味しかったなぁ。私がお膳タイプのお料理が苦手なのを分かっていて、バイキングのあるホテルを選んでくれた。そのあとの温泉も素敵だった。家族貸切用の露天風呂もあって二人でふざけたよね。まぁでもこれは隆ちゃんと私の二人だけの秘密かな。

その次の日の朝は驚いた。夜中に降った雪が一メートルくらい積もって、一面の銀世界。雪は朝になっても降りやまず、その日行くはずだった鬼首への道が通行止めになって、結局どこにも行けずにホテルで二人ゆっくりと過ごすことになった。その時ひとつ約束したの覚えてる、隆ちゃん。
 隆ちゃん、あなたから言ったのよ、子供は三人作ろうねって。僕は一人っ子だから正直とても寂しいことがいっぱいあった。おまけに母子家庭でお母さんが仕事で居ないことが多くてどんなにさびしかったことか。これはお母さんには言ったことがない。母が悲しい思いをするのが分かっていたから。だから子供は少なくても三人は欲しいんだ。兄弟姉妹がいれば親が不在の時も子供にはさびしい思いをさせなくていいからって。
 隆ちゃん、あなたから言ったのよ、
 隆ちゃん、あなたがそう言いだしたんだから。その約束を破ったことだけは、私怒ってる、今でも、今でも・・・。
 だけどそれに負けないほど、感謝したいことはいっぱいあるわ、数えきれないくらい沢山。何といっても一番は光太郎を授けてくれたこと。あなたに対する最大の感謝です。私もお母さんも独りぼっちにならずに済んだんだもの。光太郎がいなかったら、たぶん私は一人になってどこかに住み、お母さんも一人ぼっちでどこかに住み、別れていただろうな。その私たちの絆になったのが光太郎なの。私もお母さんも光太郎が生まれてくるという希望で繋がったんだもの。大きな大きな希望になったのよ。ありがとう、隆ちゃん。幸せを残してくれて。

 結婚式の2011年3月5日はいろんな意味で思い出の日ね。私はすでにお腹の中に光太郎がいて、体調が一週間ほど前から悪くってほんとに皆さんにご迷惑をおかけした。披露宴の途中から私が具合悪くして退席してしまったのは隆ちゃんにもお祝いしてくれた皆さんにもほんとうに申し訳なかったと思っています。おかげで披露宴の後半の写真はほとんど残っていません。何より隆ちゃんのお母さんにご迷惑をおかけしたこと、今でも時々謝っています。せっかくのお母さんのご挨拶があまり盛り上がらないで終わったことをあとで病院のベットで父から聞いて本当に悲しかったわ。でもお腹の子に何の異常もなかったのがせめてもの救いかな。
 結局、式のあとの新婚旅行も私のせいで延期になって隆ちゃんとの大切な思い出をつくれないまま別れなければならなかったこと、本当にごめんね。振り返ると隆ちゃんに謝らなければならないことが多いみたいだわ。でも二年のお付き合い(正確には一年六か月だけど)で大切な思い出もいっぱい作れたし、隆ちゃん、私幸せです。本当にありがとうね。隆ちゃんも幸せだったよね。悔いはないよね。隆ちゃんに確かめるすべはもうないのだけれど・・・。

 隆ちゃん、この手紙で震災のあの日からのことを書くのは正直言ってつらいです。何もかもを流していった津波が今も憎いです。3・11からの何日間かを今も思い出すたびに哀しみがあふれ出して仕方ありません。でもここに書き留めて隆ちゃんに伝えるのが私のするべきことだし、心の整理をこの手紙を書くことで一区切りしたいと思っています。そしてあなたの行ったあの日の勇気と決死の行動を書き記すことが、なにかとても大切な私の使命だと思っています。この手紙は書き終えたらひとつはコピーして大切に保管します。光太郎にいつか読んでもらうために。そしてこの原本は灯篭に入れてあなたがいる海に流して、あなたにお届けしたいと思います。
 あなたは静かに眠っているでしょうか。いえ、隆ちゃん、あなたは心安らかに眠っていることでしょう。大切な教え子を救おうとして命をささげたのだから。

三月十一日は金曜日でしたね。あぁ、何で土曜日じゃなかったんだろう。しかも14時46分という時間の地震。悔しくてしょうがないわ。
 あなたは学校にいた。私は体調不良のため実家で休んでいて両親といた。あなたのお母さんはお仕事で内陸の古川に行ってたわ。そしてあなたの実家の北岬町にはおじいさんとおばあさん。とにかくみんなが別々の場所に居た時の地震。あの大きくて長い揺れの後、私はすぐにあなたの携帯に連絡した。すぐにあなたが出て、今学校の校庭に生徒たちを避難誘導中、落ち着いたら電話する、両親と一緒に安全な場所に避難しろ、身体は大丈夫か、今移動中だから後でまたね、と言って切れた。それがあなたとの最後の電話、あまりにも短い最後の一方的な会話。私は両親と一緒に急いで内陸の蛇川地区に車で向かった。その途中、隆ちゃんのお母さんから電話が来て、今から北岬町の実家に戻る、そちらは大丈夫なの、隆行は大丈夫ね、私が電話をしても出ないの。そんな連絡があった。それからお母さんとは、三日間連絡が取れなかったのよ、隆ちゃん。蛇川に着くころに雪が降り始めて、何か嫌な予感がして、隆ちゃんに何度も電話したけど、もうつながらなかった。私はそのあと気分が悪くなって、結局両親と一緒に牧野石病院に行って、三日間入院してた。病院に行った時のあわただしく駆け回る看護師さんたちとは裏腹に、妙に人が少ない病院の一階の静けさを今でも思い出すの。

 これからはその後一週間ほどの間に学校の先生や生徒その他の方の話を伺って分かったことを正確に書きますね。あの日、南風小学校では地震の後すぐに全生徒を校庭に集めて、一年生から順次裏山の日和ヶ山に上がった。全員の生徒を山に避難するのに三十分ほどで終了し、雪が降り始めたので大きなブルーシートを被って出来るだけ子供たちが濡れないようにしたそうだわ。その後今度は、津波がやってきてすぐに火災が小学校付近で発生して、牧野石市女高の校舎に全員を移動させ避難させたという。
 そして後から聞いて愕然とした。小学校の先生方のうち、津波が来る前に数人が卒業証書や大切な書類を取りに、山を駆け下りて校舎に戻った。その中の一人が隆ちゃん。やがて津波が押し寄せてからくも逃げて他の先生方は助かった。その先生の一人の証言によれば、隆ちゃんが受け持っていた一年生のクラスの一人が、風邪で午前中に早退したためすぐ近くだからその子の家に行って連れて戻る、と言い残して車で行ったのがあなたの最後の目撃証言。なぜその子のところに行ったかはあとで聞きました。なぜならその子は一人っ子の母子家庭で、お母さんがまだ帰宅していないことが分かっていたらしいから。普通は父母が学校に迎えに来れない場合は保健室で保護し、親に連絡が取れたら必要な措置を取るという取り決め。その子は熱がたいして無くて、連絡がついたお母さんの指示に従い帰宅させたという。隆ちゃんはその子の家に行って避難させるために、車で学校を出たのを一人の先生の証言で判った。そのあともう一度先生方が山に登る途中で津波が押し寄せてきたということだった。一人の生徒の為にあなたは危険を冒してその子の家に向かったんだよね。隆ちゃんらしい決断、、、。
 隆ちゃん、その子はちゃんと助かったわ。安心してね。その子のお母さんが急いで自宅に戻り、すぐに車で日和ヶ山に避難して無事だったの。あなたの、教え子を助けたいという一念がお母さんに通じていたのよ。
 隆ちゃん、私はその話をあとで聞いたとき、複雑な思いだった。あなたは行かなくてもいい危険を冒してあえて行ってしまったんだもの。たぶん助けようとした生徒さんは自宅にもういなかったんでしょう。そしてあなたはそのあとどうしたのだろう。確かに津波が来たときにはあの付近の道路は大渋滞だったらしいから、自由に動けなかったのかな。渋滞していた多くの車とともにあなたの車も津波にのまれてしまったのでしょうね。あの地域は多くの悲劇が生まれてしまった場所。悲しみの思いが詰まった場所になったわ。
津波の後の火災で次の日まであたり一帯が燃えて、何もかもが燃え尽きてしまった。家も車も、そしてたくさんの尊いいのちが悲しみの涙を流した場所になってしまった、、、。

あなたのお母さんはその後も雪が降る日も風が強い日も毎日、私の父やお兄さんに付き添わられながらあなたを捜していたのよ。そしてお母さんはやがて過労で倒れて一週間古川の病院に入院して叔父さんの家に帰ってきたときには、お母さんに抱きついて二人で泣いたわ。それが三月の終わりの頃、正確な日にちは今は思い出せない。
 そしてうちの両親とお母さんの判断でいったんあなたの捜索は中断することになった。あとは自衛隊や潜水の専門の方にお願いしようと決めたの。隆ちゃん、ごめんなさい。あの時はそうするしかなかったの。
 隆ちゃん、私があなたを捜せなくてごめんね。
 隆ちゃん、最後まで見つけられなくてごめんね。
 隆ちゃん、寒く冷たい思いをさせてごめんね。

 四月になり、五月になり、六月になりあなたの子供がお腹の中で大きくなるに従い、私の心は必ず丈夫な子供を産むという決意でいっぱいになっていった。それが私が今しなければならない最大の責務になっていった。暑い夏が終わり、秋風が涼やかになった満月の夜、私はあなたの子供を産みました。3216グラムの産声は、心なしかあなたの声に似てましたよ。大きな、優しい声でした。
 一番喜んだのはあなたのお母さん。この子に生きる希望を見出したのよ。自身のただ一人の孫だもの、当然だと思うし、そして私にとっても光太郎は生きる希望になりました。でもお母さんはその前に、別の希望をすでに見つけていたの。何度も南風町に通っていたお母さんが、六月のある日私に言ったわ。
 加奈子さん、今日もあの生徒さんの自宅跡に行ったら、そこに一つの花の芽が生えていたの、なんだと思うって私に聞いてきた。え、お母さん何のお花ですかって私が訊ねたら、にこにこ笑ってお母さんは言ったわ、向日葵よって。まだこんなに小さいけどあれは間違いなく向日葵。隆行の好きだった花。そう言って笑いながらお母さんは涙を流していたのよ。あなたが助けに向かった教え子の自宅跡に向日葵が芽生えているのを見つけたのって。お母さんはそれからほぼ毎日向日葵に肥料と水遣りに通ったのよ。そして私に毎日その成長の様子を伝えてくれたの。私は向日葵のことを話すときのお母さんの喜びの顔が、何よりうれしかった。お母さんの笑顔があなたの思い出の笑顔と重なって、ずいぶん勇気をいただいたのよ、隆ちゃん。
 夏になってそのたった一輪の向日葵が咲いたとき、次の日私たち家族みんなで見に行ったの。暑い日だったけど、隆ちゃんとお母さんの絆であるその花は青空の下で黄金の輝きを放って咲いていた。周りは一面雑草地。その中で向日葵は空に向かって立派に背を伸ばしていました。私は嬉しかった。まるであなたがここで元気にしているから心配ないよと私に話しかけているようだった。そして私はお母さんに言った。お母さん、よくここまで育てられましたね。隆ちゃんも喜んでいると思います。私も隆ちゃんの子供をしっかり産みます。どうかこちらのお世話もよろしくお願いしますって。お母さんはにっこり頷いてた。
 そして九月のはじめにそのひまわりの種を採取して乾燥させて、私にその中から25粒くれた。あなたの年齢の数よ。これを大事にしてね、どうするかはあなたに任せるからって。今この手紙と一緒にその種を封筒に入れてあなたに届けますから、そちらで大事に育ててください。きっと大輪の花が咲くのでしょうね。25輪の世話は大変だけど、向日葵博士の隆ちゃんなら大丈夫ね。

去年の十二月十一日にあなたのお葬式をいたしました。親族、友人だけが集まって、そっとさせていただきました。行方不明者の家族でまだ身内の葬式をできないでいる方は結構います。でも我が家はそれをひとつの区切りにして新たな出発を決意しました。光太郎は元気です。この子は私が責任を持って育てます。安心してね。
 長い手紙になりましたが、お別れです。ゆっくりお休みください。それでは、また明日、という言葉でお別れいたします。私たちのことをいつまでもお守りください。
          あなたの妻 加奈子より。

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 加奈子と光太郎が自宅に戻ったのは午後二時を過ぎていた。お母さん、遅くなりました、と声をかけて玄関を入ると、美知恵はお帰りと言って玄関に出てきた。
「曇ってきたから寒くなってきたでしょう、大丈夫だった?お買いものとかもできたの?」心配そうに美知恵は加奈子を見た。
「やること全部済ませてきました。ありがとう、お母さん。光太郎も元気です。心配かけました」光太郎を抱っこしながら加奈子が微笑んだ。光太郎が手を伸ばしたので美知恵が抱っこした。光ちゃん、お父さんにもちゃんとお別れ行って来たの?中洲は寒かったでしょう。あぁでもこんなに厚着してたら大丈夫ですよねぇ。美知恵は光太郎に笑顔を向けて問いかけた。光太郎は、あはっ、あはっと笑って美知恵のほっぺたを叩いた。
「加奈子さん、向日葵の造花は全部できたしみんなが好きだった善ざいの用意もできたわ。あとはゆっくり休憩しましょう」
「お母さんご苦労様でした。明日の準備もこれで終わりですね。私も隆ちゃんにちゃんとお別れの挨拶をしてきました。夕食のおかずとかも買ってきましたので、いっぷくしますか」加奈子は買い物袋などを整理しながらそう応じた。そして奥の部屋に行って、正座して隆行の写真に手を合わせた。写真の隆行は笑顔で加奈子を見つめていた。

 その日は夕方に自治会長が訪ねてきて少し打ち合わせをしたあとは、美知恵と加奈子と光太郎の三人でゆっくりと過ごした。夜にいくらか雪が降ったが積もるほどでもなく、やがていつの間にか止んで静かに夜は更けていった。

    第三章へつづく