絶対変われるよ!
エドカフェ31回
木村泰子さん、苫野一徳さんに加え、工藤勇一さんも初参加の神回!
参加者の皆さんの言葉より
(参加者のみなさんの熱のこもった言葉やワクワク感は是非動画でご覧ください!↓)
https://www.youtube.com/watch?v=s851EsV_SYc
先生が働けば働くほど子ども育っていない
泰子さん
まさに今のこの状態(エドカフェの現場)が学校の教室だったらどれだけ楽しい?!
みんなのことば聞いて自分の言葉が生まれてきて、それをどんどん重ね合っていったら、豊かなものが生まれてきて、こんな時間てすごーーーい楽しいじゃないですか?!これが学び。
でも、先生(自分も含めて)の「教えなければ!」がこれを奪ってしまう。
先生が働けば働くほど子ども育っていない。
先生たちがスリムになればなるほど子どもが育つ。
そこをみんなで問い直しをしよう!
この大好きなメンバーといっしょに自分をアップデートできるってこんな嬉しいことはない。
これ見て「〇〇さんだからできるよねー」って言ってる人山ほどいる。そうじゃなくって。人の意識変えるなんて洗脳者じゃあるまいしできるわけない。意識変えなくていいけど、行動変えよう。
一つでも自分の行動変えたら新たな自分が見える。
新たな目の前の子どもの育ちが見える。
これが学校っていうところかなって思う。みなさんもいっしょに行動変えましょ!
イスラエルにも希望の学校
一徳さん
「イスラエルも民主主義を土台にした学校作りをやるんだ!その教員養成の場に、パレスチナの学生もいて共に学んでいる。」という話を聞いてすごく希望を感じた。
「教育しかない!!」と、改めて教育の可能性を思った。
相手を敵にしたら社会つくれない
泰子さん
若い頃は「おかしいやろ?」ってつい相手を敵にしていた。でも工藤さんと出会って自分の行動変えれた。
心の中で「この人終わってる」って思っても、この人を敵にしたら民主主義壊れる。じゃあ対話して巻き込んでいくしかないよね?って。
工藤さん
頭の中では敵はいないと思って仕事してきた。
怒りはある。この人許せないと思う人は山ほどいた。
ときには人権を損ねるようなことされたら、自分を守らなきゃいけないからきちんと戦わなきゃならない時もある。
でも基本的には相手を尊重していく。
泰子さん
絶対変われるよ!
敵にしてしまう大人同士が、モンスターであったり、大人が大人のこと言ったり・・・それ全部子ども聞いてる。
ほめたくないのにほめる必要ない。
「自分は違う考えだ」とあたりまえに語ればいい。
でも敵にしたら社会はつくれない。
戦争し続けて苦しんで苦しんで苦しんだ結果の民主主義
工藤さん
パレスチナとイスラエルの問題
「もっと思いやりもったらいいのに。」「人の気持ち考えて行動したら平和になれるのに。」と思ってる人多い。
でもそれは民主主義じゃないってことがわかっている人少ない。
「心は自由だ」といいながら、「みんなちがっていい」っていいながら、「心ひとつにしよう」と平気で言う。これは同調圧力、同質性の教育。「みんなちがっていい」とは正反対のことば。これを同時に使う。
平和を考えた時、みんながやさしい心もてば解決できるというのは日本的な考え。
ヨーロッパは、2〜3万年戦争し続けてきて、ようやく見つけたイデオロギーが、民主主義。感情と理性をきちんと切り分けて、ものごと理性的に考えて、みんなが持続可能な社会をつくるには?どう理性的に考えれば平和になる?っていうこと。
恨みつらみ(感情)を消すことはできない。
たとえばパレスチナの方たちは今憎しみだらけ。
その憎しみを消すことはできない。どうにもならない。でもみんなが持続可能で平和な世界つくるために握手しないか?って。この握手するってところだけ合意できたら、それを実現するための手段についてみんなで話し合おう。というのが民主主義の考え方。
でも日本は理性と感情を切り分けられない。心を大事にすれば、心豊かにしたら平和がくると平気で言う。でもそんな、なまやさしいものじゃない。
ものすごい戦争をし続けてきて、苦しんで苦しんで苦しんだ結果として、もう民主主義っていう方法しか平和は来ないんじゃないの?って考えたものだと思う。そこがきちんと言語化できたら日本は変われるんじゃないか?と思ってこの本(https://www.amazon.co.jp/dp/4910827005?tag=ittokut-22&linkCode=ogi&th=1&psc=1)作った。
伝わってますか?
泰子さん
充分!充分です!(大きく頷く)
工藤さんの話聞いて「あっ?!」「あっ?!」って閃くでしょ?それしゃべればいい。
今、学校は民主主義?専制支配?
泰子さん
民主主義の真逆にある言葉は?
「声上げられない」とか、「勝手に決められる」とか、「障害のある子はこっちの部屋行きや!」とか。本人の意思全く無視して、困ってないのに、「はい通級、こっちの時間です。」とか、今「この子のために」って当たり前にやっているこの学校現場が、これで民主主義大事にしてるって言える?
一徳さん
デューイ(20世紀の教育に大きな影響与えた教育哲学者)著「民主主義と教育」より
学校は民主主義の一番の土台
「お前はあれをしろ」「お前はこっちにいけ」ではなくて、自由な関心や探求、自由なコミュニケーション、これが保証されてないと民主主義とは言えない。これがないのは専制支配の社会。
じゃあ学校見てみよう。
決められた時間割通りに、決められたことを、言われたとおりにやっていくような場になっているよね?
あれ?!専制支配の教育じゃないの?
自分で決定したり自分で選択したり、そういうことができるのが民主主義における市民を育む。共にコミュニティーをつくり合っていく。こういう経験ができなきゃずっと専制支配の教育が続いていってしまう。
これを100年以上前に言っている。
もういっぺんこの原理原則に立ち返って学校作りをやっていきたいなあって思う。
当事者性を奪われた子どもたちは?
工藤さん
一人一人が社会の当事者になれないのは民主主義的でない。
でも日本では幼児教育から正反対の教育をしている。
(公園の砂場で遊ぶ子どもの写真を見ながら)
まずお母さんは「自分の子は他の子といっしょに遊べるか?」と心配する。
お母さん同士が「うちの子もいっしょに遊ばせてもらえませんか?」「どうぞ。」「シャベルかしてあげたら?」「ありがとうは?」・・・道具の取り合いなど、トラブり始めると「順番こでしょ?」と声をかける。
トラブルが起こったときどんな声をかけるかが重要。
でも日本では、いちいち大人が関わって平和にしようとする。子どもたちは当事者性をなくす。自分で解決しようとしない。大人に解決してもらおうとする。「あの子貸してくれない」と訴える。「なんて意地悪な子なの?」大人も子どもの訴えを聞いてお母さんが攻撃したりする。
じゃあ放任でいいのか?放任すれば当事者性は育つ。当事者性が増したとき起こること。
どっちかの権力が強いと、その力で相手をたたきつぶそうとすることが起きる。
3人いれば、2人の折り合いをつけるために誰かを敵にまわして折り合いをつけようとするようになることがある。
当事者性を育てるだけではだめ。
人間は何回も何回も間違えて戦争してきた。みんなが勝手に生きている社会では戦争によってみんなが苦しむ。勝った方も苦しまなきゃいけなくなる。社会全体が持続可能な方向で握手するしかない。これは教育で教えるしかないと気づいた。民主主義は教えないと!
大人が警察署や裁判所にならない。
「この二人が楽しく遊べるようになるにはどうすればいいか?」
「それを実現するには?」という問いかけで子どもが失敗しながら学ぶ。
でも日本ではルールをつくって教え込む。子どもは忖度しながら先生が思う社会をつくろうとするようになっていき、教員が手をかけ手をかけ、子どもたちは当事者意識をなくしていく。子どもは気に入らないと教師に不満を言ってくるようになる。こんなにやってるのに感謝されず文句ばかり言われる。当事者性を育てるという大事なところをなくして平和な状態をつくるのが教師の役割だと勘違い。これボタンのかけちがい。
社会で必ずトラブルは起こる。トラブったとき自分で解決する術を教えるのが大事。
発達障害が増える理由
泰子さん
発達障害がどんどん増えている。この発達障害を生み出す元が今、工藤さんが言われたこと。そこ、私たちが、親が、自分変えれば・・・?
発達障害は脳の異常、でも脳の検査なんかしてない。
こういうこと言うと反対する方がいる。そういう方と対話できないのは申し訳ない。
でも、でもね、大空小にもズタズタに傷ついて学校行けなくなった発達障害の子とお母さんが何人も来る。幼稚園から「みんなと遊べるように」「ごめんなさい言えるように」「先生の言うこと聞けるように」って言われてお母さんはうちの子だけが迷惑かけてるって思うから「言うこと聞かなきゃだめでしょ?!」って。
でも、園で辛い思いして一人ぼっちになってる子が、家で「寂しかったね」って抱きしめてもらいたい子が、家ではお母さん同士の気遣いがあるから「言うこときかなきゃあかんよ」って言われる。
もう正に愛着障害=発達障害!
間違ってるんじゃない?って思うようなこといっぱい経験した。
入学してくると学校でもまったくいっしょ。
遊んでいると人のものとる。お母さんがまず最初に「ごめんね。ごめんね。」「あやまりなさい!返しなさい!」「うちの子わからないからゆるして。」って。これが子どもを分断する。
なんでお母さんあやまるの?ちがうやろ?あやまって「許して。うちの子悪い子じゃないから遊んであげて。」って・・・
これ大人の勝手。大人の都合。自分の子を守ろうとしている。
今まで排除されてきたトラウマ。
でも子どもは違う。「なんでこの子わたしのものとるの?」って思う。じゃあみんなと対等に遊べる子にしたいなら、どんなことばになる?
とられた子に「どうしてこの子とったと思う?」て問いかけたらいい。そしたらその子「これ欲しかったの?」って聞く。「うん」って。「じゃあ”かして”って言ったらかしてあげるよ」って。
子ども守るんじゃなくて、通訳して繋ぐのが大人の役。殴ったら殴られた子が1番殴られたわけ知ってる。だから「どうしたら殴られなかったかな?」って問いかける。「でもこれ貸したら返してくれないから貸すのいや」と言うと、「返すから貸して」といって2人肩組んで向こうへいく。
でもこれを先生が一生懸命警察署や裁判所になって夜な夜な働く。子どもは先生信用しないし説得されても納得してないから家で親に訴える。親は「うちの子のことわかってくれない。」って・・・まさに働けど働けど見返りがない。だからブラックって言われる。
大人の責任は?
一徳さん
遊びすら自由にできなかったり、トラブルがあったとき警察官や裁判官に大人がなってしまうってどういうことかというと、子どもの中に感情のわだかまりが膨らんで、それをずっと抱えながら生きるっていうことになる。そこへきて「さあ、だから心の教育だ!」って、ますます処方箋を誤って、子どもたちはずっと感情のコントロールできないようにできないように育てられちゃっているのかもしれない。
当事者性を奪われて、感情がたくさんわだかまりとして爆発しちゃうから理性的な対話ができなくなるんだろうなと。
理性的になるには当事者であることをたっぷり経験していくことが大事。その当事者性をもちながらもやっぱり対話しながら合意形成していくにはコツがいる。
そのコツやお互いを尊重することについては大人の責任で教えていくのが大事。
トラブルが起こるほど先生は感謝され仕事も減る
工藤さん
最大のチャンスは家族も参加する入学式。ここで学校の教育方針を伝える。
子どもたちはよくけんかする。手も出る。中には病院行きもある。覚悟してください。ぼくらはどっちが悪いか判断して謝罪させたりしない。殴り合いを止めに入ることはできる。でもそもそもけんかが始まらないようにすることはできない。それができるのは君たち。感情的になっていて許せないとか、きらいなものはきらいでしかたない。その気持ちは変えなくていいよ。でも「あしたからも殴り合いしたいか?」聞く。ふたりともいやだと言う。ふたりとも許し合わないけど、「殴り合いしたくないということだけで一致しているね。じゃあそれを実現するための話し合いすれば?機会作るよ。そばにいてあげる。感情にまかせたことばを言ったら終わりはないよ。」殴り合いをしないための話し合いをする。こういうことを教えていく学校です。
このやり方をしていくと、子どもたちは先生大好きになる。トラブルが起これば起こるほど先生は感謝される。どんどん仕事減る。
多くの学校は、自分達で解決する能力を奪い取って奪い取って手をかけて文句言われ忙しくなってる。
泰子さん
その日に起こったこと、その日に子どもが納得して帰ったら親は電話してこない。「あんた殴られた?学校に電話してあげる!」って大空小でも当たり前にある。でも「おれが納得してるからいらんことしなくていい。」って子どもが自分で言う。
でも先生に警察官や裁判官のようにジャッジされあやまらされ、解決されて、説得された子どもは「ごめんなさい」「いいよ」って言うけど、納得していないから家に帰って親に言う。「おかしい〜!」と殴り込みに行く人もいる。そういうことでどんどん学校は疲弊していく。
トラブルが人と人つなぎ、トラブルが人を信頼する糧になる。ツールになる。それが学校の学び。
そう考えた時、でも一人の担任がいて、35人の子どもみんな納得して家に帰ってるなんてことできる?そんなのできたつもりになってるだけ。じゃあ1人の子が納得して家に帰るため、学級担任制捨てて、「この先生しかいない。」でなくて、「この先生無理。じゃあこの先生」っていろんな大人と関われる中でようやく納得して帰れる。
一人の先生の意識変えるとかじゃなくて、みんなでこういうこと問い直ししないと。
それをしないで働き方改革とか、年々更新される不登校自殺とか、この事実どうするの?
今、工藤さん言われたような自律を支援すること、小学校1年生からできる。
授業はどうするの?
でも「実際授業はどうするの?」とかいう声も聞こえる。
そりゃ授業ももちろん大事。でも、覚悟決めんかったら・・・
「授業と子どもの命どっちが大事?」それくらいは問いかけなきゃ!
巨大な同調圧力に引いてしまったら誰も幸せになれない。
一徳さん
授業においてだって、当事者性尊重することがすべての土台になる。
見える学力、見えない学力っていうけど、ここ抜きにしたら底がぬけて授業だってうまくいかない。かえって手をかけなきゃならなくなる。
感情より理性で対応っていうとき、感情を否定するんじゃない。「なに感情的になってるんだよ?」じゃない。そこまで否定されたらやるせない。むかつくとかきらいとか。
感情認められたら納得する。その上で理性的に対話できる。考え合う文化ができる。
対話で変わる先生たち、子どもたち
工藤さん(横浜創英中学・高等学校の実践の様子から)
<職員側から>
今教員たちは、「対立を合意する」ということ、「感情を抑えて目的のために対話する」ということ、ができるようになっている。
「これやめよう。」「いやそれは大事。」という対立がよく起こりがち。同調圧力、同質になろうとするという、自分たちがやってきた教育から逃れられない。でもこれはどっちも学校よくしようという気持ち。じゃあ感情的になるのやめよう。目標に戻ろうって・・・。
教育の目標は?
「知徳体」を目標にしてたら話にならない。そういう学校は教育の本質わかってない。教育の本質はひとりひとりが自分の頭で考えて成長していくこと。これはもともと生まれながらにもっていたもの。この主体性がわずか小学校までの間に奪われた。この奪われた主体性を取り戻すのが一つの教育の目的。本当は幼児教育から主体性奪わない教育必要。でも一旦奪われたらリハビリして取り戻すことが必要。
もうひとつの目的は社会の中で生きていくこと。
当事者性を奪わないこと。
当事者性奪って、解決能力失って、いつも依存して学校に解決してもらおうというのは社会の当事者でなくなっている。これ日本社会そのもの。
「うちの学校なんでこんなことやっているんだろう?」ってみんな文句は言うけど変えられない。会社もそう。自分達がよりよく仕事できるために何ができるか?でなく、みんなが保守的になる。感情の対立を嫌がって、「今まで通りやっておけばいい」ってなっちゃう。
対立が起きたら対話を通して解決するスキル(民主主義)を教えることが、もうひとつの教育の目標。
働き方改革として
組織変え、意思決定の仕組み変えた結果、月一回50分でおさまらなかった職員会議は4月、10月、11月に10〜15分ずつになった。
今はアイディアは次々出されみんなゴーサインで動いている。校長は「自律・対話」という最上位の教育目標に正反対の提案だけはノーという。
〜「全員を演劇鑑賞教室に連れて行きたい」という提案に対してノー〜
自分で考えて判断して決定して行動するっていう行動目標立てているのに、無理やり連れてって5000円払ってちゃんと聞かない子を指導する。これって、教育?
もしこの提案にオッケー出すとしたら、4時間目で授業終わって家帰っていいならいいよ。希望者だけ募ってお金払ってもらって、希望者だけ連れていくっていう教育課程つくるならいい。けど、嫌な子も無理やり連れてってお金払わせてしまいには叱るならうちの教育目標じゃない。と言って却下した。
それ以来この種の提案はなくなった。だんだん教員たちも「そういうことか?!」とわかってきた。
このことが対話をするということ。
子どもたちも対立したら上位の目標なんなんだ?と立ち戻る。
そこで合意したらその手段を考えればいい。
<子どもたちの側から>
学校運営の権限移譲
ルールメイキングという手法はあまり好きでない。もともと理不尽な社会のものを教員たちがつくったのに、それを子どもたちに壊させる仕組みはおかしいと思っている。
横浜創英は、4年前までガッチガチの管理教育で教員たちが怒鳴りまくってすごい指導をしていた学校だった。でも2年前に「もう校則はない。君らに全部あげた。0だ」と宣言した。今は金髪も銀髪もピアスもいる。教員たちと子どもの会話も変わった。注意しなくて良くなったので、教員の本質が問われる。
「そんなんじゃ生きていけない」ってよく言われたけど、今金髪でも銀髪でもピアスしてても働ける場所はいっぱいある。
「そんなに我慢強くなくてどうするんだ?」って言われても、発達に特性があって2時間しか働けない子もいるけど、それでも働ける場所なんかいっぱいあるから大丈夫。って伝えてあげるのがぼくらの仕事じゃないの?って。「そんなんじゃ働けない」なんて、そんな脅しをするのが学校ですか?って。そうすると教員たちもだんだん意識が変わっていく。
自分が正しいと思っていた価値観を削いでいって、民主主義社会のあるべき姿はなんなのか?っていうのを考えていくと、子どもたちに自由を与えればいいじゃん。一気にやっちゃえばいいよっていう話。子どもたちに一個一個話をして変えていくって言うのは僕は違うと思う。
学び方
以前は「教えない授業」をやっていたけど、「教える授業」があってもいい。
徹底的に先生がマニアックに教えるクラスがあったり、子ども同士学び合うクラスがあったり・・・。
大事なのは子どもが選択して自己決定すること。
2025年から全教科でこれを実施予定。
学年を縦割りにして、中1から中3までバラバラにして、それぞれ学びたい教室を選んで行く。いろんなやり方がある。
評価、時間割などいろいろ課題もある。
無理やり教える教室だと子どもは先生に文句言う。でも自分で選んできているから子どもたちは文句を言わなくなる。誰一人不真面目な子がいない。教員は淡々と授業ができる。「この授業します」というところに子どもが来るだけ。いろんな子どもたちを想定した授業を考えなくてよくなる。
教えてくれる教室を求めている子もいる。マニアックに教えたい教師もいる。それも生かされたらいい。マッチングする子もいるんじゃないか?でも結局子どもたちはだんだん学び方がわかってくると自由に選ぶようになる。毎時間選べる。誰も来ない教室の教員は隣の教室を手伝いに行ったりする。
教員がまず、程度の差がある子たちをひとつの教室で教えなければならないというプレッシャーから解放される。授業準備も減る。やってもやっても文句言われるとか、子どもたちがつまらなそうにしているという無言の圧力もなくなった。
最初に取り入れた英語科の教員たちが「もう解放された〜!すべてから解放された〜!」とものすごく喜んだ。喜びの声が教員間に広がった。
子どもたちは「最初は教えてもらうクラスを選んでいたけど、今は学び合いの教室で、先輩に教えてもらいながらやっている。先生にも自由に質問できるからここは自分にとても合っている。」と言う子がいたり、「ヒヤリングスピーキングを中心にした教室を選んでいる。読み書きは苦手だけど音で聞くとわかりやすい。」と言っている子もいる。
子どもたちの学ぶ特性も活かされ始めている。
いろいろアイディアも出されてきている。でもこれも変化していくとわかっている。教員たちの生の声でつくられている。
やってみもしないでブレーキかけないで!
泰子さん
(大空小の実践に対しても)「そんなのやったら先生たちとっても大変。」て言う人たくさんいる。でも「これやったら5時に帰ってますよ。」って言うと「え?」って驚く。スリムになるから帰れる。「でもやったら大変でしょ?」って大抵の人はやる前にブレーキかける。やってみもしないで「働き方改革っていってるのにそんな大変なことできない。」って多くの人がブレーキかける。チャレンジもしてみないで。やってみてダメだったらやり直せばいいのに。やってダメだったから言うならわかるけど、やってみもしないで「働き方改革です」って・・・。
通級や交流や・・・なんて制度じゃなくても子どもは自分で動ける。
やらないのに「あんなのやったら大変」ってこういう言葉が王道を通ってる。
「学校」という環境を「社会」という環境にどれだけ近づけるか?
「社会」の環境が「学校」にない中で、子どもが学び取っていく力が、数年後の社会で生きて働く力になんかならないことは誰しもわかっていると思う。
学校を社会という環境にどうして変えていかないのかな?って。スーツケースから風呂敷に変えようって。
学校を社会という環境に変えていかなきゃ。子どもたち誰一人取り残さない社会をつくっていく大人になっていくんだから。スーツケースを風呂敷に。
民主主義という言葉、好きとか嫌いとかそういう視点で捉えている方もいると思う。でも民主主義の真逆にある言葉って?支配主義、軍隊の世界といっしょ。教員という、評価という、権力をもった大人に支配される環境で、子どもたちは何を学ぶ?
誰も否定しなくていいし、過去なんて1ミリも変えられないから反省なんて全くしなくていいけど、1秒先の未来はなんとでもつくれるから。
周り変えるなんて不可能。洗脳者じゃないから。周りなんて変わらないのが当たり前。うまくいかないのが当たり前。でも気づいた自分が行動すればいい。その行動に気づいた人がまた行動する。誰も賛同してくれなくても子どもは見てる。そうやって風呂敷を一枚ずつつなげていけば、必ず実現できる。支配されてる中で、スーツケースの中にどれだけ嵌め込まれても、10年先は大風呂敷の中で子どもたちは誰一人取り残さない大人になっていくんだから、「学校という環境を社会の環境にどれだけ近づけるか?」みんなで工夫していったらいい。
服装とか、髪型とか、ピアスとか、座り方とか、靴の後ろ踏んでるとか、そんなことじゃなくて、「その子が何を学んでる?」って。その子どもの事実をつくるのが教師の仕事。教員の本質が問われる今やねって。工藤さんが言われたこの言葉。正にそう。
他のことで、100点?ベリーグッド。90点?なんでここ間違えた?20点?こんなんじゃ大人になれない!とか、残念な、やらんでいいこと、見えるところいっぱいやる。でもそれ先生の仕事じゃない。じゃあ一体先生何するの?ってそこが大きな次への一歩かな?って感じた。
「たられば」言うんじゃない?!
一徳さん
人のせいにしちゃいけない。
”すべての「こうあった」を「私がこう欲した」につくりなおすこと。これこそ私が救いとよびたいものである。”(ニーチェ)
こうであっちゃった。こうでなかったらよかったのに。こうであればいいのに。とか、「たられば」言うんじゃない!「私が欲したことだ!」くらいに言ってみろ!とニーチェは言う。ちょっとマッチョすぎるけど。
「それは工藤さんだからできた、泰子さんだからできた」って言う人いっぱいいるけど、あるエッセンス掴めば誰だってできる。これ大事。でも工藤さんや泰子さんだからこそ言える言葉ってある。
「大人の責任」という言葉を最近大事にしている。子どもに任せちゃうのは大人の責任放棄。大人が責任持って他者を尊重し、承認できる自由な市民へと育くんでいく。そのための環境つくる。そのために全力注いでいく。そこが放任との違い。何を核にするか?ここは手放しちゃいけない。
忙しいから対話できないんじゃなくて対話しないから忙しい
働き方改革
対話なくして断捨離なし。
最上位目標で合意できれば、本当に必要なのは何か?本当に必要ないものは何か?をちゃんと一歩一歩合意しながら断捨離できる。対話は現場で難しいというけど、逆。対話しないと、いつまでたってもポジティブリストが積み上がっていくだけだし、やりたい人とやりたくない人ってけっこう趣味の次元であったりするので、いつまで経っても断捨離できるものもできない。でも最上位目標で合意していけば、みんなが納得しながら断捨離できる。こういう経験を積むことが大事。
納得できないなら見にきてください
工藤さん
子どもが学ぶ仕組みつくるとき、例えば英語科で縦割りで3クラスあったら3人の教員がいる。それを4〜5にしたら教員もっとたくさんいるって思うかもしれないけど、技術的にはそうしない仕組みがある。英語って外部の力も借りやすいので、上手にチームティーチングしながら、進めていけば、実は教員の数増やさなくていいし、そういう手法をいくらでも考えることができる。工藤の言ってること理想だけど、それって仕事増えるんじゃない?って思った人いるかもしれないけど、そういう疑問を持っている方はうちに見学に来てくれれば、教員たちがどんな工夫をしているか、教員の言葉で聞くことができると思う。
もうひとつの視点「教師主導で社会をつくるのか?学ぶ側主体で社会をつくるのか?」これボタンの掛け違い。
教師主導でつくられた様々な言語がある。
例えば「ダメなものはダメ」「毅然として叱れ」この「毅然として叱れ」という言葉に最後の最後まで悩んだ。でも現実に今教員たちが叱る場面なんてない。どんなトラブルが起こっても基本的に叱らない。大声を上げて「これダメでしょ!」なんていう教員は中学にはいない。そのノウハウをもっているから。
スキルは「言葉」だから誰でもできる
人間性を豊かにしたり、経験をたくさんもった教員は優れた教員だと勘違いしがち。なんでも解決できるっていう幻想を抱いている先生が多い。
教員の仕事って外科医と似てる。若いうちは救える命少ない。だから人の力借りながら命を助ける。自分一人じゃ無理なことある。
教員も似たようなもの。でも外科医て手術こなしていかなきゃ手術上手くならない。そこにはちゃんとしたスキルがある。ものすごく心が大きくなってなんでも救いたいって思ったからって救えない。
教員は豊かな心と経験持ったら救えるって勘違いしてる。
じゃあ外科医の手術をする技術は教員にとって何だと思う?
それって言葉だよ。
保護者を説得するための台詞。
子どもにトラブルが起きた時に投げかける台詞。
泰子さんも疑問形の言葉投げかけながら子どもが主体的に変わっていくっていうスキルもっている。
子どもを主体的に変えていく台詞を研究すれば、それを若手の教員にも共有していける。これを蓄積していけば、誰でもできる。
心を豊かにすれば解決するって勘違いしている。子どもを主体的に変える台詞ってなんなのか?それをきちんとスキルにする。この研究がこれからなされなきゃならない。
例えばトラブルが起きた時に保護者に連絡する。保護者はきっとこう勘違いしてるから、それを正してあげる台詞ってなんだろう?っていうのが理論的に蓄積されている。
今日のようにこうやって会話をすると、みんな感覚が違うっていうことがよくわかる。この作業が地道に学校でやらなきゃいけないこと。わかってくれない保護者を説得する台詞を研究することも学校でやること。
僕らがもっているものも全部提供する。
日本中で教育の本質にもどってこの台詞をつくり上げていく作業がこれから必要。
「スーツケースから風呂敷へ」「知徳体は戦後で終わり、これから必要なのは?」を話題にした回はこちらから ↓
「子どもたちに民主主義を教えよう」(工藤勇一・苫野一徳)を話題にした回はこちらから ↓
今回の動画はこちらから↓
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