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ロベスピエール:フランス革命の恐怖政治

 マクシミリアン・ロベスピエールはフランスの政治家(1758―1794)。1789年からのフランス革命の中で、急進的なジャコバン派に属した。独裁政治を行い、1793年には、有名な恐怖政治を主導した。
 恐怖政治はしばしばフランス革命のピークと認識されている。よって、ロベスピエールの生涯を通して、フランス革命の核心に触れることができる。

マクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien Robespierre)の生涯


 マクシミリアン・ロベスピエールはフランスのアラスで法律家の家庭に生まれた。早くに母を亡くし、父は失踪した。そのため、ロベスピエールは母方の祖父に育てられた。

 ロベスピエールは給費生として、パリのルイ・ル・グラン学院に入った。1781年、法律の学位をとった。

 善良な弁護士の活躍

 ロベスピエールは故郷のアラスに戻り、弁護士になった。すぐに頭角を現した。1782年、アラス司教区の刑事裁判官に任命された。社会派の弁護士として名声を得ていった。
 他方、モンテスキューやルソーなどの著作を再読し、絶対王政への批判を展開した。このように、当初ロベスピエールは社会派で立憲主義的な弁護士として活躍した。

 この頃、フランスでは国王ルイ16世の失政などにより、政情不安が増大していた。ルイは財政問題を解決するために、全国三部会の召集を宣言した。
 その頃、1788年、ロベスピエールは『アラス州民に訴える』を公刊し、改革の必要性を訴えた。1789年、彼は三部会の議員に選出された。

フランス革命とジャコバン・クラブ


 同年7月、フランス革命が始まった。上述の全国三部会は国民議会に改称され、改革を推進した。もっとも、改革を推進する人々の間でも意見の相違が大きかった。その中で、ロベスピエールは急進的な共和主義のジャコバン・クラブに入った。

 フランス革命の支持者の間で、対立が激しくなっていった。ジャコバン・クラブでも内紛が生じ、主要メンバーが離反していった。
 そのような中で、ロベスピエールがこれを再建した。普通選挙や、意見や集会の自由、奴隷制や死刑制度の廃止、市民の政治的平等などを訴えた。

 革命支持者の間での重要な争点の一つは、フランスのあるべき政体のかたちだった。一方で、王権を残しながら、憲法によってそれを拘束する立憲王政を望む者たちがいた。他方で、王政を廃止して共和制への移行を望む者たちがいた。
 ロベスピエールのジャコバン派は後者だった。ジャコバン派がジロンド派に勝利し、1792年9月、フランスの王権の廃止と共和制の樹立が宣言された。
 ジャコバン派はフランスの王権を廃止するだけでは満足しなかった。国王ルイ16世とマリー・アントワネットの処遇をめぐって、ふたたびジロンド派と対立した。ジロンド派は追放刑が適切だと論じた。
 ロベスピエールは下層階級の支持を得ながら、この一件のために革命会議を開催した。投票の結果、ルイは反逆罪の罪で死刑となった。1793年、ふたりともギロチンで処刑された。

 1793年には、オーストリアやイギリスそしてプロイセンなどがフランスに激しい攻撃を仕掛けた。ロベスピエールらの山岳派はこの危機的状況を利用して、自身の権力基盤をかためた。

 1793年5月、ついに国民公会からジロンド派を追放するのに成功した。ジャコバン派(山岳派)が国民公会で独裁を開始した。

恐怖政治へ

 一般的に、1793年9月から1794年7月は恐怖政治の時期だと考えられている。だが、この時期と同様のテロルを伴った政治はその前後にもみられたものではある。より広い期間でその内容をみてみよう。
 国民公会は1793年3月に革命裁判所を設立した。4月、危機的状況を抑え込むために、公安委員会が設立された。ロベスピエールがその主導者となった。
 ロベスピエールは危機的な経済状況を乗り切るために、最高価格令を出した。これによって、生活必需品の価格を統制した。ほかにも、下層民向けの社会政策を行った。

 だが、これらの急進的な政策はリヨンなどで反乱を引き起こした。上述の制度により、少なくとも30万人の容疑者が逮捕され、そのうち17000人が死刑を宣告され処刑された。
 このようなジャコバン派の革命政府は憲法なしに運営されていた。彼らは革命政府を緊急の必要性に基づく暫定的なものだと説明していた。

ダントンの処刑

 ロベスピエールは報道や集会の自由などを廃止した。反対グループなどの処刑や弾圧を行った。危機的状況で革命を実現するには、正義は迅速で厳しいものでなければならないという信念をもっていた。
 1794年4月、穏健なダントンを処刑人サンソンによって処刑させた。
 ダントンは同じジャコバン派であり、ジャコバン独裁の成立にも寄与した大物政治家だった。上述の公安委員会で最初にトップをつとめていた。当初は両者の協力関係が続いていたが、両者の関係は破局に至ったのである。
 その後、1794年6月の法律によって、裁判に大きな変更が生じた。たとえば、裁判の審理前に被告人に尋問するという手順はなくなり、裁判官の判決は無罪か死刑の二択のみと定められた。

テルミドールのクーデターでの処刑

 この頃、フランスの経済や戦争の状況が改善され、非常事態の緊迫感も和らいだ。他方、1794年6月には、公安委員会のメンバー間には深い溝ができていた。
 1794年7月26日、ロベスピエールは国民公会で演説を行った。その中で、祖国や公共の自由にたいする敵が公安委員会の中に潜んでいるので、これを浄化せねばならないと論じた。これが引き金となった。

 翌日、他の公安委員会のメンバーらの支援により、ロベスピエールへのクーデタが起こり、成功した。ロベスピエールらは逮捕され、翌日処刑された。いわゆる、テルミドールのクーデターである。


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おすすめ参考文献

松浦義弘『ロベスピエール : 世論を支配した革命家』山川出版社, 2018

Peter McPhee, Robespierre : une vie révolutionnaire, Classiques Garnier, 2022

David Andress(ed.), The Oxford handbook of the French Revolution, Oxford University Press, 2019

Jean-Pierre Jessenne(ed.), Robespierre : de la nation artésienne à la République et aux nations, Université Charles de Gaulle-Lille III, 1994

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