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モクテスマ2世:アステカ帝国の皇帝

 モクテスマ2世はアステカ帝国の最後の皇帝。16世紀初頭、現代のメキシコに存在していたアステカ帝国を絶頂期に至らせた。だが、その後、スペインの征服者コルテスによって征服された。ただし、モクテスマはコルテスに処刑されたのではない。これからみていくように、その最後は意外なものであった。


 モクテスマ2世(Moctezuma II)の生涯


 モクテスマ2世は高貴な家庭に生まれた。父アシャヤカトルはアステカ帝国の皇帝であった。曽祖父はモクテスマ1世であり、アステカ帝国の発展に大きく寄与した人物だった。この記事はモクテスマ2世についてみていく

 モクテスマ2世はいずれ支配者となるべく、優れた教育を受けて育った。アステカでは、王位継承者であっても、そのしかるべき地位を認められるためには、戦争で武勲を示す必要があった。そこで、モクテスマ自身も戦争に参加した。モクテスマは武功をあげ、将軍に任命された。

 皇帝へ

 1502年、モクテスマはついにアステカ皇帝のモクテスマ2世として即位した。彼の支配はどのようなものだったか。
 モクテスマは王侯貴族の高貴な血筋を重視した。それまで、アステカ社会は全体的にみれば実力主義だった。だが、モクテスマは王侯貴族という高位の身分と血筋を優先した。
 たとえば、モクテスマは帝国の重要な役職から平民出身者を排除し、王侯貴族の出身者に独占させた。
 モクテスマは他の王侯貴族にたいして、自身をいわば神のような特別な存在として処遇するよう命じた。
 ただし、モクテスマは王侯貴族の出身者を優遇したとはいえ、彼らを甘やかしたわけではない。彼らには職務上の優れた成果を要求した。

アステカ帝国の発展と問題点

 モクテスマが生まれた頃は、アステカ帝国はまだ拡大を続けていた。そもそも、アステカ帝国は15世紀前半に誕生した。これを大いに拡大させたのは、上述のように、曽祖父のモクテスマ1世だった。
 モクテスマ2世が子供の頃にも、アステカ帝国は拡張を続けた。同時に、アステカは圧政をしいていたので、反乱も起こった。これらを鎮圧しながら、拡大を続けていた。
 1502年にモクテスマ2世が即位したとき、臣下たちは彼に偉大なる征服者の役割を期待した。モクテスマはこの期待に応えていく。
 1518年には、アステカ帝国は繁栄の絶頂に達した。広大な支配地域からは多種多様で豊かな貢物が献納された。帝国の中心はテノチティトランだった。
 とはいえ、モクテスマは全ての敵対国を征服したわけではなかった。さらに、アステカ帝国は圧政をしいていたので、その支配が確固たるものではなかった。多くの先住民はモクテスマに力づくで抑えつけられていたので、仕方なく服従していた。
 よって、誰かがこの状況から救ってくれるならば、その者の味方になったであろう。

 エルナン・コルテス現る

 モクテスマの、そしてアステカ帝国の運命の転機は1519年である。スペインの征服者エルナン・コルテスらがアステカ帝国に到来したのだ。
 そもそも、周知のように、1492年にコロンブスがアメリカを「発見」した。コロンブスはスペイン王の後ろ盾でこの航海事業を行った。そのため、スペインがアメリカの探検と征服を開始した。
 その流れで、1519年、コルテスの征服隊がメキシコのアステカ帝国に到達した。少数の兵と馬、そしてスペインの鉄製の武器を携えていた。

アステカ帝国の敗北へ

 上述のように、コルテスが到来した1519年、アステカ帝国は絶頂にあった。だが、モクテスマはコルテスの征服にほとんど対抗できず、アステカ帝国は滅ぶことになる。
 主な理由を3つあげよう。第一に、アステカの先住民内部の対立である。上述のように、アステカは圧政をしいていた。
 この圧政からの解放を望む先住民は、コルテスを解放者とみなした。そのため、先住民の多くがスペイン人の同盟者として、アステカ帝国と戦った。
 第二に、スペインの武器である。たとえば、この時代、アメリカには鉄製の道具が存在していなかった。スペイン人の武器は鉄製であり、この点でアステカよりも有利だった。
 第三の理由はアステカの宗教である。モクテスマははコルテスをアステカ帝国の神話上の神と勘違いした。よって、コルテスらと戦う前から、戦意を喪失してしまったとされる。

モクテスマの拿捕から死へ

 1519年11月、コルテスはテノチティトランに到着した。モクテスマは戦わずしてコルテスを歓迎した。もっとも、コルテスと戦うよう求める声もあがっていた。
 コルテスはモクテスマを拿捕し、殺さず、幽閉した。彼を媒介として、帝国内の金銀財宝を得ようと画策した。
 アステカの支配者層において、内部対立が生じた。ついに、1520年、スペイン人への大々的な反撃が始まった。この過程でモクテスマは死んだ。
 モクテスマはコルテスに処刑されたわけではない。他の仕方で殺したわけでもない。意外な仕方で人生の膜を閉じた。
 モクテスマはコルテスの命令によって、自身の宮廷のバルコニーから先住民に向かって、反乱をやめるよう説得を試みた。先住民はこの不甲斐ない皇帝に激怒した。彼らがモクテスマに石を投げつけた。これで負傷し、モクテスマは没した。
 その後、反乱は本格化し、スペイン人は危機的な状況に陥った。1521年になって、コルテスはアステカの征服を完了させた。


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→アステカ征服事のスペイン王




※この記事の内容は基本編です。発展編の記事は以下のページでで読むことができます。アステカ帝国の敗北の理由などについて、より詳しく説明しています。ぜひお試しください(現在調整中です)。


おすすめ参考文献

David Carrasco, Quetzalcoatl and the irony of empire : myths and prophecies in the Aztec tradition, University Press of Colorado, 2000

Michael E. Smith, The Aztecs, Wiley-Blackwell, 2012

Ross Hassig, Polygamy and the rise and demise of the Aztec empire, University of New Mexico Press, 2016

Stefan Rinke, Conquistadors and Aztecs : a history of the fall of Tenochtitlan, Oxford University Press, 2023


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