「戦国武将五十傑」その1 明智光秀の生き方 (17505文字) File005
光秀はなぜ?
その日の夜明け
信長を襲撃したのか?
本能寺の変の
隠された真実に迫る
明智光秀は享禄元年(1528)3月10日に明智城下(岐阜県可児市明智)に生まれた。天文9年(1540)に生まれたという説もある。正確なところはまだはっきりしない。
光秀の父は明智光綱で、その姉・小見の方は斎藤道三の正室であった。
そのため、弘治2年(1556)に勃発した「長良川の合戦」で道三が息子の義龍に敗けて殺されると、明智城は義龍に攻め落とされることになった。
このとき父・光綱はすでに亡く、光綱の弟・光安が明智家を継いでいたが、明智城は義龍軍に攻めおとされた。
辛くもこの難を逃れた光秀は、牢人として諸国を放浪したといわれる。
北陸経由で上杉の越後、芦名の会津、かつて藤原氏が勢力を持っていた奥州、さらに南部の盛岡から佐竹の常陸、そして武蔵、北条の小田原、武田の甲州、今川の駿河と渡り歩き、それぞれの地勢、城郭、民政や人々の暮らしなどを詳細に探索したという。
落ちぶれて仕官の口を探し歩いていたと考えられる。
落魄の日々を送っていた光秀を、妻・熈子はよく助けた。
あるとき、仲間で連歌の会を光秀の家で催すことになった。
しかし、貧しくて充分な酒肴を整えることができない。
熈子はその黒髪を切って売った金で酒席を盛り上げ、夫・光秀の面目を立てたという。
こうしたどん底生活、その身分と困窮を自嘲して光秀はみずからを「瓦礫沈倫(水に沈んだ瓦礫)」(『家中軍法』)といった。
そして、光秀は、ようやく越前の朝倉義景に召し抱えられることになった。鉄砲の技術を身につけていたことが認められたのである。五百貫文を給され、100人の鉄砲寄子を預かることになった。永禄六年(1563)のことだ。
これが縁となって細川藤孝(幽斎)の知遇を得た光秀は、公家や武家の有職故実を身につけ、堺の豪商・今井宗久、津田宗及などに茶の湯を習い、連歌もたしなむ知性を備えた武将として知られるようになっていった。
また、このころすでに光秀は京都にあって室町幕府十二代将軍・義輝(よしてる)に、軽輩(足軽)ながら直参の奉公衆として仕えていたといわれる。
永禄8年(1565)になると、義輝の甥で「阿波公方」とよばれていた足利義栄(よしひで)を次の将軍に樹てて政権を支配しようとする松永弾正、三好三人衆(三好長逸・政康・岩成友通)らが行動に出た。
京都・二条御所に義輝を襲撃し、暗殺してしまったのである。
義輝が暗殺されたあと、義輝の弟が登場する。
6歳で出家して覚慶と名乗って奈良・興福寺の塔頭・一乗院(現存しない・奈良地方裁判所)にいたこの人物が、のちの15代将軍・義昭である。
覚慶は、義輝暗殺後、松永久通(弾正の嫡男)や三好三人衆に警戒され、一乗院に幽閉された。
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