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上洛と信長暗殺計画 File001 (4986文字)
京都における信長暗殺未遂事件は、誰が仕掛けたのか。
その事件の全貌と、若き日の信長は襲いかかる幾重にも重なる困難をどう乗り越えたのか。
『名将言行録』には、信長が刺客と偶然鉢合わせになった様子が生々しく描かれている。襲撃を未然に防いだのは信長本人であることや、刺客が立ち向かうことをためらった様子、そのときの信長がいかにも若き武将らしい、勇気あふれる凜々しい立ち居振る舞いであったことなどなど。
いったんは危機を脱したかに見えたが、近隣諸国はもとより、身内の間でも、信長の尾張平定を阻止しようとする不穏な動きがあとを絶たなかった。
にもかかわらず、信長は、まるで映画の主人公のように、数々のピンチを脱していくことになるが、どんな困難をどう切り抜けたのか。信長が歩んだ激動の人生、その独創的な発想と行動力を、ヒデチャが丁寧に描き出す。
永禄2年(1559)2月2日、25歳の信長は京にのぼった。
「尾州より織田上総介( 信長)上洛すと云々、五百ばかりと云々、異形の者多し」(『 言継卿記 』(ときつぐきょうき))
信長は500人を率いていた。それも、京都の人々が唖然とするような物乞いか無頼(ぶらい)の輩ども、傾(かぶ)いた「 異形の者」がたくさん交じっているところが信長軍団らしい。
しかし『 信長公記』(しんちょうこうき)によれば、80人を連れていた。しかも、信長はこれぞ晴れ舞台と意気込んで、装いを凝らし、金銀飾りの太刀を誇らしげに差していた。供の者もみな金銀飾りの刀だった、とある。信長は13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に拝謁し、京から奈良、堺にも足をのばす予定だった。
だが、この時期は斎藤道三(さいとうどうさん)が子の義龍(よしたつ)に殺された後のことで、信長は義龍に弔い合戦を挑もうとし、織田・斎藤の間に不穏な空気が広がっていた時期にあたる。
したがって、義龍は、上洛する信長に、刺客を放った。
義龍はこのとき室町幕府から将軍の相伴衆(しょうばんしゅう)の1人に任じられていたから、信長の上洛と将軍謁見をいち早く知ることができたのだ。小池吉内、平美作、近松頼母、宮川八右衛門、野木次左衛門その他の腕ききたちは鉄砲を用意して、信長のあとを追った。
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