【主婦勉!】浮世絵を知りたい~黎明期①~
さて、その後師宣の後、
浮世絵界はゆっくりと熟成されつつも、
爆発的な人気を得る錦絵が始まるまで、
100年ほどの時を待つ。
なので、その間をここでは勝手に
”黎明期”と呼ぶことにする。
その間ももちろん
当時として有名な絵師はいたのだけれど、
なんといってもその100年の時を経て
登場した鈴木春信が劇的過ぎて、
どうしても霞んでしまう。
霞んでしまうけれど、
どうしても押さえておきたい
重要人物4人がいるので、
簡単にご紹介。
まずは
・懐月堂安度
いい名前だなぁ。
かいげつどうあんど。
"安度"は、
「やすのり」と読ませることもあるらしい。
吉原の遊女を題材にした肉筆美人画を
たくさん残し、
師宣時代の後に、一世を風靡した絵師。
生没年は不詳だが、
1677年生まれ、1752年没、
という説がある。
これが正しければ、
4代家綱時代に生を受け、
あの大岡越前と同じ年ということになる。
遊郭の売れっ子名妓が
一人で立っている姿を
"斜めくの字"に描いているのが特徴で、
とにかく艶っぽいというか、
匂いたつような色気を感じる。
美人画に限らず作品全般にわたり、
版画は残っていないそうだ。
とにかく肉筆画で勝負してたのかな。
もともとは神社などの絵馬を描く
絵師だったと考えられている。
当時もいろんな職業があったんですね。
40歳前後の頃、
"江島生島事件"(1714年)に連座したということで
伊豆大島に流刑されてしまったが、
8年後に江戸に帰還。
ただ、この一件を機に
懐月堂派は次第に衰微していったようだ。
江島生島事件とは、
大奥の御年寄(実質的トップ)の江島(絵島)が、
前将軍家宣の墓参に出かけた帰りに、
懇意にしていた呉服商の案内で、
山村座 生島新五郎の芝居を観劇。
芝居後、江島が生島達を茶会に招いて
宴会を開いたが、
盛り上がりすぎて、
大奥の門限に遅れてしまった。
中に通せ、いや通さないとやってるうちに
この件が江戸城中に知れ渡り、
その後評定に持ち込み。
結果、門限に遅れた云々よりも、
江島は生島と密会したんじゃないかという、
大奥の風紀、規律違反的なことで、
江島、生島、山村座の座元が
遠島(流刑)などの裁きを受けることになる。
(江島はその後減刑になる。)
その風紀の乱れ的なことに連座する形で、
江島付の侍女なども併せて
1,500人とも言われる人たちが
処罰される大スキャンダルとなった事件だ。
安度もこれに連なることになる。
なんでそのくらいのことでこんなに?
と思うけれど、
まぁ要は大奥内のどっろどろの権力争いですな。
いつか江島を追い落としてやろうと、
その機をひたすら待ち続けていた対抗勢力が、
この門限破り事件に乗じて一気に攻め落とした、
的な感じだったんだろうね。
恐ろしや女の世界…
・鳥居清信
大阪出身で、幼少期に京都で浮世絵を学ぶ。
その後20歳過ぎてから、
父と共に江戸に出てきて、
歌舞伎に関係する職に就く。
そして父が、
例の市村座などの座の看板絵を描いて
評判になったことから、
自身も看板絵を描くようになる。
ちなみにこの頃は師宣の影響をかなり
受けていたようだ。
清信は、
歌舞伎で演じられる荒事、
いわゆる超人的な力を持つヒーローの、
その強さや荒々しさを強調して表現するために、
"むっきむきの筋肉を誇張するあまり
逆にヒョウタンのようにくびれた手足"、
そして、
"荒々しさにリアリティを増すため、
極端に抑揚をつけた線"で彼らを描き、
その手法は
「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあしみみずがき)」と
呼ばれ、高く評価された。
その結果、その後”芝居看板”と言えば
鳥居派がほぼ独占的に描くようになる、
その基礎を作った絵師だ。
実際現在も、
東銀座にある歌舞伎座の
正面玄関左右に飾られている絵看板は、
鳥居派初の女流絵師である
9代目鳥居清光氏が
手がけているというから、すごい系譜だ。
彼は師宣の影響も強くうけたが、
京都時代は、浮世絵師として
師宣と匹敵するほどの巨匠であった
吉田半兵衛に師事しており、
また江戸に来てからは、
狩野派、土佐派の画風も学んだとされている。
というわけで、
黎明期に活躍した絵師として、
美人画の懐月堂安度と、
役者絵の鳥居清信、
この2人をとりあえず押さえる。
残る2人は次で。