承認欲求と社会的成功の凋落
近年、SNSの発展によって社会的成功を目指すことが小馬鹿にされている印象がある。それは本来身近にいる社会的に成功した人よりも、よく見る有名人の方が身近で羨望の対象となったからだ。
SNS以前は社会的に成功することが承認欲求を満たすほぼ唯一の方法であり、それで満足していた。
男性はより良い企業に勤め、お金を稼ぎ、裕福な生活をすること。女性はより良い男性を見つけ、結婚し、豊かな生活をおくること。それこそが承認欲求を満たす方法だった。
夫として、妻として、良い家に住み、良い車に乗り、良い服を着る。そうすることで周りの一般庶民と比べ、裕福で幸せでだと感じることができる。そして近隣住民からは、あそこの家庭は裕福で羨ましいと言われ、承認欲求が満たされる。もちろん裕福で幸せな生活をしているから、そもそも承認欲求を満たしたいとすら思わないかもしれない。ある意味それは満たされた生活をしているから自然と承認欲求も満たされているのかもしれないが、その議論はここではしない。
このように、SNS以前の承認欲求は規模が小さい。良い生活をおくり、そうしている自分に酔うだけで満たされるものだった。
しかし、SNSはそれだけで満足することを許さなかった。
SNSの発展により人類は新たに承認欲求を満たす方法を獲得した。それはネット上で有名になることである。
もちろん、かつてから有名人という概念は存在した。テレビの発達によって近隣住民の枠を超え、国家規模で名の通る存在が生まれた。それは殊、承認欲求という観点から見れば有名人になるよりもそれを満たすものは存在しないだろう。強いていうなら天皇とか王族とか、そういうものくらいで、私達一般人の最高到達点が有名人である。
しかし、テレビ時代、有名人になるというのはあまりにも現実的でなかった。お笑い芸人や女優/俳優、アイドルなど有名人と言っても様々なものがあるが、どれも並大抵の努力では届くものではない。
努力は当たり前で、その上で才能と運が必要だった。芸能事務所などに所属し、何らかの実績を残すことで初めてテレビに出演することができる。しかし、努力も才能も揃っていても、運が足りなければ叶わないし、そのために積み上げてきたものは水の泡だ。
例えば、お笑い芸人としてM1を目指していても、それで成功する保証はないし、もし諦めれば無意味になる。当然そこで培ったものや思い出などは残るが、社会はそれを評価してくれないのだ。
M1を目指す時間を勉強に注ぎ込んだら何らかの難関資格が取れるかもしれない。もしそうなれば、社会的にある程度成功でき、承認欲求は満たされる。
であれば、承認欲求を満たすならばそもそも芸人など目指すべきではないということにもなり、承認欲求を満たすという点ではかなり遠回りで、しかも敷居が高い。
ゆえにかつてから有名人というのは承認欲求を満たす頂点の存在であるが、それで承認欲求を満たすには非現実的なものだった。
そこにSNSの登場である。かつて有名人はテレビのみによって生み出され、テレビによって承認欲求が満たされるものだった。しかし、SNSは個々がメディアとなることで、自らで自らを売り出すことができる。ある意味、テレビの集合体ともいえるだろう。これにより、有名人はテレビだけでなく個々人の力によっても生み出されるようになり、ニコ生配信者やYoutuberを筆頭に、数々の有名人が生まれていった。
そして月日が経つ毎にテレビに一極集中していた人々の目線は、SNSによって分散し、細分化していった。「〇〇界隈」という言葉の台頭は、その様をあるがままに表しているだろう。その細分化した界隈の中で有名人になることは、かつてのテレビの有名人になるよりも敷居が低い。世間に認められるほどの実績を必要としたものが、その界隈でさえ認められれば有名人となれるからである。
例えばプロゲーマー。テレビの時代はゲーマーというのはゲームが上手いだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。仮にテレビに出ることがあったとしても、ナントカのゲームが上手いすごすご超人としてバライティ番組のワンコーナーで取り上げられるぐらいだろう。むしろそこまでいけばかなり成功しているのだが、その後も番組に呼ばれるかといったら厳しい現実がある。
しかし、今の時代ではSNSというもので自らを売ることができる。このゲームがめちゃくちゃ上手いという個性によって、注目を集め、継続的にその姿を届けることができる。たったワンコーナーで終わった人々の視線も、継続的にその様を見せられれば記憶にも残るようになり、そしてそれゆえに有名人たり得る。
テレビのように全国的に有名人になるというハードルは依然として高いものがあるが、そのゲームをしている人からすればあの人は凄いと記憶され、界隈の有名人にはなれる。
もちろんこの例はゲームの発展も関係していることは否めないが、もしファミコン時代にSNSがあって、マリオのスーパープレーをする人がいれば、たちまち有名人となっていたはずだ。
このようにSNSの発展により、自分で自分を売り出すことが可能になったおかげで、細分化されたナントカ界隈で有名人になるというのは十分現実味を帯びたものになった。有名人の庶民化である。
ゆえに、社会で成功することが承認欲求を満たす事実上の唯一の手段だった社会から、界隈で成功することでも満すことが可能になった。そうなればハードルの下がった界隈で成功するという道を選ぶ人も増え、テレビ時代とは比べ物にならないほど有名人が増える。そして有名人が増えることでさらに有名人のハードルが下がり、誰でも有名人になるチャンスがある社会に見えてくる。
むしろ社会的に成功するよりも、有名人になる方が簡単に思えるほど有名人の数が増えた。
ここで、別の話を挟む。
野球ばかりして全く勉強しない学生がいたら勉強しろと怒られるのは想像に容易いだろう。
逆に、勉強ばかりして他のことを全くしない学生がいたら、怒られるどころか褒められるだろう。
この違いを考えたことはあるだろうか。単に野球は遊びだが、勉強は辛いものだから、それを行うのは徳の高いことで偉いという仏教的な考え方もできるかもしれない。しかし、それはあまり現実に則しているとは思えない。
現実的な目線だと、その違いは将来その行いが報われる可能性にあると考えるべきだろう。例えば、野球をしていてプロ野球選手になれたら、今までの野球がすべて報われ、将来もある程度は安泰だろう。しかし、プロ野球選手といってもピンキリで、活躍できなければすぐに首を切られてしまう。もちろん、腐っても元プロ野球選手なので地域の野球団体からは選手としてもコーチとしてもひっぱりダコだろうが。どちらにせよ、プロになるレベルまでいかなければ野球で食うことは難しい。
その一方で、勉強という行為は将来報われる可能性があまりにも高い。もちろん例外はいくらでもあるが、有名大学を卒業すればそこそこの企業に就職し、そこそこ裕福な生活をおくれるだろう。
野球ではほんの一握りしか報われず、偏差値に換算したら70あっても報われるには物足りないかもしれない。しかし勉強は偏差値60でも報われるには十分なレベルだ。
野球がバカにされ、勉強が賛美されるのはそういうことなのである。
ここでもとの話に戻る。
今、承認欲求は社会的に成功するだけでなく、界隈の有名人になることでも満たすことができるようになった。
そして、今では誰もが有名人になるチャンスがあるように見える。この社会で、殊、承認欲求を満たすというただ一点に限って言えば、社会的成功と有名人になること、どちらのほうが正しい選択と言えるだろうか。
それは有名人になることなのである。
SNSによって凄い人が散見されるようになった今、そもそも社会的成功自体が注目を集めるほどのものでなくなった。近くに住む裕福な家庭は憧れの対象ではなく、ただのお金を持っているだけの人であり、SNSを見れば凄い特技や特徴を持っていて、しかも豊かな生活(実際にそうであるかは別として)をしている人が数多に存在する。その中で、なんの仕事をしているかもよくわからない、近くに住んでいるお金を持っている人は注目の対象になり得ない。本当は凄い仕事術を持っているのかもしれないが、それは世間には伝わらず、ただお金を持っている、それだけの人だ。そんな人はSNSの有名人未満の存在とみなされる。
つまり、社会的成功は注目を集めない、承認欲求を満たす道具でなくなった。もし、社会的成功で承認欲求まで満たそうとしたら、大企業の社長とか、もはやそのレベルまでいかないと無理だろう。
それと同時に、有名人の庶民化が進み、誰もが有名人になるチャンスがある(ように見える)社会ができた。
実際にSNSで有名人になろうとしたら、途方もない努力が必要であるが、しかしそうは思えないほどに有名人が増えている。
その中で承認欲求を満たすならば、社会的に成功することを目指すことは野球をする学生と同じであり、有名人を目指すことこそが勉強なのである。
そして社会的成功を目指して勉学に励む学生は、どうしてそんな実現可能性の低いことをするのだろうと、有名人を目指す人々から小馬鹿にされるのである。
しかし、これはあくまで承認欲求を満たすという観点であり、実社会における社会的成功の価値は下がっていない。
むしろ社会的成功を目指す者から見れば、日々SNSで成功しようと励むことは、野球をすることであり、我々はこそが勉強をしているのであると小馬鹿にできる。
そういう実社会も踏まえれば、SNSの台頭によって承認欲求の満たし方が増えたことで、今までは一つだった社会的成功と承認欲求が二つに分離し、そのどちらを目標にするかで生き方も二分化された。そしてどちらの道をゆく人も、我々こそが勉強をしていて、彼らは野球をしているのであると互いに小馬鹿にする分断された世の中へと変わってしまったのである。