小学校教師のジレンマ
小学生の頃の授業。「話」という漢字について、送り仮名のない"話"と送り仮名のある"話し"の使い分けは文章の中にあるか最後にあるかで変わると教わった。
今ならその教えは間違いで、名詞か動詞かで使い分けるものだとわかる。けれど小学生がそれを理解するのは難しい。名詞とか動詞とか言ってもその区別を明確にすることは困難だろう。単純にリンゴとかライオンとか。それとも遊ぶとか寝るとか。そういう1つの単語だけなら理解できるはずだ。しかし「彼はリンゴを手に持ちながら"はなし"た」という文章における"はなした"。これが名詞か動詞か即座に答えられるかと言われれば微妙だと考えられる。無論、大人なら一瞬で見分けられるのだが、小学生にそれを要求するのは酷な話だろう。
このように、小学校の授業ではわかりやすさを優先して、厳密性に欠けることがしばしばある。もちろん小学校の教師は正しい説明のできない馬鹿だと貶したいわけではない。むしろ、大人の正しい知識をもって小学生にわかりやすく説明するのは至難の業のはずだ。「"話"と"話し"の違いは名詞か動詞かの違いだよ」と正しく説明するのではなく、「文章の中か最後かの違いだよ」と間違った説明をしたその教師は機知に富んでいて、優秀だと言える。
しかしその一方で、私がこの「話」という漢字の送り仮名について受けた説明を今になっても覚えているように、幼少期の教育というのは長年に渡って影響を及ぼしている。小学校よりも最近に受けたはずの中高の授業の説明は何一つ覚えていない。にも関わらず小学校の記憶はある。それほど大切な授業において、敢えて間違った説明をしないといけないというのは酷い話だ。
もしかしたらその間違った説明のせいで、後の学習にまで響いているかもしれない。算数の公式の間違った記憶、理科の現象における間違った記憶。そういった幼少期の教育が今の学習の妨げになっている可能性は否定できないはずだ。
だからといって、厳密性を重視するあまり大学の講義みたいになってもいけない。
「"話"と"話し"の違いは、名詞か動詞かで使い分けるんだよ」
「センセー、"めいし"ってなに?"どうし"ってなに?」
「名詞というのは一般に、自立語で活用がなく,おもに事物の名称を表す語。 動詞というのは、事物の動作・作用・状態・存在などを表す語で、形容詞・形容動詞とともに用言に属する。 活用のある自立語で、文中において単独で述語になりうるものだよ。では次の文を例に見ていこう」
こんな風になってしまったら、一部の好奇心旺盛な小学生を除いて、勉強に対するやる気がなくなってしまうだろう。
だからこそ簡潔に、多少間違っててもいいからわかりやすい説明をみな選ぶ。それが良くないことだと知っていても。「わかりやすさ」と「厳密性」の天秤だ。中学生や高校生になれば、厳密かつわかりやすい説明も可能になるが、それは学び手の知識と脳の発達に依るところがある。それゆえ、小学生にはどちらか一方しか選べないことが度々あると推察できる。小学校の教師はどちらを選ぶか日々頭を悩ませているのだろう。