わかった気になるエセダヴィンチたちよ。

ロンドンの霧が窓を濡らす朝。私は目覚めと共に、昨夜の夢の残滓を掻き集めようとしていた。夢の中で、私はレオナルド・ダ・ヴィンチのアトリエにいた。彼は未完の「受胎告知」に向かって筆を動かしていたが、その動きは遅く、まるで時が凍りついたかのようだった。

ベッドから起き上がり、窓際に立つ。外の世界は霧に包まれ、建物の輪郭さえ曖昧だ。この瞬間、私の意識も霧の中にいるようで、明確な思考を形作ることができない。それでも、レオナルドの姿が心に残っている。

キッチンに向かい、コーヒーを淹れる。豆を挽く音が部屋に響き、その香りが私の意識を少しずつ現実へと引き戻す。カップを手に取り、書斎へ向かう。机の上には昨夜書きかけたブログの原稿が置かれている。画面には「未完の美学」というタイトルだけが孤独に存在していた。

コーヒーを啜りながら、私はレオナルドについて読んでいた本のことを思い出す。彼の多くの作品が未完のまま残されたという事実。それは単なる時間の不足や興味の移り変わりだけではない。もしかしたら、彼は「完成」という概念自体に疑問を感じていたのかもしれない。

私の指がキーボードの上を漂う。何かを書こうとする衝動と、それを留めようとする力が同時に存在している。レオナルドは作品を完成させないことで、無限の可能性を保ち続けたのではないか。完成とは、ある意味で可能性の死なのかもしれない。

窓の外を見る。霧が少しずつ晴れ始め、建物の輪郭がぼんやりと見えてきた。世界が姿を現すにつれ、私の中の思考も形を取り始める。キーボードに向かい、文字を打ち始める。

「未完の作品は、芸術家の内なる探求の証だ。それは知への渇望、理解への飢えが満たされることのない永遠の旅路。レオナルド・ダ・ヴィンチの未完の作品群は、彼の飽くなき好奇心の化身なのかもしれない。」

書きながら、私は自分の中に湧き上がる矛盾した感情に気づく。一方では、レオナルドの姿勢に共感し、作品を完成させないことの美学を理解しようとしている。他方では、何かを成し遂げることへの焦りや、未完成であることへの不安が渦巻いている。

この矛盾した状態こそが、創造の本質なのではないだろうか。完成と未完成、知と無知、確信と疑念。これらの対極にある概念が同時に存在し、互いに影響し合う量子的な状態。そこにこそ、新たな発見や創造の可能性が眠っているのかもしれない。

時計を見ると、もう正午近くだ。外の霧は完全に晴れ、ロンドンの街並みが鮮明に見えるようになっている。私は立ち上がり、窓を開ける。冷たい空気が肺に流れ込み、新鮮な酸素が脳を刺激する。

街を見下ろしながら、私は考える。この街もまた、常に未完成の状態にある。古い建物と新しい建物が共存し、人々の流れが絶え間なく続く。完成することのない、永遠に変化し続ける芸術作品のようだ。

再び机に向かい、原稿を見直す。書いた文章の一部に線を引き、修正を加える。しかし、完全に満足のいく形にはならない。それでも、その不完全さの中に何か大切なものがあるような気がして、私は書き続ける。

レオナルドの「受胎告知」が心に浮かぶ。未完成だからこそ、見る者の想像力を刺激し、無限の解釈を許す。私たちの人生も、常に未完成。それこそが、創造と成長の源なのかもしれない。

午後の光が部屋に差し込み、机の上の原稿を照らす。私は深呼吸をし、再びキーボードに向かう。完璧を求めるのではなく、今この瞬間に最善を尽くす。それがレオナルドから学んだ、創造の真髄なのかもしれない。

窓の外では、ロンドンの街が息づいている。未完成で、それでいて完全な姿で。私もまた、この街の中で、自分の物語を紡ぎ続ける。未完の美学を胸に、新たな一歩を踏み出す準備ができたような気がした。

Atogaki

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