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新年度のご挨拶 - ちいさな穴ぐらから
エッセイは基本、役に立たない。
必ずしも、新しい知識に出会えるわけではない。
新しい物事の考え方や自然科学の知恵を蓄えることができるわけでもない。
役立つスキルが身につくわけでもない。
「私はいついつ、こんなことをした」とか「私はこう思う」とか。
そんなことが書き並べているだけで、しかも、そこに新規性や革新性があるわけでもない。
それでも(いや、もしかするとそうだからかもしれないが)エッセイはとてつもなく素晴らしいものだと思う。
・・・
エッセイは、他のエンタメにはない「穴ぐら」感が魅力だ。
入り口は地上からは気づきにくい場所にある。それに狭くて小さい。
しかし、中に入ってみると意外と広い。これが落ち着くんだ。
地上からそんなに深いところにあるわけでもない。
ジメジメしているわけでもなく、光や音も適度に差し込んでくる。
「大通りからこんな近いのに、道一本内側に入るだけでだいぶ静かね」という具合の日常との距離感がそこにはある。
(わかってくれる人だけわかってくれたら良いが、六本木のSHAKESHACKがある方に対する、シナボンがある方の道路の距離感だ。)
そんな穴ぐらのなかで、僕らはゆっくりすることができる。
何がもらえるわけでもなく、ただじっとすることができる。
これこそ、僕が思う、エッセイを読むことの本質だと思う。
というのも結局人は現実からの逃避ができない。
映画ほどの強烈なコンテンツに浸ってみたって、寝て起きれば昨日からの地続きとしての今日が広がっている。何度寝て起きたって自分は自分のままだ。その現実を受け止めた人が呼吸をしにくる場所がエッセイだ。
そもそもエッセイとは、著者が主人公で日常をテーマにしている。
著者が体験した”ほんとうの”物語だからこそ、メイン通りに対する裏路地として、わずかな(でも確実な)つながりを感じながら、その文章を自分ごととして受け止めることができるのだと思う。
かくいう僕も、時間を見つけては色んな穴ぐらに入らせてもらっている。
もちろん、そこには、新しい発見と出会えたり、生涯忘れられない知恵をいただいたりすることもある。
しかし、それらはたまたま貰えたお土産みたいなもので、それを求めて穴ぐらに入るわけではない。
そこに穴ぐら(=誰かの”ほんとうの”物語)があるからだ。
貴方が生きているから、僕も生きていける。
僕の文章もまた、誰かの穴ぐらであったら良いなと思う。
だから、もっと文体を練り上げていきたい。
そしてもっと届けていきたい。
ちいさな穴ぐらから、新年度のご挨拶にかえて。
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