quantum quotidian:日常という名の量子の海

朝靄に包まれたアーンドル・スクエアの静寂が、私の意識を現実へと引き戻す。目覚めの瞬間、夢と現実の境界線が曖昧になる。その一瞬の中に、無限の可能性が潜んでいるような気がする。

Nakajimaが私の足元で丸くなっている。彼の存在が、この部屋という小宇宙の中心軸のようだ。彼の呼吸のリズムが、宇宙の鼓動と同期しているかのように感じる。

窓を開けると、ロンドンの朝の空気が肌を撫でる。湿った空気の中に、遠くのベーカリーから漂うパンの香りが混ざる。この香りが、幾千もの朝の記憶を呼び覚ます。それぞれの朝が、並行宇宙のように私の中で共存している。

コーヒーを淹れる儀式が始まる。豆を挽く音が部屋に響き、その振動が空間を歪めるかのよう。お湯を注ぐ瞬間、湯気と共に立ち上る香りの粒子が、空気中で舞い踊る。この一連の動作の中に、宇宙の創成と終焉が含まれているような錯覚を覚える。

「仕事は片付けのようなもの」。この言葉が、昨日の自分から今日の自分へと伝言のように届く。確かに、仕事も人生も、終わりのない整理整頓の連続だ。一つのタスクを終えれば、また新しいものが現れる。それは川の流れのよう。同じ水でありながら、常に新しい。

書斎の本棚を見つめる。積み重なった本や論文が、知識の地層のようだ。その無秩序な配置に、カオスの中の秩序を見出す。指で本の背表紙を撫でると、そこに刻まれた文字が、未知の世界への入り口のように思える。

パソコンの電源を入れる。画面が明るくなる瞬間、現実が再構築されるような感覚に襲われる。デジタルの世界と物理的な世界。二つの現実が交差し、新たな次元を生み出す。キーボードを叩く指の動きが、量子の波動関数を操作しているかのようだ。

仕事に没頭する中で、ふと気づく。「私」とは何か。今この瞬間、仕事をしている「私」。昨日の「私」。明日の「私」。それらは全て同一なのか、それとも刻一刻と変化し続ける別の存在なのか。シュレーディンガーの猫のように、全ての可能性が同時に存在しているのかもしれない。

昼食のために外に出る。ポートベロー・マーケットの喧騒が、私を日常の現実に引き戻す。しかし、その喧騒の中にも、静寂が潜んでいるのを感じる。人々の会話、食べ物の匂い、色とりどりの野菜や果物。これら全てが、一つの交響曲のように調和している。

サンドイッチを頬張りながら、ふと隣のテーブルの会話が耳に入る。彼らの言葉の一つ一つが、新たな現実を生み出しているように思える。言葉と存在の関係性。それは量子力学における観測と実在の関係に似ている。

午後の仕事に戻る。言葉が次々と紡ぎだされていく。それは単なる情報の羅列ではなく、意識の流れそのものだ。書いているのは私なのか、それとも宇宙そのものなのか。その境界が曖昧になっていく。

夕暮れ時、仕事を終えて窓の外を見る。雲の動き、風に揺れる木々、行き交う人々。全てが完璧な調和を保っているように見える。そして同時に、全てがカオスの中にあるようにも見える。この矛盾した感覚こそが、存在の本質なのかもしれない。

Nakajimaが私の膝に飛び乗ってくる。彼の温もりが、この瞬間を永遠のものにしているような気がする。彼を撫でながら、存在することの不思議さを考える。なぜ何かが「ある」のか。そして、なぜ何も「ない」わけではないのか。

夜の静けさの中で、一日の終わりを迎える。特別なことは何も起こらなかった。しかし、日常の中に宇宙の神秘を見出すことができた。それこそが、最も特別な体験だったのかもしれない。

明日もまた、新たな発見と洞察に満ちた一日になるだろう。そう思いながら、私は静かに目を閉じた。この瞬間、過去と未来が交錯し、無限の可能性が開かれていく。

Atogaki

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ひどく私的なこと

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