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兄ができた話、あるいは失恋

白衣の袖から覗く手首、その指に触れたいと思った。

「○○は、置いてありますか?」
自宅近くのドラッグストア、カウンター越しに話しかけた。
「○○は、うちの店ではもともと取り扱いがないんです…すみません」
[薬剤師 トリサワ]と名札を付けた男性が振り返った。

申し訳なさそうにするその顔から視線を外せなくなる。
細い鼻梁、端正な輪郭でともすれば神経質そうにも見えたが、こちらを見る瞳は大きく、優しげであった。
「そうですか、わかりました」
不自然な間が空くのをおそれて、視線を引き剥がすかのようにその場を離れた。

二週間も経った頃。
同じ店で声をかけられた。「先日探されていた○○…在庫ありますよ」トリサワさんだった。
「本部の倉庫を調べたらあって…一つだけ取り寄せておきました」
あの時、取り寄せを頼んだわけではなかった。
単価の安い商品を、しかも一つだけ取り寄せることはこの店にとってメリットがあるのだろうか?
仕事人としての親切だろうが、それ以上の意味を持たせたくなった。

「わざわざありがとうございます、いただいていきます」
他の商品と一緒に会計をお願いした。「こちらにカードのサインを」
ペンを走らせながら後ろを気にする。客が並んでいないことを確かめると、不要レシート箱から一枚抜き取り、裏にメールアドレスを書いた。
トリサワさんは表情を変えずに、二枚のレシートを受け取った。「ありがとうございました」

その晩。メールの着信を知らせるメロディが鳴った。
「トリサワです、店に来ていただいてありがとうございました。アドレスを渡されて驚きました、でも嬉しいです。今度食事に行きましょう」

その数時間前にも、メールが来ていた。それは交際相手からのものだった。
彼との関係は、拗れていた。愛情だったはずのものが、執着に姿を変えつつあった。互いに想い合うことが、幸福にはつながらないと疾うに気付いていた。しかし、終わらせるタイミングを見つけられずにいた。 
──抜け出せるかもしれない。
先に、トリサワさんに返信した。

トリサワさんとの食事は、とても楽しかった。
店を出て手を握られた。そのままにして、晴海通りを歩いた。風が頬を撫でた。拗れたものは過去という箱に押し込んできた。身軽になった気がした。

帰りは、いつもマンションまで送り届けてくれた。
三回目だったか四回目だったか。
「コーヒー淹れるよ」部屋に上げた。

テーブルを挟み、向い合わせに座った。
Close To Youが流れていた。カーペンターズではなく、バート・バカラック。
日付が変わろうとしていた。
トリサワさんは言った。「そろそろ帰るね」
引き留めるように手に触れた。トリサワさんが目を伏せた。
その時、窪んだ眼窩に疲労が滲んでいるのを見た。
「駄目なんだよ」「なにが?」
私はまだ若く、恋愛という場面においては傲慢だった。二人きりになって、男性から何のアクションもないという事態が飲み込めなかった。

ジノリのカップをテーブルに置き、トリサワさんは財布から一枚の写真を取り出した。
六歳くらいだろうか、ブランコを漕ぐ女の子が写っていた。
「結婚してるんだ…黙っていてごめん」

そして、妻とはうまくいっていないこと(うまくいっている夫婦に対する割合を考えれば、さもありなんと聞き流すような話だ)を話し始めた。
「それでも、この子を裏切ることはできない」 
陽光に照らされて、こどもらしい柔らかな髪が明るく透けていた。天使みたいだ、と思った。
途端に、自分の恋情が陳腐なものに思えてきた。そうだね、早く、この子のところに帰ってあげて。

ドアが閉じた後、さてこれから、どこでナロンエースやボディシャンプーやらトイレットペーパーを買ったものか、ぼんやり思案した。

その心配は杞憂だった。
トリサワさんとは、二週間おきに食事をする関係が続いた。
そして海が見たいと言えば、茅ヶ崎まで、紅葉を見たくなれば、日光まで車を走らせてくれた。
もう手を握ることはなかったし、かと言って家族の話も出なかった。

熱を出せば、アイスノンと薬にポカリスエット、栄養ドリンクを持って部屋を訪ねてきた。
二日シャワーを浴びることができず、重くなった髪の下にアイスノンを差し入れてくれた。
「よく休むんだよ」兄がいたら、こんな感じなのかなと浮かされた頭で思った。

やがて、他の人と出会う。
奇妙な始まりだったから、自分の気持ちに気付くのに相当な時間がかかった。相手も私のことを好きだろうなんて思える傲慢さはもう失っていた。
ただ、会えば他の誰と過ごす時間より笑っている自分がいたし、抱き合えば時が経つのを忘れた。

次会う日まで何日。
スマートフォンのスケジュールを眺める。その私を見てトリサワさんは言う。「綺麗になったよね」
視線を逸らすことができない。何と言葉を返そうか、逡巡する。

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