働く理由について、とりとめもなく思うこと
「仕事をせずに済むのなら、今すぐにでも会社を辞めたいよね」
隣のデスクの先輩が言った。手入れの行き届いた巻き髪の、美しい女性。
自身の能力は高いのに、女性が働かないことに違和感を持たない人だ。バブル世代だからかもしれない。結婚していた頃、婚家に「専業主婦させてあげられなくて、ごめんなさい」と言われたとのこと。
「レイちゃんは、本当は働かなくとも大丈夫そうなのに…優雅に生きてほしいと思うわ」
私はどういうわけか、こういったイメージを持たれやすい。
実家が裕福だったのは、はるか昔の話だ。ひょっとして、愛人業でも勧めているのか。
ここで、ある人との会話が浮かんだ──
映画「スカーフェイス」について話していた時のこと。
─ご覧になっていない人のためにあらすじ─アル・パチーノ演じるチンピラがコカインの密売によってのし上がる過程で、美しい女性を娶る。親分の妻を奪ったのだ。
ミシェル・ファイファー扮するその女性は、劇中では主人公の成功の象徴として描かれている。
彼は突っ込んだ。
「たしかに美しいかもしれないけれど、一緒にいてもつまらなさそうだよね。中身がなさそうで。あれだけ綺麗なら、美を生かして何かしらすればいいのに」
「いや、ストーリー的に、あそこで自立した女を登場させる必要はないでしょ…彼女は、トニー・モンタナのトロフィーワイフみたいなものなんだから」
あきれつつ、でも現実には彼の言うとおりだよね、と思った。
そもそもミシェル・ファイファーの20分の1も美しくない私が、見てくれによって安穏とした生活を得ることはまず不可能である。だから己と同列に語ることはできない。しかし「実用的な」取り柄がないことは明らかであるから、せめて仕事だけは愚直に続けるより他ないだろう。仕事を通じて、少しは内面も充実させることができる。
──そんなことを先輩に話した。
彼女は私の顔をまじまじと見つめて、そして言った。「レイちゃんは、純真ね」
* * *
あの時はそう言ったけれど、もし自分に十分な不労所得があったとして、それでも仕事を続けるか? 「たられば」についてもう少し考えてみる。
だいぶ前のこと。
私は結婚から2回逃げている。理由は、いろいろあるけれど─確実に言えるのは、自分の人生に相手を巻き込みたくなかったのだ。幼少時から否応なく見せられてきた両親の姿が、家庭を持つことに対する希望を根こそぎ奪っていった。
特定の誰かと人生を共有することに拒絶反応を示してきた私も、周囲が家庭を持ち、子供を授かる様を見て、虚しさを覚えるようになった。
己のためだけに生きている、気楽と空虚が同義に思えた。
そんな時、ある公益財団を知った。多くはない手取りから、毎月、寄付をするようになった。
クレジットカードの明細を見て、ああ、今月もほんのわずか、誰かの役に立てた、と呟く。
深いコミットメントを恐れる私が、見知らぬ誰かと幾許かのお金で繋がることに喜びを見出だしている。
お金に、種類はないと思っている。額が大きい方が単純にありがたく、助けとなる。しかしここで使うお金は、働いて得たものだからこそ、自分の救いになるのだ。
* * *
あれこれ考えつつ、結局のところ「この会社に籍を置いておけば、あらゆる意味で便利だ」という打算と、「ごはん食べなきゃ、税金払わなきゃ」という現実に動かされて今日も仕事をする。
先輩言うところの「優雅な生活」は私には送れそうもない。望むと望まざるとに関わらず。
でも、働くことから派生するあれやこれやが、私の中身を多少なりとも「つまらなくない」ものにしてくれるなら、結構、悪くない。