Vtuberがこれからも続いていくための覚書――MZMとケンドリック・ラマーを聴きながら
このnoteは、ある方の問いかけから「Vtuberがこれから続いていくために必要なもの」を考えたものです。ただし、自分自身が満足のできる回答を出し切れなかったのもあり、かなり論旨も整っていないものになります。
そして、最後の結論も、必ずしも論理的なものではないかもしれません。
ただ、Vtuberのファンの子と話してあまりに暗すぎて、このような書き方になりました。
後は、人々がどう読むかに任せます。
はじめに ーーこのnoteを書き始めた3つの理由
このnoteを書き始めたのには3つの理由がある。
①「この先10年間でVtuberが産業として存続することはできるだろうか?」という問いかけ
一つ目はある知り合いの方にこのような質問を投げかけられたからだ。
「この先10年間でVtuberが産業として存続することはできるだろうか?」
その方の考えを私なりの理解でまとめてみよう。Vtuberをキャリアとして考えた時に、おそらくは10-15年目で結婚・体調の変化などで違う働き方を考える人は少なくないだろう。
その時、この7年(あるいはそれ以上)の間に、過去のVtuberたちの知見がマネタイズ・3DCG技術・SNSの使い方などについて知見が共有されていれば、後の世代がVtuberの世界を盤石にしていく基礎となりうるだろう。
そうすれば、第一線で戦っているVtuberの子が裏方に入ってマネージャーとして頑張ったり、新しい事務所を立ち上げるなど、違う立場で持続的にVtuberとかかわることができるとその方は考えたという。
なぜなら、技術の共有やYouTubeでの生き残り方が共有されていないということは、Vtuberの世界は「人の将来も考えず、人を使い捨てにする状況を放置する」ことを意味するからだ。10年後・20年後の生き方を構想できないとすれば、この世界に入ってきた子たちはこの先どうなるのか。
この質問をされたときに、正直に私はその場ではかなり悲観的な答えしかできなかった。Vtuberとはいつかやめるもの――どこかで違う世界に旅立つ前の波止場のような印象を勝手に持っていたからだろう。
しかし、にじさんじやホロライブのような大手事務所から個人事務所まで、Vtuberになろうとする人は止まらない。その中には趣味ではなく、その道で生きようとしている人がいる。
その時にふと、私はこのままVtuberを見続けていいのかわからなくなってしまった。そもそも、Vtuberは10年以上、この世界が続くことを望んでいるのだろうか?このnoteはその問いについて考えるものになる。
②Monsterz Mateの5年前の曲に対する違和感
二つ目は、Monsterz Mateの「Up-to-date feat. かしこまり」という曲に感じた違和感が止まらなくなってしまったことだ。この曲は自分の知り合いのVtuberオタクの方が、この曲を繰り返し繰り返し勧めてくる、Vtuberがどうあるべきか、その理想を語ったアンセムである。
が、最初は名曲だと思って自分もカラオケで歌う中で、どうしても聞き直せば聞き直すほど違和感が頭をもたげ始めた。後述するように、それは「リスペクト」という言葉の使い方、そしてVtuberの世界の現実を見ると、この曲のように世界が進んでいないことが原因だと私は考えている。
この曲は名曲である。ただ、日とともに曲の解釈は移りゆく。
その解釈についてもこの先で書いていこうと思う。
③緑仙の言葉が苦しく聞こえてしまったこと ーー「配信をやめない」という言葉
最近、緑仙が2024年11月にライブをやることになった。そこで私の地元でも開催が決まったために、多くの友達から「どうせ緑仙のことだから、あなたはライブいっちゃうんでしょ?」とニヤニヤしながら(?)聞かれることが多くなった。
緑仙は、放送内外でも繰り返し「絶対に僕は配信者をやめない」ということを言っている。それを聞くたびに私は苦しくなってしまうのだが、その理由は緑仙にあるわけではない。それはVtuber特有の問題点があるからだ。
この3つの個人的な問題点は、いずれも同じ問題からやってきていると思われる。それはVtuberが自分たちの過去を振り返らないからだと考えている。しかもそれは向こう見ずだからというよりも、ある種の自信のなさから来ているのではないかと私は考えている。
ただ、私自身もうまくこの問題を整理しきっているわけではない。
そこで、今回のnoteではまず自分が問題と思っているポイントを指し示してみよう。
Vtuberの思い出は消える ーー過去を振り返らない/消していくVtuberたち
Vtuberにリスペクトをすることを考えた時、一つ大きな問題となる点があった。それは大手事務所・個人かかわらず、Vtuberは卒業するときにそれまでの活動を消してしまうことが多い。
Vtuberが動画を消すメリットとしては以下のようなものが想定される。
一方でVtuberが動画を消すデメリットは以下のようなものが想定される。
まず前提として、私は邦楽・洋楽を通しての音楽ファンだがこれほどの頻度で音源(PV)とか生放送が消えるネットの界隈というのは見たことがない。あったとしても、ニコニコ動画のように権利侵害が原因であって自分の意志でこの量消えるのは本当に覚えがない。
緑仙が「僕は絶対に配信をやめない」という度に、私が苦しくなっている理由もここにあった。それはVtuberの世界では、運営によって、あるいは本人によって動画が突然消えることが当たり前すぎるに感じた故に、逆に恐ろしい言葉に自分には聞こえてしまったのだ。そんなまっすぐな言葉を言っている人の動画が突然消えたら、私は恐ろしくて寝込んでしまうだろう。(当然悪いのは緑仙ではない)。
少なくとも、私は動画を消すのが契約上しょうがなかったり、ご本人の精神衛生上仕方がない場合は間違いなくある。ただ個人的には、
の二点はどうか、読まれている関係者の方には一考いただきたい。なぜなら、私は引退するライバーが動画を消した話がある度、泣いてるVのファンの人を慰めたりしているからだ。Vtuberの終わりが毎回悲劇のような形になるのは、ファンの精神衛生上よくない。もちろん引退するライバー本人の前でそういった苦しみを漏らすことはないが、5年以上前にいなくなったライバーさんの事をずっと思っている人の事を見ると、いろいろと考えたりする。
問題はこれだけでない。単純に、私が動画を見ていて感じるのはVtuberの人々が、あまり過去にいたライバーの事を喋る機会が少ないと感じたことだ。(ただし、ここはかなり体感で語ってしまっているため、もしもVtuber本人が、引退したVtuberについて語ったり、その意志を継いでいるようなことがあればぜひ紹介していただきたい。私が今必要と思っているのは、そうした過去のVtuberが残した遺志が引き継がれているという事実・物語だからだ)
例えば、Monsterz Mateは確かに今現在活動しているVtuberに対するリスペクトにあふれた動画を作り続けている。しかし、去っているVtuberに対する言葉は、5年前に出された楽曲「daydream」(名曲で必聴)から先、発見することができなかった。
もちろん、本人が嫌がっていたらする必要はない。ただ、私は後述するキズナアイのように思想がはっきりあった場合、あるいはEMMA HAZY MINAMIのように音源が残っているような人の場合、積極的に語ってしまってよいはずだろうと思っている。
一般的なマンガやアニメのIPビジネスであれば、たとえ作者がなくなってもドラゴンボールやクレヨンしんちゃんのように、そのキャラクターを丁寧に語り継ぐことでビジネスが成り立っている。しかし、Vtuberの場合、卒業してしまったVtuberの絵や曲を売る・カバーすることは今のところあまり行われていない。単純に情緒的な問題だけではなくて、IPを繰り返し売る循環が作れないという意味で大きな課題である。
Vtuberにとって必要な技術とはなにか?
最初の質問に戻ろう。
もしもVtuberをプロフェッショナルに仕事するとして必要な技術とは何だろう。
私がおおまかに思いつくのは以上のようなものである。
ただ、悩ましいのはVtuberはかかるコストが高いと言われるように、ハード面(実装に必要な技術)は確かに特殊性があるが、中の人に問われるソフト面の技術は、正直YouTuberとどれほど違うのかが未知数であることだ。ここについては、具体的な詰めを誰かとアイデア出しながら精選すれば、確かに使える指標的なモノが作れるかもしれない。
過去に、実際にVtuberの世界で起こった事象について、一応面白そうな本をまとめてみたりしている。もしも気になったら使ってみてほしい。
ケンドリック・ラマーとリスペクト ――リスペクトという言葉のHIP HOP的ルーツ
話がとんでしまって申し訳ないが、ここでそもそも技術の継承に必要な様子だと思う「リスペクト」について考えてみる。
Monsterz Mateは曲「Up-to-date feat.かしこまり」の中で「リスペクト」という言葉を、曲の中で使った。草分け(最初にVtuberを始めた人)の苦しさをも知らず、食い荒らした結果、未来がなくなってしまったこと、そしてそれを嘆く人々に「せめて正しく苦労できたやつが報われる」ことを祈ろうとする。
この言葉は、もちろん日常的に使うこともあるが基本的にはヒップホップの文脈から持ってこられたものと考えてよいと思われる。日本のヒップホップに於いて、リスペクトという言葉を自覚的に使ったのはHIP HOP界のアンセムとして名高いRHYMESTERの『リスペクト feat. ラッパ我リヤ』(1999)になるだろう。この曲では、いかに金がない人々が無我夢中に工夫できる場所としてラップを選んだかが、そしてそれを誇りにしているかが語られている名曲である。
この項では、コンプトンが生んだ新世紀のラッパー・ケンドリックラマ―の曲の話をしようと思う。Kendrickは2024年で36歳になる、日本でいえば米津玄師に近い世代のミュージシャンである。
Kendrickの生まれた街コンプトンで、「正しく苦労できた」奴は存在しない。なぜなら彼の1枚目のアルバム"GOOD KID, M.A.A.D city"で描かれたように、その多くがコカイン・性的な堕落・そしてギャング同士の殺し合いであふれた街だからだ。そして、人々は良い子(good kid)であったKendrickに対しても、ギャングや銃での武装などを迫ってくる。
間違った世界は、良い子にすら、間違った成長に仕方をさせようとさせてくる。そこで生まれた人々は結果的に黒人 vs 黒人というギャング同士の抗争に巻き込まれたりする。
2枚目のアルバム"To Pimp A Butterfly"の中でKendrickは、地元の仲間たちが銃撃されて死んだり、妹が10代にも拘わらず妊娠したりして、例え多くの人に支持されるラッパーになることができても、隣の人すら救えない自分に対して自分を滅ぼすほどの嫌悪感を示すこともあった(楽曲"u")。
銃と暴力が支配する混沌の街の中で彼は、半分狂ったような状態であることを啓示のように思う。
彼は、自分自身を愛することにした。(楽曲"i")
なぜなら、いくらみっともないように見えても、自分自身を愛せなければ他の人に愛してもらうなんてありえないからだった。
リスペクトという言葉は、単に「先人に従え」ということを意味するのではない。それは、自分が自分を愛せるようになった時に初めて、今の自分(ケンドリックであれば黒人であり、治安が非常に悪いコンプトン出身であり、ラッパーである)のルーツを愛する事ができるということだ。それがケンドリックの考えであるように、私は楽曲"i"から感じた。
アルバム最後の曲"mortal man"でKendrickは彼をラップの世界に導いた先人である2Pacと対談をする。すでに2Pacはギャングの抗争の中で銃殺され死んでいるため、この対談は疑似的なものである。
その中でKendrickは2Pacに対して、黒人同士の争いを止めることができるのは音楽と共鳴であると考えていることを伝える。それは、本人は平和と友情で出来た世界を望みながらも、自らもラップ世界の抗争に巻き込まれなくなった2Pacの遺志を継ぐと宣言したことを意味した。
Kendrickは、芋虫が周りの地獄のような環境にもまれながらも、少しずつ繭を紡いでいき、だんだんと周りのストリートを巻き込んで、これまでの地獄と惨劇に終止符を打つ蝶となるという、アルバム全体を象徴する話を始める。
しかし最後に2Pacは答えない。それは、2Pacの遺志がすでにKendrickに受け継がれたからだった。
ケンドリックがくり返し曲を通して伝えるリスペクトは推しを神にして触れることができないものにすることではない。そうではなくて、相手を対等なものとして扱ったうえで、対話を続けること、そして自分を大事にし続けること、どんなに怖く感じてもまっすぐ前を向くこと。そうしたシンプルなことだった。
これが、アメリカにおいて、もっとも忠誠(LOYALITY.という曲もある)や敬意を大事にしたとされるラッパーの考えた「リスペクト」の形である。
(この章の参考文献)
2Pacは、1990年代のアメリカ西海岸を代表するラッパー。彼が銃殺されなくなる前のアルバム"All Eyez on Me"には、ストリートの銃撃で亡くなった仲間たち一人ひとりのことを思い出し追悼の言葉を捧げる曲"Life Goes On"が収録されている。しかし、このアルバムを最後に、2Pacもラッパー同士の抗争に巻き込まれ亡くなってしまう。
2Pacは、"Changes"のような曲で黒人の惨状を判りやすい曲で訴える善性に近いところがあった一方で、ギャングの一人として、"Hit 'Em Up"のような曲で抗争を煽り、喧嘩を使用とする激しい側面が共存していた。
Kendrick LamarやJ.Coleのような新世代の人々は、その激しい側面は黒人のおかれていた過激な状況が招いたものだと理解しつつ、いかに2Pacの遺志を継ぎその先で自分の音楽を続けるかを考え続けている。
必要なのはBACK-TO-DATE ーー時に過去を振り返ることである
翻ってVtuberの世界はどうだろうか。確かに日本の場合、そこは治安が悪いコンプトンではないかもしれない。しかし、個人勢だった時からの苦労を語る星街すいせいさんのように、小さいころの壮絶な話を話されるましろさんのように、そこに集まった人は必ずしも順風満帆の人生を歩んだ人が多いわけではない。
むしろ、初期にデビューした人であるからこそ、誹謗中傷と自分の力不足、周りからの期待というプレッシャー、そしておそらくは表に出ない形でいくつもの困難と人に話せない苛立ちを抱えている。だから、私はケンドリックよりも何倍も抽象的な形にはなるが、バーチャルユーチューバー/インターネットの世界もそもそもはアメリカのストリートのように殺伐として恐ろしい場所と考えるのが正しいと考えている。違う種類の苦しみがそこには渦巻いている。
2018年ごろ、けもフレ2騒動のころでニコニコ動画が不調だった時、バーチャル四天王が現れたり、月ノ美兎やホロライブの人々が現れた時に、それに導かれてVtuberを始めた人も多いと思う。
そこに、YouTubeに認められるほどVtuberが世界中に広がることを予測できた人は、多くはないと思う。
その中でJ.matsudaさんのように、技術の力で新しい2次元存在を作ろうとした人たちがいた。これはのちにキズナアイとして、バーチャルユーチューバーを象徴する存在になった。
ウェザーロイドのように首を骨折しながらぐるぐる回って今も天気をお届けしているVもいる。にじさんじやホロライブ、バーチャルユーチューバーの四天王に.LIVE・・・と飛んでもない数のVtuberがいた。
Up-to-date feat. かしこまりの歌詞が書かれた2019年の2月、まだVtuberと言う存在の認知度も足りない状況だった。その時必要だったのは、「明日をとりあえず生きる」ための闘いと、アメリカンドリームのような未来に対する希望(かしこまりさんの歌うイマジネーション)だったのだろう。
そこから5年が経って、多くの人たちが生き残った。
でもいろいろなことがあって、そこに残れなかった人・あるいは去ることを選んだ人たちがいた。キズナアイの思想、ミライアカリ、KMNZのLIZ、BOOGEY VOXXのFra、にじさんじの勇気ちひろ、鈴原るる、ホロライブの桐生ココ・・・この辺りは実際に最後の放送を見たことがある人たちだ。
そして2023-2024あたりから、にじさんじで見ている範囲でも精神面を崩される方や、グループ活動の終焉が見えて、ファンが暗い言葉を吐くのを聞いたことがある。
そして、前述のActive8の創業者の松田さんのように、エンタメの枠も超えているある種の強い思想を持った人たちの中に、挫折感を持った人も少なくなかった。
この時に、必要なのは定義論とか誰が正しいかとか生き残ったかではない。
その人が、本当に欲しいと望んだものを――たとえそれが人と違っても――
一旦はリスペクトすること。そしてその人が残した技術とその人がつまずいたものをきちんと見て、次世代に伝えることだと思う。
特に松田さんの思想は、サイバースペース(電脳空間に別の存在を作る思想)や生成AI・AItuberと結びついたときに新しい解釈が与えられる可能性が高いと私は考えている。
必要なのは、人の努力が正しいか正しくないかの判断も必要ではあるが――その判断だけではおそらく、勝者と敗者がいるだけの生存競争の話だけになってしまう――エンタメにはならないかもしれないが、剣持が『虚構教典』で自分のいるにじさんじを若干悪役のようにも書きながら、初期の自分たちがワクワクしていたものも伝えることではないか。
去っていった人たちの事を常に思い返せなどとは思わない。
Vtuberは今のところ基本的にはエンタメの世界で、かしこまった話は嫌だろう。
ただ、もしも前に進んでUP-TO-DATEを続けた先を続けた先で、挫折した人がいるときに、技術的にも情緒的にも支えになるのはこうして見返したときに自分と一緒にいた仲間たちじゃないのか、と私はどうしても感じてしまう。歴代のラッパーたちが先輩をリスペクトするのは、それが年上だからではなくて、自分が苦境の時に新しい視点・アイデアや力強い言葉で自分を支えてくれたのがそのラッパーたちだからだ。
宇多田ヒカルが言ったように、たとえ過去の作品でも、その人が出会ったときが新譜なのだ。
今、これ以上なくVtuberを紹介しているMZMに対してこれ以上を要求することはできないのかもしれない。ただ、リスペクトという言葉を使っていた以上、わがままを承知でお願いしたいことがある。
それは1~2年に1回でよいので、可能ならば去っていったVtuberが大事にしていた考え方とか、その人の様子を思い出す放送をしてほしいということだ。
剣持刀也の教典については感想を書いている。
終わりに ーーVtuberは、Vtuberであり続けたいと願うか?
この文章を書いている途中、「Vtuberは刹那的な人たちだからどんなことを言っても無駄」と言われ何度か筆を落としかけた。その人たちは、Vtuberを私よりも何倍も知っている。だからここから書くことは私の思い込みか、バカな願望にすぎないのかもしれない。
中盤に書いた、技術的な話を本来はするべきなのだろうとも考えた。
「この先10年間でVtuberが産業として存続することはできるだろうか?」
この問いかけが最初だった。
しかし考えてみれば、そもそも活動しているVtuberや応援しているファン達に10年後もVtuberに近い世界で活動しているようなヴィジョンがなければ、この問いは成り立たちにくい。人を育てたりするのには、単にモノを買う以上の高いコストがかかる。そこには、それなりの覚悟が必要になる。
技術の継承というものがある場合、そもそも商業的に価値があるか、あるいはそれを持って作られるものに文化的な意味がある(MMD、初音ミク)と人々が(それがか細くてもアングラであっても)思った場合だ。
私は最初の問いに「そもそもVtuberたちはその年月続けようと思ってない」と言いかけた。
そう、「言いかけた」。
そこで気づいた。
私が今一番見ているVtuberたち(緑仙と月ノ美兎)は配信活動を続けるか、あるいはそうでなくても、自分の名前がちょっとでもインターネットに残ることを願っていると言ったからだ。
私は憧れのじんさんに曲をもらって喜んでいた童田明治や、初期のカオスなVtuberの世界を望みながらも、今も真ん中で道化を演じ続ける剣持刀也、
ドラゴンとして生まれて、人間が面白そうだからこっちの世界にやってきた初回配信の桐生ココをみたことがある。
最近では、星街すいせいさんが、自分が世の中に出ていった上でずっとVtuberの音楽をHook-upしようとしている人や、らでんちゃんの美術・社築の音ゲーのようにそれぞれの分野の事を知ってほしいために、Vtuberの世界を見ている人がいる。
だとすれば、Vtuberをこれから続ける意味は――過去に取りつかれすぎた人たちが何をいおうと――あるのだろう。
最後にこれを読まれているライバーさんに伝えたいことがある。
Vtuberとしての自分を愛してやってください。
本当は、違う名前でこの世にひとつのVtuberが生まれることも、素晴らしいことです。
そしてもしVtuberを続けたいと思って本当に余力があるのであれば、おそらくはこれからVirtualとインターネットのセカイに飛び込もうとする子たちに、困難はいっぱいあるとしても、その人たちに道しるべになるものを残してやってくれませんか。
もちろん問題はいっぱいだとして――私にVtuberの今後について質問をしてくれる人がいるということは、それを支えたいと思っている人は世の中にいっぱいいると、私は思います。
このnoteを書くために力をくれた、J.Cole、Kendrick Lamar、2PacとHIP HOPの文化に感謝を。
P.S.
ところで、技術や産業の質問を振られたのにこんな回答になってしまってよかっただろうか・・・(汗)