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緑仙の『イタダキマスノススメ』を聞いて(主菜) ーー毒を喰らわば血と肉と心臓と、愛と傷とロックンロール。


 どのくらい自分に正直になったらこの歌詞(イエモンの『JAM』)が書けるんだろうなと思って。
ロックバンドで正直って言うと、ただストレートに君のことを愛してるっていうんじゃなくて……『王様は裸だ!』って、『あっ!言っていいんだそういうこと!』って気づかせるのが、ロックバンドで歌う人の正直さだと思います』

EIGHT-JAM「THE YELLOW MONKEY特集」より
9mm Parabellum Bullet 菅原卓郎

 

ここから先が本番である。
本番と書いてガチである。ガチンコである。

だからゾーニングをしたいと思う。
ここからはなるべく思ったことをストレートに書こうと思う。
自分がにじさんじに思っていたこととか隠していたこともなるべく書いてみよう。
ゆえにそれは、すべての人に受け入れられる言葉ではない。
だからこの先を読まれる方は、どうかそれを覚悟されてほしい。
(特に体調が悪いときはやめた方がいい)
さらに、ファンの方も無理して読まれないことをお願いしたい。

一人の人間が自分の欲望をさらけ出している文章なんて、基本汚らしく恥ずかしいものでしかないからだ。







OK?







『イタダキマスノススメ』を聞いて思ったこと ーーこれは、本当に「攻め」のアルバムか?

このインタビューで緑仙は「Vtuberとしてフェスに出たい。お遊びで音楽をやっていると思われたくない」と言っている。しかし、このアルバムを実際聞いてみた私の気持ちは非常に複雑だった。
このアルバムの中で亀本さんらバンドメンバーを率いて徹底的にロックサウンドに攻めた3曲が、攻めの曲に聞こえなかったからだ。

私が『独善食』『なんでですか』『Reject it now!』から感じたのは、攻めというよりは「怯え」である。怯えに聞こえる理由は、まずこの3曲が反撃の歌詞であることがある。
もちろん、「反抗」はロックにとって大事なキーワードである。ただこの3曲が主張しているものは、かなりつつましやかで、しかも歌詞の内容は反逆の内容よりも、「どう自分が痛く感じたか」を描いている。反撃の「撃」の部分の描写が少なすぎて、おびえているように聞こえるのだ。
『独善食』であれば「馬鹿にしないでほしい」「小さな幸せ寄せ集めあなたをうらやんでたい」
『なんでですか?』であれば「僕の話を聞いてほしい」
『Reject it now!』では願望というよりもむしろ、ほかの人から影響を受けるのに怖がる人の様子が映る。

私の理解だともしもラディカルな意味でロックを考えるなら、冒頭の9mmの菅原さんのように、その怯えをも超えて、言ってはいけないこともバチっと言い切ってしまうような覚悟と執念と燃える心こそが核心にくると感じている。
『僕の話を聞いてほしい』と言うよりも、演奏丸ごとお前の耳にぶち込むような破壊力が狙いになるのではないかと感じたのだ。

なぜここまで書くかというと、音像的にこの3曲を作る原因になったバンドであろう9mm Parabellum Bulletは、間違いなく歌詞の面でも日本で一番尖がっているバンドのひとつだからである。
そしてそれ以外に、緑仙がよく言及するする山本正之さん(ヒーローソングの名手)や椎名林檎は、確かにカッコいい言葉・美麗な言葉で着飾ってはいても、自分の言いたいことはハッキリと曲げない芯の強さを持った人々だからだ。


アニメ『ぼっち・ざ・ろっく』の結束バンドの歌詞は、主人公の後藤ひとりが徹夜で作ったことになっている。『ギターと孤独と蒼い惑星』(作詞:ZAQ)の歌詞を聞くと、確かにおびえているように聞こえるフレーズはあるものの、ぼっちちゃんはほとんど自分の心の中を反省をするような歌詞を書かなかった
結束バンドの歌詞は、劇中のぼっちちゃんからは想像ができないほどに、ぼっちちゃんの渇望がある種おおげさに描かれた歌詞になっている。彼女は音楽とギターでしか本音が言えなかった。だから、曲の中はエレキギターや共鳴についての言葉ばっかりだ。彼女も2番の真ん中で自分が無力であることを告白している。「しかし」、彼女は自分が信じたギターの音をかき鳴らし、ぶつけてくる。

ただし、ロックというものも、90年代以降に入るにつれ多様化していった。
RadioheadやRADWIMPS、BUMP OF CHICKEN、amazarashiのように怯えや恐怖を歌うことで名曲を生んだバンドも数多いことは、明記しておきたい。それもまた一つのかたちである。


愛と欲望 ーーそれはキラキラしたキレイなものではなくてもっとドロドロしたもの



なんで愛のことなど突然持ち出したのかと思われるかもしれない。ただこれには、一応の論拠がある。精神科医の東畑開人は、著書『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』で、人が人とつながる時の関係性を次の二つに分類した。

シェアのつながり ーー『共同性』
⇒友達・仲間の集まりなど、同じ時間、同じ場所、同じ問題をシェアする仲間
ナイショのつながり ーー『親密性』
⇒「本当に僕のことを大切だと思っているのか」とかの普通人には言わない感情をぶつけ合う仲

東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』

東畑さんは、この二つの関係の違いを「傷つきの扱い方」の違いに見ている。シェアの関係ならば、例えばママ友の付き合いのように、愚痴を回してみたり、傷つきを共感すること、そしてお互いの傷つきを「傷つけないように」しあうことで援助することができる。

しかし、このシェアの関係では対応ができないことがある。
例えば自分が性的マイノリティであることのカミングアウトや、どうしても他の人への憎しみ、告白、金銭相談といったものは、あまりに重すぎて外の人におおぴろげに話せない。
そしてなにより、その感情は話すことで人を傷つけることになる。
東畑さんはその傷つけあいは当然摩擦でもあり、時には暴力になるし逃げるべきときは多いことを認めたうえで、けれどこれを回避してしまったら他者と深くつながる(結婚、親友や盟友)ことはできないだろうと考える。

そう、Mr.Children『CrossRoad』や宇多田ヒカル『One Last Kiss』が正しくとらえているように、どうも精神科医の意見でも深い意味で人を愛するためには、傷つける/傷つくことを覚悟しなくてはいけないようである。

そして『友達代表宣言』の去っていく友達へのある種歯切れの悪い言葉や、
『ハッピーラッキークッキー』の一見つつまやしかなクッキーへの祈りがいつの間にか嫌いなものをすべてぶち壊すほどの喜びに変わっていく様子、そして何より『エンダー』など過去の歌詞を思い出してみると、緑仙が根源的に欲しているモノはこの傷つけあうことができる方の関係にしかみえないのだ。

「人を傷つけてはいけない」と言葉では簡単に言える。
でも、人は傷つかないと人とつながることができない。
そしてとりわけ、ロックンローラーはそこでそれでも手を伸ばすこと望んだ存在である。

ここから、緑仙が好きだと言った9mm、椎名林檎、そして歌謡曲とロックの関係を語るのに重要な存在であるThe yellow monkey(吉井和哉)のことを書いてみよう。
ビビっている人のアルバムを解剖しても、申し訳ない気持ちになるだけだ。



9mm Parabellum Bullet ーーそのバンドは、何もかもを燃やし尽くすことにした



9mmの代表曲の『新しい光』や『ハートに火をつけて』は、人の心を串刺しにする凶悪な曲である。
火山の礫のような轟音のドラムと、地震のようなメタリックなギターバッキングが鳴り響く『新しい光』の歌詞は、非常に断片的で抽象的である。しかし、その声の主はどうやら強引に曲を聴く「キミ」の心の中もすべて暴いて脱ぎ捨てさせようとする。
『ハートに火をつけて』ではスカのリズムに乗せて、相手のトラウマとなっている深い傷をお互いに本気でぶつけ合おうと言い出す。しかも相手のトラウマを判った気になって、結構荒々しく人を巻き込んでいく。

この2曲の凶悪なところは、言っていることが無根拠なことだ。
「新しい光の方へ君を連れていく」とか「全部燃やして灰にならないか」という言葉は、人のことを勝手に自分の物事に引き込む暴力性がある。

そして9mmは4ピースバンドでの体制を変えずに、しかしその「愛」をロックンロールにのせて歌うために次々に音楽性を変えていった、非常に強力なバンドである。

ロックバンドをやっている人は狂暴だ。
先ほどの東畑さんの分類でいえば、ある人が持っている悩みやモヤモヤを、ライブハウスやCDの中という特別な場所で、ぐっさりと突き刺してしまう。
少なくとも、9mmのような本格派のハードロックを中心に考えるならば、
共感をかなぐり捨てて、言い訳や心の防御もかなぐり捨てることがその本質になるように私は思える
がいかがだろうか。


 Kindle Unlimitedで読めるインタビュー集 '9mm Parabellum Bullet Interviews'では、ドラムのかみじょうちひろさんが鬼の形相でドラムを修行させられていた話や、ダサいと思われていたリフを気合で採用する話など、バンドをやっている方なら気になる情報が満載だ。
ただ、このnoteではあくまで歌詞の方にフォーカスを置くことにする。私はフラメンコギターとアコギしか持ってないのもあるが、何より紙幅の問題だ。

9mmのアルバム『Revolutionary』は、2010年6月のギターマガジン・滝善充/菅原卓郎インタビューによれば、プレイヤーとしての技術が上がり、1stのころのように壊滅したギリギリのギタープレイをすることが減り、本人たちも成熟を感じていたアルバムである。


THE YELLOW MONKEY(吉井和哉) ーーその人たちは、いくら虚無感に打ちひしがれても目の前の君のために歌った

90年代にオリコンチャートの1位をぶっちぎったバンド、THE YELLOW MONKEYは、それまでの日本で歌われてきた「歌謡曲」の要素を織り交ぜたバンドとして語られることが多い。
「歌謡曲」が何を意味しているかは、あまりに言葉の定義が広すぎて、非常に難しいがよく言われるのは「哀愁があふれている」「無骨な」イメージのある曲たちである。
イエモンは、1996年にシングル『JAM』を発表した。この曲は「日本人は機内にいませんでした」と嬉しそうに語る事故を報道するキャスターの様子を見て感じたむなしさを歌う。その上で、吉井さんは「おやすみなさい」という事にする。
この曲は、人を大事に思う気持ちが国やお金や距離の遠さによってあっさり蔑ろにされるむなしさを描いている。どこかの国で今も人が死んでいる。
でも僕らは何もできない。
それに対して、吉井さんは血の涙を流しながらおやすみなさいを言い続ける。この曲は90年代の日本のロックを代表する曲になった。

THE YELLOW MONKEYの曲は、この世界のむなしさと悲しみを歌う曲が多い。でも、その曲の最後にはどうしても人が好きで立ち上がってしまう、ちょっとおっちょこちょいなところも感じられる。
・幸せをバラに譬え、それをつかもうともがき続ける傷だらけの人々に「それでもあなたは信じ続けますか?」と語り掛ける『バラ色の日々』
・どこか不気味で退廃的なシンセの音にのせて、「楽園にいこう」といいながら「愛の詩なんていくらでもある」「過去のトラウマは消えない、未来も絶望する」という事実を突きつけてくる『楽園』
・直球で愛を語り、愛に対する疑いも「がんばっちゃう」と気合でどうにかするチャーミングさと「自分のためもあるんだよね」と歌い、あなたのためと言い続ける『LOVE LOVE SHOW』

と、人間への愛と絶望を何遍も何遍も折り返し歌い続けた。不器用に。

2001年にTHE YELLOW MONKEYは活動休止、2004年に解散する。
その時期に作られた吉井和哉(YOSHII LOVINSON)の曲は、イエモン時代よりもさらに内省的だった。が、それゆえに人を惑わすレトリック(難しい言葉)が減り、より表現はまっすぐになっていった。
人に語り掛ける要素が特に強調されるようになった。


『トブヨウニ』は、うつむいた友達にふと白いカーテンをたとえるところから、少しずつ、ちゃんと話したいということをどうにか伝えようとする曲。
もう夢をやめたくなった人、何かを失ってしまった人に(根拠はないかもしれないけれども)少しずつ、けれども積み重ねるように言葉を重ねていく。

イエモン・吉井さんが言っていることは、引いてみてしまえばだますかしで、根拠がないように聞こえることもあるかもしれない。
ただ、大事なのは吉井さんの歌詞は、なんか理論があるとかではなくて、その場で起こった世界の出来事に、本気で悲しみ涙を流し、あるいは喜んで正直にならないと絶対にかけない歌詞だということだ。

そして、それは世界中で起こっている大きな悲劇や隣のお嬢さんが悲しんでいる人を勇気づけれないという小さな悲しみまで、全部を引き受けるという地獄に直面し続けることだ。

イエモン解散直後のシングル曲『CALL ME』は、のちに9mmとの対バンでも歌われた一曲。戦車に乗った吉井さんのPVは、9.11直後の戦争の予感を忍ばせる。この曲で吉井さんは、何年すぎても人が人を蹴落とすために行動し、一人の人が一人の人を愛する「I LOVE YOU」という言葉が消え続けることを叫ぶ。




椎名林檎 ーーその人は、何度ぶつかっても本当に人の幸福を祈り愛していた



椎名林檎は、9mmや吉井さんとはまた違う癖があるアーティストである。
椎名林檎の最初のアルバムである『無罪モラトリアム』は、その後の椎名林檎と比べても比類がないほどまっすぐな曲が入ったアルバムである。

『幸福論』を、まっすぐ自分のそのままの気持ちだとして歌ったとしたら、
すさまじい曲である。この曲では、あなたの考え・哲学、そしてメロディそしてそこにいる存在そのものを愛していると言い放つ。
この曲はあなたがあなたであるそのままが好きだと言っているのだ。
この徹底的な相手への愛は、その後、『ここでキスして。』『ギブス』といった曲に浸透している。特に最近ではよく言われることだが、椎名林檎が発見したのは、サブカルチャー的に物事を分析する視点であるというよりも、
『君のことが心の中まで好きだ』と、嫉妬も欲望もない交ぜにして人にぶつけていいという姿だった。
 そして、私は『曲を聴いている人を信じて愛する』という一点において、椎名林檎は実は今も全く変わっていないと感じる。それが年齢が進むにつれて、苦しみや苦労がにじむことになったとしても。


椎名林檎の『勝訴ストリップ』の最初の曲「虚言症」は、もともと「大丈夫」というタイトルがつけられていた。その曲は、人や雨やいろいろなことに傷つき、自殺を試みる子に対して、大丈夫だと、自分もこれだけボロボロでいると語り掛ける曲だった。
恐らくこの曲のタイトルが変更されたのは、椎名林檎はこの「人にしんでほしくない」をまっすぐ伝えても伝わらないことに直感的に感じていたからではないかと私は考える。
「月に負け犬」で椎名林檎は、好きな人が多すぎることへの悩みを明かす。
もしも好きな人が多ければ、それは逆に言えば「自分にとって大切な人」を選べないという意味でぞんざいに扱うことになりかねない。この曲は、それでも、自分は本気を出すことを誓う。

椎名林檎は、吉井さんや9mmに比べても優しい人のように、わたしは曲を聴いて感じる。それは、自分の言葉が人を傷つけることを、どこか避けるために愛と言う言葉を直接に使わずにいろいろ言葉に変えて僕たちに渡してきているように聞こえるからだ。


私の欲望 ーーたとえ人とぶつかったとしても、自分の心から沸きだすものに正直に、そして貪欲であってほしい


9mm Parabellum Bulletは先駆者の曲をカバーするトリビュートアルバムに良く参加している。ただ、そこで選ぶ曲は、自分がTVのシンガーとして成功した薄っぺらい存在であることを自嘲するイエモンの『TVのシンガー』、そして、マニュアル通りに生きて小さくとどまろうとする人間を「所詮平均的ならハッピーなんだろ?」を人を煽るthe pillowsの『インスタントミュージック』をカバーしていた。
9mmが時折見せる挑発的な歌詞は、先駆者たちから受け継いだものだった。

THE YELLO MONKEYSが解散したのは、洋楽のフェスに参加したときに全く受けなかったことが理由ともいわれている。吉井さんは、OASISの'Don't Look Back In Anger'を和訳して歌うなど、洋楽への対抗意識、そして日本の
「ダサい」ともいわれがちな歌謡曲への愛を隠さなかった。

「いえ、そこは私もそろそろ長年やってきたクチなんで、何度も夢見て悲しんでいる以上、あまりそうは思えません。だって今よく音楽業界が瀕死だと言われているけど、正直レコード制作の現場の多くは明らかにユーザーを見くびっていると思う。根本的な部分で、さんざん裏切っているという風に私は見ています。いろんなビジネスがあってお金が回ることが第一だというのもさすがに承知しています。でももしそういう洗脳ビジネスが一つ門存在しなくなればなったで、私達なんてやる枠すらいただけなくなりますもん。(中略)
しかしもっとよくないと思うことがあって。アンダ―グラウンドでもインディーズでも、いい音楽をならしている人々がいますよね。平たく文字にすると『実力がある』、『才能がある』彼らが、自分の内輪だけで小さく循環しようとしている状態です。もう信じていないんですよね、メジャーなり、メディアなりを。だから『自分ら不器用ですから』みたいなことになっちゃっている。違うじゃん、ちゃんと勝負してほしいと思います。やっぱり同業としては『一緒にやってくれませんか?』と申し上げたいんです。『疲れてないで行こうよ、まだ若いんだから』と。そんな場面が頻繁にある。自分はそれを常々それを一番悲しんでいるんだと思います。」

椎名林檎「運動的音楽論」(2010)『音楽家のカルテ』

椎名林檎が悲しんでいるのは、本気を出そうとしている人が、素晴らしい音楽を世界に知ってほしいと言わず、千々こもっている様子を嘆く。J-POPなんてダメな音楽だと喧嘩になったこともどうやらあるらしい。

だからこそ、彼女は全力で生きている人に対しては、敬意を払い、全身全力で立ち向かおうとする。その成果がおそらく最新アルバムの『放生会』である。

だからこの視点から言えば、もしも自分がやりたいと思ったことが人に受け入れられないからといって、リスナーが音楽が知らないからと言って拗ねるのは、この言葉からすれば逃げていることにほかならない。

緑仙のアルバムを聴いて、私は歌詞を中心にこれは『守り』のアルバムだと感じた。そして、Vtuberとして活動者として常日頃炎上に気遣いするのが身についている人にとってそれは仕方ないのかもしれないとも感じた
(その意味で、このアルバムはVtuberらしいなとも感じた)。

でも私の音楽ファンとしての心はこうだ。
今やっていることが「無意味」とか感じることもあるだろう。
それでも私は――わがままなのだろうが――椎名林檎の言う意味で、勝負してほしい気持ちになった。
いくら自分のやっていることが古臭かったりヘンテコに感じても
本当に自分のやりたいことを貫くのが、活動者としてのファンへの信頼だと私は思う。

そしてその本気はインタビューの言葉だけではなく、音楽の上で表されなくてはいけない。




(参考文献)

私の意見はこの本を読みながら作ったものである。
やはり有名な音楽プロデューサーの視点から見ても、周りを気にしていい音楽を作ることを忘れるより、心が震えるほど(恥ずかしくなるほど)の言葉を探したり、自分が感動するものを探すことを勧める。


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