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推し活をやめてみよう ーーVtuber依存から離れてにじさんじを見るために


にじさんじはスパイスですから

2021/04/22 月ノ美兎,

Yeah, Tupac dead, gotta think for yourself.
ああ、2Pacは死んだんだ。自分で考えなきゃな。

Kendrick Lamar 'Saivor'


問題は、そのスパイスに依存してしまったときである。


はじめに ーーVtuberが次々と卒業する世界で、自分を大切にするために


個人的にこのnoteを書き始めた理由から書こう。

私がnoteを書き始めた3年半前、最初に書いたのは推しからいい距離を取るための考え方だった。これは、やはり推しと共に生きる時代が来るときに、押しとの距離感こそが問題になると思ったから書いたものだった。

そして3年経ち、気づけばうっかり3年間にじさんじにかんするnoteを書き続けることになってしまった。その過程で、文章を書く方、Vtuberに詳しい人などいろいろな人に出会った。
ただ、この後も言及するようにここ数カ月のnoteはちょっとあまりにも暗く、書いていることが間違ってない面もあるとは思うが、良い気持ちが自分でしていなかった。

その時に、いろいろな本を読んだ結果、私の状態は病気まではいかないのだが、軽度の依存状態的な部分があるのではないかと考えた。


私がこの最初のnoteを書いた3年前とは状況は大きく変わった。
にじさんじ/ANYCOLOR社は上場企業となり、広告代理店による積極的な広告が打たれるようになった。さらに、YouTube Japan社も公式のXからライバーの動画がバズった時、引退するときにも喜んでツイートをするようになった。
これはにじさんじとしては喜ばしい一方で、問題点もある。それはにじさんじと一時期間を取りたい人は、CM、テレビ、Xと言ったありとあらゆる場所でサブリミナル的にやってくるにじさんじの情報を遮断していかなくてはいけない可能性があることだ

ライバーが卒業して傷心の人、推しと致命的に考え方が違って間を取りたい人にとって、この環境はかなりつらいものがある。さらに、後述するようにVtuberを通して友達を作っていった人にとって、Vtuberから離れることは友達のコミュニティにいづらくなる可能性もある。

このnoteで推し活を否定することはしない。
むしろ、多くの人に頼って生きることができなくなった人ほど、過度な依存へと傾向してしまうと考える。そうして、ついファンが行ってしまうアイドルへのケアから、アンチ行動への結びつきをひも解く文章も現れた。この文章は有料なので細部には入らないが、やはりVtuberというものが「人を愛したい」という寂しさを利用したビジネスであることをよくこの文章もひも解いている。

でも、にじさんじの卒業が増えたこの時期だから言えることもある。
ライバーは、いつか僕たちの前からいなくなる
その時に、夢が覚めたような心地になった人たち、絶望的な気持ちになって立ち直れていない人も多く見た。
人はいつか死ぬ。そして別れる。

お別れが来た時に、自分のせいでファンがずっと苦しむのは、卒業したりこの世を去ったライバーにとって、本望ではないだろう。
その時が訪れる前に人はどうやって少しずつ自分の足で歩けるようになるだろうか。このnoteではその手助けになる本や考え方を共有する。

依存症治療と推し活から離れること


精神科医の松本俊彦先生は、元プロ野球選手の清原選手をはじめとした、薬物、ギャンブル、ゲームなどの依存症の専門医である。
松本先生は、繰り返し「依存症の本質は快楽ではなく苦痛の緩和にある」というテーゼを掲げている。
依存症と言えば、麻薬のように快楽を求めてなるもの、自堕落なものというイメージが付きまといやすい。しかし実際に臨床に当たっている先生によれば、むしろ依存症になる人は、ほかの心の痛みや生活の苦しみがあって、それを避けるためにお酒などに頼る、今この時をしのぐために手を出してしまうものだという。

ゆえに、松本先生は依存症の対応において重要なのは、依存状態になった人を一人にしないこと、安全に自分の思っていることを喋ることができる場所を作ることである。
松本先生は依存症というものはなくならないと考えている。それは絶望しているわけではなく、人間は何かしら寄りかかるものを必要としているからだという。
そして、何より大事なのは「あの人に認められたら・・・」といった気持ちだけではなく、自分の中にあるありのままの自分を大事にすることだという。

さらに、こうした依存症の議論を教育現場での事例に広げたのが村中直人『「叱れば人は育つ」は幻想』である。この本では、叱ることが脳科学的にもよい結果を出さないどころか、子どもたちは悪いやり方を繰り返すという。
「叱る」という行為を受けた人は、逃避行為、つまりその場を取り繕ってやり過ごす行動を取る。しかし、この時に本質的に相手がなぜそのような指示を出したのかを無視して逃避を始めてしまうため、同じことを繰り返してしまうことになる。
さらに、この「叱る」という行為自体も、「悪いことをした人を罰したい」という欲求によって、自分の苦痛を押さえるという一種の「依存」になりえると村中さんは説く。

Vtuberの文脈に照らし合わせると、読まれた方もお気づきになられただろうが、これはほとんど誹謗中傷やファンからの指示がやまない理由を説明しているのに等しい。個人的には、ここ最近の自分がこの叱る依存になりかけていたことに気づいた。
この本では、叱ることの代替案として、
「俯瞰して相手に伝える(相手をコントロールしようとしない)」
「叱ってしまった自分を叱らないこと(自分を責めてもその先はない)」「前さばきをして、事前に悪いことが起きそうな部分を対処しておくこと」
などの案がこの本では伝えられている。


Vtuberから離れるための環境を作ってみよう ーーコミュニティ、記録、代替行動


では、こうした依存症に関する知見を、Vtuberに依存してしまう場合にどのような行動を起こす必要があるかを考えてみよう。

①にじさんじ以外のコミュニティに所属する

実は「依存」という考えでVtuberを見ると非常にトリッキーである。なぜなら、今回依存している相手は「画面の向こう側にいる人だから」である。
(Vtuberは人ではないという議論もあるが、ここはいったん横に置かせてほしい)
そして、数多くの応援広告が増えていく中で、それぞれのライバーの下にファンコミュニティを作っている。こうしたコミュニティに所属している人からすれば、推しを変えたり見なくなることは実はそのコミュニティにいづらくなることを意味する。

この時に必要なのは、推しがやっていたことからでもよいから派生する形でもよいので、にじさんじとは違うコミュニティを持っておくことではないかと私は考えた。
依存症になりやすい人の特徴は、孤立していること(孤独ではない)である。そして、にじさんじのつながりでやっと友達ができた人で、その友達を失いたくない故、にじさんじを見ている人も少なくないと話していて感じる時があった。

筆者の最近のカラオケ

私は、もともと4年前から緑仙の配信を、カラオケで歌う最新の曲を探すために見ていた。その過程の中で、緑仙の歌のうまさに惹かれて、その動画を見ることをモチベーションに、自分も歌をコツコツやった結果、もともと70点台しか出せなかったところから、米津玄師の曲で一桁台を出せるところまできた。(裏で、緑仙より高い点を出して勝手にガッツポしてたりする)
これだけ歌えるようになったおかげで、自分にカラオケの歌い方を聞く人も出てきて、にじさんじとは違うつながりも出てきた。ここまで、ライバーの趣味と並走して自分のスキルを磨くというのは、にじさんじ以外の世界を見るときにも有効である。
転んだ時の支えは、多い方がいい。

にじさんじを通じて出会った人たちにも、気兼ねなくにじさんじとは関係ない話をできるよう、話を振っていけたらよいのかもしれない。


②記録をつける

薬物にしろ、食べすぎにしろ、多くの依存症治療では「記録」をつけることを大事にする。松本先生の例では、自傷行動を繰り返してしまう人に対して、無理やり押さえつけて行動をやめさせるのではなく、
「自分がどのような時にやってはいけないことをしてしまうか」、そのトリガーを自己分析することをお願いするシーンがあった。

ある行動を繰り返してしまうとき、そこには別のトリガーが存在していると考え、自分のクセを整理しておくことは、その行動をどうやって減らしていくかの大きな手掛かりになる。

③アルゴリズム的ににじさんじの情報をシャットアウトする

以前あるバーチャルユーチューバー(たしか美兎委員長だったと思うのだが、アーカイブが見つからないのでぼかさせてください)が、Vtuberのサムネは、赤色じゃないとうまくバズらないからそうしていると言っていた覚えがある。
多分これはインプレッションを稼ぐためには、赤のような刺激が強い色が目を引いて効果が高いという意味もあるだろう。しかし、視聴者目線から言えば、これは刺激物を目の前に出されるのに等しい意味を持つ。

にじさんじのコンテンツは「魅力的」であるように作られている。
そのため、それらから間を置きたいときは、XやYouTubeのミュート機能を積極的に活用する必要があるだろう。

④代替行動を作る

②のように記録をつけた後に、もしも勉強のようにやりたいことができた場合は、どうしたらその新しくやってみたい行動を増やせるかを考えてみよう。
例えば、私はにじさんじの視聴を控えたいと思う時は
①フランス語の動画を見る
②筋トレする
③自分で歌う

というように、違う行動を起こすようにした。この時上げられる行動の幅はある意味である人の人生の充実にも深く貢献するように感じる。そして、お気づきだろうが、こうした行動の選択肢は、にじさんじのライバーをお手本にしてよさそうである。


最後に 依存してもしなくても人生は続く

ストリートファイターの有名なプレイヤーであるウメハラは、自らもゲーム依存症だった時期は間違いなくあり、その意味で依存症の子供たちと自分を分けてほしくないという。

松本医師が述べたように、依存という行動は異常なことではなく、何が悪いことでよいことは時代によって大きく異なってしまう。ゲームやマンガも、規制法が検討されたことがあった。
大事なのは、ありのままの自分を大事にして、たとえマジョリティになじめなくても肩の力を抜いて生きていてよいということである。
そして、それは推しと違う自分を認めてよいということである。

私がファンの方と話す中で、推しのことを思うあまり、自分の不満すら押し殺してその人の意見を尊重しようとした人を見てきた。
それが悪いこととは必ずしも思えない。
ただひとつ言えることがある。
「●●さんのファン」という名前の人はいない。
みんながそれぞれ心の中に憧れと羨望と嫉妬を持つこともある人間である。

だから人と意見が違ってもよいのである。

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