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雨の日の音楽ーー 夢追翔『音楽が消えた街』レビューをする前に1stアルバムと2ndアルバムをさっと振り返った


「こんなものはフィクションです」と提示し続けること ーー夢追翔のメタ思考という通奏低音


夢追翔のファーストLPである『絵空事への入り口』と、ファーストアルバムのジャケット写真を見ていて末恐ろしい気持ちになったことがある。
一枚目の『絵空事への入り口』の時には、大きな青空が広がりこれから自分の曲を出していく青年の、明るい未来を示しているかのようにみえる。

しかし、何故か1stアルバム『絵空事に生きる』のジャケットでは、カメラを引いてしまう。こんなものは嘘だと、客観的な事実を突きつけてわざわざ幸せな夢を壊してしまう
この俯瞰する目線は、夢追の曲の随所に顔をのぞかせる通奏低音になっている。

『弱きに寄り添う』であれば、弱い自分と言う存在、
『僕のあたまから出ていけ』であれば、自己顕示モンスターとしてネットの世界でいいねを稼ごうとするモンスターとして
『人より上手に』であれば人との比較をAメロBメロで繰り返し「自分で自分の価値を決めつけていた」ことすら反省する。そこから否定と肯定をも超えて空っぽの心でも、自分自身ではないものを大事にすることを誓う。

夢追翔が1stアルバムで見せたものは、自分がどう見られているか俯瞰し、繰り返し反省するという、最初は怯えだっただろうところから身に着けたやり方だった。そして、彼は『死にたくないから生きている』という最初の曲に、自分の一見受け身な、しかし弱虫の反撃ともいえる曲を作る。

1stアルバムは自制と自省を繰り返した一人の音楽家が
血みどろになりながらも、勇気をつかみ取る名盤である。


――しかし問題は、この徹底的な自己批判の目線が他人に向いた時、そして誰かが大事にしていた遊びや概念に向いたときである。


気晴らしを求める人間とパスカル ーー独我論という名の宿命とSEKAI NO OWARI

パスカルはこう言っているのだ。
人間はつまらない存在であるから、たとえば台の上で玉突きするだけで(ビリヤードのこと)十分に気を紛らわせることができる。なんの目的でそんなことをするのかと言えば、翌日、友人たちにうまくプレーできたことを自慢したいからだ。(中略)
そして最後に――ここ!――こうしたことを指摘することに身を粉にしている人たちがいる。それも「そうすることによってもっと賢くなるためではなく、ただ単にこれらのことを知っているぞと示すためである。この人たちこそ、この連中の中でもっともおろかな者である」。
狩りや賭け事は気晴らしである。そして、「君は、自分がもとめているものを手に入れたとしても幸福にはならないよ」などと訳知り顔で人に指摘して回るのも同じく気晴らしなのだ

國分功一郎 2015『暇と退屈の倫理学』p43


夢追翔2ndアルバム『拝啓、匣庭の中より』は、ジャケット写真が示唆するように、銃口を他者――あるいは世間に目線を向けた作品である。

『おそろいの地獄だね』は相手の頭の中で鳴り響く自己否定の声を聴いて、
君と僕は同じ地獄に行くだろうと歌う。
『君の好きな僕』は、まさにタイトル通り相手が頭の中で思い描いている僕が、自分が思っている自分とは違うことに気づいてしまう。

さらに目線は世間では大切だと思われているものにも向かう。
『音楽なんざクソくらえ』では、音楽はしょせん流行であると看破し中指を立てて人に(半ばクソだと思っているのかもしれない)自分の歌を聞かせてやると歌う。
『命に価値はないのだから』は、一般的に大事とされている命に対して、生きていることも死んでいることも一緒だと言い放ち、比較をやめることであるがまま生きることを「あなた」に歌う。

「命」「音楽」「インターネット」と一般的にはよいもの(ネットは微妙だが・・・)であるものを、そうではないと歌い続ける彼はやはりここで徹頭徹尾冷静かつ力強い。

しかし、これらの曲はおそらく哲学的には独我論という落とし穴にはまっている。要は、これらの曲は「あなた」や「世間」が具体的に何を考えているかを聞くような描写はない。

「音楽」を大事にしている人の前にこの曲を出したとき
あるいは今、まさに命を救っているような仕事をしている人の前にいるとき、これらの曲の意味はあまりに大きく変わってしまう。
そして、パスカルからすれば、下手をすればそれらのわかったように振りまくこのアルバムの力強い主張も「気晴らし」に見えるかもしれない。


SEKAI NO OWARI『Habit』は大人たちが説教するのは「所詮は快楽のためだ」と看破する名曲。ただし、この曲には賞味期限がある。おそらく本人たちも自覚的だが、この曲自体が「説教」になりかけているからである。
ゆえに、この後のアルバムなどの曲でSEKAI NO OWARIは似たように説教を繰り返す曲はやらなかった。

パスカルの議論を受けて、大事なのは(この文章のように)それを指摘することではない。人には、他者と話すときにお互い分かり合えない溝や、誰にも話せない暗い底があることを知っておくことである。
この議論を紹介した國分は、人が抱えてしまう「退屈」は大きな苦しみであるとここから分析して、人間が持っている退屈の先に向かう能力と、「贅沢」の大事さを説くようになる。



雨の日の音楽 ーー薄暗い真実にとらわれてしまった時の音楽


音楽が「独我論」だから悪いなんて言えるわけがない。
そして、パスカルの議論もまた、「常識を守れ」以上の答えを出すことは
できない。
第一、音楽は論文ではない。


東畑開人は最新の著書『雨の日の心理学』で当たり前の常識として知られている、「常識」や相手のことを「わかっている」という熟知性が、晴れの日(こころのケアがうまくいっている)時には大事になるという。

しかし、こころのケアがうまくいっていない時、心の調子が悪くなってしまったときに、これらの対応は「君のことを判っている」とあっさり言ってみることは、

音楽が好きな友達の横で、その音楽が耳障りに聞こえてそれを言いたい衝動が止められない時。
他の人の言葉が頭の中に入ってきて、生きること自体がつらいとき。
他人に簡単に「わかっている」なんて言ってほしくもない、自分にはそうとしか思えない事実があるときその言葉は凶器になりえる。


夢追翔は、自分の弱さに向き合いそれを言葉にし続けた。
自分の心の中ばかり見て、物事を客観的にみようとばかりするやり方は、
本人も曲にした(夢の在り処)ように閉じこもってばかりの弱い人間だったように見えるかもしれない。
それでも彼は、人を傷つけたことも悪口吐いていることも反省しながら、それでも歌を作り続けた。
それは、人と話すときにうがった見方をしてしまう人、そして人とは違った意見や環境からくる苦しみをもってしまって、それが苦しみのタネになっていた人へ――彼自身の曲によれば救いはこないのかもしれないが――決してきれいな形ではないかもしれないが、支え続けていた。




ハリボテみたいだった空に、物語が始まるとき


独我論から抜け出す方法、それはちょっとしたことだ。
人の話を聞いて、ときに傷つけあうことがあっても言葉の概念をかえていくことだ。不潔で、自分とは意見が違っていて、嫉妬の対象にもなっている人に向き合って、人と社会と世間と向き合うことだ。
そして自分だけの/自分たちだけの言葉を見つけていくことだ。

自分自身を客観視して、誠実に考えることは大事だ。
でも、人間が100%客観的になることはありえない。
その時、人は本当なのかウソなのかわからない物語を語ることになる。

物語は人と人の孤独が出会って、衝突したときに初めて生まれるものだからだ。


『音楽がない街』は、本当に音楽がノイズ(クソ)扱いされ、弾圧された世界の話である。さらに、一曲目から「静謐なる虚飾学園」という、ファンタジーにおいては没入を阻害しかねない「虚飾」(これは嘘である)というメタ視点を、また神に愛された人であるこのキャラクターも持っていることになるだろう。まるでこのアルバムを作った人のように。

しかし、このアルバムの登場人物は一人ではない。
このキャラクター達はどのような世界観をつくりだしていくだろうか?


『虹の在り処』は、アルバム『音楽のない街』が発表される前に夢追翔の
ソロシングルとして発表された曲。彼は、自省の果てに他者を認めることができなかった自分を見つけ出す。
そして「僕と君」とで向かい合いたい場所があると宣言をして、
今ここにある虹を発見したともいう。


そういえば、彼が所属している団体は「にじさんじ」と言う名前だった。
彼は自分を含めた7人(色)のライバーとアルバムを出すとは、不思議なことである。


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