読書ノート:「MMT入門:財政赤字の神話」(S. ケルトン著, 2022年, 早川書房)
政府や報道では、私たちの実質賃金が下がり続けても、日本は借金漬けだとか、防衛や子育て支援のために消費増税が必要だ、などと、庶民は毎日責めたてられ、自分や家族の将来がだんだん心配になってきますよね。その不安ばかりのなか、財政赤字なぞいくらあってもだいじょうぶ、国民全員に就業(最低賃金)を保証する、医療、教育、年金などもフリーランチのように提供できる、などという経済理論が最近出てきて、ネットでも熱く語られるようになりました。そこで今回はそんな主張の本家の一人、ニューヨーク州立大学経済学教授ステファニー・ケルトンさんの現代貨幣理論(MMT)の入門書を読んでみました。ちなみにオリジナルのタイトルはThe Deficit Myth: Modern Monetary Theory and the Birth of the People's Economy,” (2020, PublicAffairs)で、邦題からは後半の「国民経済の誕生」の部分(大事な部分ですよね)が抜けています。本書は、金融・財政論だけでなく、庶民のための政策についても踏み込んだ提案がたくさんありました。
本書の構成と概要
本書は専門書ではなく、一般読者対象に書かれており、数式やグラフなどほとんどありません。現代貨幣理論(MMT)を構成する個々の概念にはもちろん先行する知見があり、なかでもケインズ以降で積極的な財政支出を提案してきた所説をきちんと整理しています。いわゆる主流派経済学や保守派の政治家による「均衡財政」に固執した考えを厳しく批判したうえで、全体として目から鱗、発想の転換、というべき金融・財政・(運用面の)政策を一体化した理論を提唱しています。多くの政治家や主流派の経済学者は、政府にはそもそも財政支出の資金はなく、国民が納税により拠出しなくてはならない、と考えていますが、MMTはこの初めに財源ありきの考えを真っ向から否定します。政府の支出は通貨の発行体である政府自身により生み出され、税金はそもそも財源ではないとします。したがって、収入と支出(や借金)の均衡を常に考えねばならない家庭や企業とまったく異なり、政府は独占的に通貨を発行する能力を持っているので、その財源は尽きることはないのだと考えています。
各章は、まず金融・財政について、保守的な固定概念(MMT派から見れば誤りの神話)を提示し、それをMMTの視点(レンズと呼んでいます)から反論していくという形で構成されています。内容は、第1章「家計と比べない」、2章「インフレに注目せよ」、第3章「国家の債務」、第4章「あちらの赤字はこちらの黒字」、第5章「貿易の勝者」、第6章「公的給付を受ける権利」の各章で、保守的概念とMMTの反論・代案を提示します。第7章、第8章は、財源は不足しないという前提で、財政の運用面についてのMMTによる提案を述べ、金融・財政よりも政治的な(我々が目指すべき社会のあり方)主張が述べられています。
第1章では神話1「政府は家計と同じように収支を管理しなければならない」の俗説に対して、「家計と異なり政府は自らが使う通貨の発行体である」を前提とするので、通貨主権を持つ国家は収支を管理する必要がなくなります(p. 37)。この最もMMTの最も重要な仮説(というより事実)はアメリカのみならず、イギリス、日本、オーストラリア、カナダなど自国通貨を独占的に発行できる国すべてに当てはまるといいます。財源不足はあり得ないことに基づいて、MMTはアバ・ラーナーたちの機能的財政論を経済的な大目的とします。機能的財政論は「雇用が潤沢にありインフレ率が低いという、バランスの良い経済の実現」(p. 91)を目指します。そもそも通貨とは何かという大命題について、歴史的起源には所説あるようですが、MMTは、少なくとも現代の国家(先進国)では自国通貨を発行できるのであるから、政府にとって財政に制限は一切なく、むしろ財政赤字によって、政府が行政サービスを行い、民間も経済活動ができるのだといいいます。対照的に、通貨主権を持たないユーロの国々や新興国の多くでは無制限な通貨の発行はできないという説明がされます。
第2章では神話2「財政赤字は過剰な支出の証拠である」に反論し、「過剰な支出の証拠はインフレである」と、インフレへの注視の重要さを述べます。財政黒字や均衡財政を目指さないMMTが、政府による過剰な支出を判断するものは(過剰な)インフレであります。MMTは、希望者を政府が雇う完全雇用を政策面の基本としますが、完全雇用が実現すると実物資源がひっ迫して需要が増加し、インフレが加速することを過剰支出の証拠とみなします。MMTは、フリードマンのマネタリズム--「インフレはマネタリー(貨幣的)の問題である」を前提とし、インフレは「マネーサプライを過剰に増加させ、過剰な雇用を生み出す」(p. 77)--の見解を否定します。低失業率とインフレの間には一切関係がない(p. 82)のだから、過剰支出の状態でも、完全雇用を維持し、財政政策により総需要を拡大することを第一とし、どうしてもインフレが止まらなければ、議会は増税や支出削減を検討します(p. 94)。
第3章神話3「国民はみな何らかの形で国家の債務を負担しなくてはならない」に対し、「国家の債務は国民に負担を課すものではない」と反論し、論拠を詳細に提示します。アメリカでも国家の債務はいずれ返済しなくてはならず、ニューヨークの債務時計には「あなたの(負担)分」がリアルタイムで表示されるそうですが、日本の財務省やメディアと同じなんですね。MMTは、国債は国民の借金ではないと明確に主張し、財政上の支出は政府(通貨発行者)の自己調達でまかなわれる、一方、国債は資金調達のためではなく、人々が預金(緑のドル)を米国債(利子付きの黄色いドル)に転換するためである、その目的は金利を維持するためである(p. 126)と考えます。ケルトン氏は「日本も債務の持続可能性については何の問題もない。なぜなら日本は通貨主権国であり、日本政務の支払い義務をすべて処理してくれる日本銀行があるからだ。金利が好ましくない動きを見せれば日本銀行が止められるので、金融市場が日本を債務危機に追い込むことはできない。日本も日銀のコンピュータのキーボードを叩くだけで、債務をそっくり返済することができる」(p. 132)と主張しています。神話1~3までのMMTの反論は、日本のMMT論者たちも書籍や動画でよく主張していますが、本書はやはり本家の著作だけあって、基本概念の背景をていねいに説明し、根拠(引用)となる文献も脚注で詳しく紹介されています。
第4章の神話「政府の赤字は民間投資のクラウディングアウトにつながり、国民を貧しくする」に対して、現実は「財政赤字は国民の富と貯蓄を増やす」であるという主張は、日本のMMT派の主張であまり取り上げられない、やや専門家向けの議論ですね。政府が資金を借り入れる(財政赤字)ことが、貯蓄という(限りある)原資を民間企業などと競合することで、結果金利を上げることになり、民間がこの原資を事業成長のために使えなくなる、そして民間投資の減少により経済成長が衰える、ということのようです。この主流派経済学の考えに対する反論のために、イギリスの経済学者ウェイン・ゴドリーによるシンプルな数式、政府部門の赤字=非政府部門の黒字、を援用します。アメリカのMMT派が信奉するミンスキーも、「連邦政府が支出を行うとき、それは企業と家計に対して所得とキャッシュフローをもたらす」(エプスタイン「MMTは何が間違いなのか」東洋経済新報社)と考えていたようです。MMTに従えば、主流派・守旧派による、初めに民間の貯蓄(有限)ありき、これを政府と民間投資が奪い合い、どちらかを締め出す(crowd out)という発想は全くの誤りで、財政赤字こそ民間の黒字を生むのだ、という主張を繰り返します。
第5章の神話「貿易赤字は国家の敗北を意味する」に対し、MMTが指摘する現実は「貿易赤字は「モノ」の黒字を意味する」です。アメリカはいつも日本や中国、そのほかの輸出国に対する貿易赤字に不安・不満を持ってきました。この神話でも貿易の「均衡」への固執が問題となります。しかし実際には、アメリカドルは世界経済の中心的役割を果たし、「通貨取引の90%がドルの絡む取引」(p. 202)です。アメリカが「貿易赤字を出し続けることで他国がドルの保有高を増やすことを可能にし」ており、ドルは途上国にとって、食糧、医薬品など必要不可欠な輸入品を得るためのライフライン」(p. 204)の役割を果たしています。米ドルはあらゆる意味で最も需要が高く「この需要がドルの価値を支えて」います(p. 206)。著者は、アメリカの貿易赤字は必要なものであり、問題ない、しかし逆に途上国の金融資産や不動産には確かな需要がなく、資本市場に厚みがないという問題を指摘し、貿易戦争ではなく、貿易和平への可能性を探る議論を展開しますが、決定的な答えは出ていません。
第6章は、国内の政策に再び目を向け、「社会保障や医療保険のような給付制度は財政的に持続不可能だ。もはや国にそんな余裕はない。」という日本でもよく聞かれる財政均衡派の財源論に対し、ケルトン氏は「政府に給付を続ける意思さえあれば、給付制度を支える余裕は常にある。重要なのは、国民が必要とする実物的な財やサービスを生み出す、経済の長期的能力だ。」と反論します。すでに見たように、MMTによれば、「支払い債務(この場合は給付)が自国通貨建てであるかぎり、政府には常に給付制度を支える資金はある。足りないのは「支払い能力」ではなく、支払いをするための「法的権限」だ」(p. 230)となります。ただし、政府が払える金額に上限はあるようで、「給付を際限なく増やすと、経済の実物的制約(完全雇用など)を超えてインフレが起きる可能性があり、全員にとってマイナス」(p. 251)になります。「本当に難しいのは、給付金が実体経済のなかで支出されることによって生じるインフレ圧力をどう管理していくかだ」(p. 254)とあり、供給制限を超えて需要だけが暴走して膨らむとき、MMTの恐れるインフレは必至です。限りあるのは、給付を受けたい人(国民)が必要とする財やサービスを生産する能力なので、「過剰なマネーが過小なモノに殺到する」(p. 259)という昔ながらのインフレを防ぐため、経済に十分な生産能力を維持する方法を見出さねばならない、というのが著者の重要な論点です。
第7章と8章は金融・経済理論というよりは、むしろ財政政策の提言と読めます。著者は上院予算委員会の民主党側スタッフを務め、共和党、民主党ともに財政赤字や債務危機を恐れるあまり、支出の削減や税の引き上げに関心を持っていることを経験します。一方、アメリカでも平均的労働者の賃金は1970年代から3%しか増えず、4,500万人が1.6兆ドル以上の学生ローンをかかえ、所得・資産の格差も記録的な水準にあります(p. 267)。著者は、労働者たちが(人種的なものも含めて)直面している問題を詳しく解説しつつ、アメリカで不足しているのは、財源ではなく、①市民の貯蓄、②医療、③教育、④インフラ、⑤気候変動問題への取り組み、⑥民主主義であると指摘します。日本人でも同じ不足に直面していることを痛感させられますが、とくに「一握りの人々とその他大勢を隔て、権力者と無力な人々を隔て、声の大きい人々と声なき人々を隔てる」民主主義の不足の点は心から共感します。財源は不足していない、①~⑥の不足を解決するために発想を転換せよと主張するのです。
第8章は少し原理的なことがらに触れ、そもそもMMTは、主張する政策をすべて実行せよ、と言っているのではなく、まず現代不換通貨の仕組み、とくにブレトン-ウッズ体制終焉後の現実を「記述する」ことを目的としていることを説明します。次に、MMTは、「金融政策を主役の座から降ろし、財政政策をマクロ経済安定化のための主要な手段に昇格させよ」(p. 318)と主張します。国民生活の改善と福祉のため、財源を心配することなく、活発な政策を実施せよ、とくに政府による就業保障プログラムという完全雇用の実現を要求します。そのレベルに達したとき追加支出はインフレリスクになるのですが、アメリカ経済はインフレを加速させずに支出を増やす余地はほぼ常にあるようです。重要なことは、財源問題や均衡財政を一度忘れて、公共政策の明確な目標を実現する方法を一から考え直しなさい、というのが本書の政策面の結論と言えます。著者がMMT派の経済学者であるがゆえに、現代の社会の様々な矛盾、とくに労働者、若者、老人たちの厳しい生活を財政の制約から解放されて、少しでも良くするための議論をしていきたい、という真摯な姿勢は強く感じられました。
感想 動くバーナムの森
本書は日本のMMTの本(すべて読んだわけではありません)と共通する議論はもちろんありますが、均衡および緊縮財政派の固定概念に反駁する形で、MMTの概念的な説明を全般的にきちんとしてあります。著者自身、当初はMMTのような発想を信じていなかったのですが、投資家モズラーの本と会話から徐々に、初めに貨幣の表券主義と機能的財政論の着想を学んでいったようで、著者が伝統的経済学からMMT派研究者としてどのように現在の理論を発展させてきたかがよくわかります。現在のアメリカでさえ今もペイゴー原則のように、政策を提案する前に財源を確保せよ、という信念はまだ非常に強力なようですが、膨らみ続ける債務と格差拡大の状況でMMTはだんだんと脚光を浴びていて、一方それに対する厳しい批判もあるようですね。日本でもMMT論者のひとは動画などで財務省など守旧派に反論していますが、どうしても彼らの傲慢な口調と感情的で、ときにいいかげんな表現が好きになれません。そもそもどんな学問分野でも弁証法的に発展していくものですので、そのまま完璧な理論はありません。批判的検討に取り上げられるということ自体に意義があり、そこから修正(改訂、新)○○理論へと発展していくものですから、批判に対して根拠なく藁人形論法などと感情的反発するのは無意味です。本書は、一般的な誤解(神話)への反論を解きほぐすようにていねいに、また参照文献もすべて脚注からわかるように論述していきます。
日本のMMT論者は、さも自分たちが考えたかのように、引用なく本家MMTの各論を話していますが、ケルトン氏の文献参照や引用の仕方を学んでほしいものです。また逆にリフレ派の高名な先生からMMTはパクリ、という悪口も動画で見聞きしますが、均衡財政を前提としつつ、不況時には運用として国債をほぼ無制限に発行してきました、のような、金融論中心の従来リフレとMMTは大きく思想が違うと思います。そもそも研究者やクリエーターにとってパクリ(剽窃・盗用?)は犯罪に等しい行為、非難する前に、言う側も言われる側も十分に注意して言葉を使ってほしいですね。MMTの、ケインズ経済学の流れを組みつつ、貨幣の表券主義と機能的財政論を基礎として金融・経済・公共性に基づく社会の在り方まできちんと整理・体系化した(著者は記述と言っていますが)業績は、決して軽視されてはなりません。
ケルトン教授のMMTはほんとに日本に適用できるのでしょうか?日本人MMT論者は、日本も主権通貨を持つので、いくらでも国債(や貨幣)を発行できるといいますが、本書ではその主権通貨が信用において微妙に区別されています(主権通貨のスペクトラム、pp. 202~)。国際基軸通貨を発行できるアメリカ、ハードカレンシーを持つ日本、カナダ、オーストラリアなど、そしてソフトカレンシーを持つ新興国の分類と、これに加えて主権通貨を持たない国、たとえばEU各国などに違いがあることも記述されています。EU諸国は除外しても、アメリカドルは「特別な地位」(p. 198)を持ち、日本やカナダの通貨と違い国際的な需要があります。多くの新興国は主権通貨を発行しても、貿易不均衡を無視できず、ドル建ての負債の返済に苦しむうえ、国内の需要も弱いため、「国民のために強靭な経済を構築することができない」(p. 204)のです。そうだとすると、日本はこれからどうでしょうか。日本のMMT論者が言うように絶対に大丈夫ですか?日本への投資は弱く、日本人も対外投資に関心を持ちつつあり、一方、金融緩和や貿易赤字が続いてどんどん円安が進むとしたら?世界で経済関係のランキングがどんどん下がり続けるとしたら?多くの日本人は、普通に生活に困らず、生き生きと仕事ができ、子供に教育を、親に十分な介護を与え、たまに家族で小さな旅行がしたい、それだけをささやかに望んでいるのに、今の不安な状況が続くとしたら、それでも日本の財政は盤石でありつづけるのでしょうか?
子供のころ読んだ、シェークスピアのマクベスの一節を思い出します。不安になったマクベスは、荒野であった三人の魔女に相談したところ、魔女たちが言いました。「大丈夫、大丈夫、バーナムの森が動き出すまで」(正確には福田恆存訳「マクベス」新潮社 p. 89など)。動くバーナムの森がたとえ日本のデフォルトではないとしても、巨大な金融危機だとしたら。それまでは強気で進んで大丈夫ですよね?