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頑張れ七次郎

世は渋沢栄一ブームである。

「青天を衝け」の国宝級イケメンと、渋沢さんの子犬のような目をした一番有名な写真を並べてみると、どうだいね?と思わなくもないけれども毎週欠かさず観ているし、やっぱりイケメンは好きだ。

暇なGW、散歩を極めており、自転車で兜町を通りかかったところ渋沢ロードたるものを発見した。近年リノベーションホテルとして生まれ変わったK5や、西村時好が設計した可愛い丸窓が特徴的な山二証券(写真上)、そして同一の設計者にも関わらず堅牢な印象を与える旧成瀬証券(現フィリップ証券)、そして横河工務店が設計した、半円アーチの連続が特徴的な日証館ビル(写真下)等、建築好きには目移りしてしまうようなビルが点在する。「青天を衝け」も、イケメンの大渋滞で目移りするけどね。

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さて、なぜこの通りが渋沢ロードかと言うと(と言っても説明があったわけでもないので多分)、現みずほ銀行兜町支店がある場所にあったのが、日本初の銀行「第一国立銀行」で、この銀行を創設したのが渋沢栄一らしい。そして、現日証館ビルには渋沢邸があったと言うのだ。

その渋沢栄一邸を設計したのが辰野金吾。「日本近代建築の父」ともよばれ、東京駅や日本銀行本店本館を設計した。建築好きでなくても一度は聞いたことがあるかもしれない。でもね、建築好きは当たり前みたいに話すけど、世の中建築好きばっかりじゃないからね。え、辰野金吾知らないの?みたいなスタンスで言って、引かれるのはこっちですからね。話を戻して、辰野金吾は工部大学校、今の東京大学の第一期生で、当時は「造家学」と呼ばれていたいわゆる建築学を学ぶ。工部大学校では、「日本の西洋建築の父」と呼ばれるジョサイアコンドルから教えを受けた。父だらけやん!!と思わなくもないが、この時代の人達が試行錯誤し、信じられないほどの勉強と経験を積んで、今私たちが学ぶ建築学の基礎が出来上がったのだから本当にこの時代の人たちはすごい。

さて、工部大学校で辰野と共に造家学を学んだ同級生は4名。辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊、そして本日の主役、佐立七次郎。主役の登場はね、遅いのが大事なのよ。

曽禰は、コンドルとともに丸の内の三菱の建築群に関わり、その後、曾禰中條事務所を設立。現在も残る有名な建物は慶應義塾図書館や、結婚式場兼高級レストランとなっている小笠原伯爵邸(行きたくて行きたくて震えるけど、お金なくて震えるからまだ行けていない)などを設計している。

片山、私は親しみを込めてとうクマんʕ•ᴥ•ʔと呼んでいるが、は言わずと知れた国宝、赤坂離宮。日本のヴェルサイユ。大正天皇のために建設されたが、あまりの豪華さに、明治天皇から「贅沢だ」とのコメントを賜り、住んでいただくことは叶わなかったと言う。かわいそうなとうクマん。

そして、佐立七次郎。みんな、知っているかい?佐立の名を。まぁね、パッとしない。と言うのも、佐立は人生の半ばで社会との関係を断ち、自宅に引きこもってしまったと言うのだ。作品には、近年重要文化財に指定された水準原点、そして北海道小樽にある旧日本郵船小樽支店などが現存している。

彼ら4人が写る晩年の写真が残っているのだが、その写真を一目見て、私は七次郎ファンになってしまった。ヒゲのおじいちゃんである。と言っても、年齢でいうと多分60歳ごろの写真で、今ならおじいちゃんというには早いが、ヒゲのおじいちゃん、以外の表現がしっくりこないほどのヒゲのおじいちゃんなのだ。他のおじいちゃん達は、ちょっと偉そうな顔や、しかめっ面でこちらを見ているのに、七次郎は違う、長い髭に穏やかな微笑みを浮かべ、こちらを慈愛の眼差しで見つめている、、、ように見えた。七次郎の存在を認識したのちは、その名を見かけるたびになんだか嬉しくなったし、日本水準原点標庫が重要文化財に指定された時には、「やったね!七次郎!」と思った。何様?って感じだけど、なんだか、応援してあげたくなっちゃう空気を醸し出しているのだ。

そんな七次郎、渋沢ロードの地図によると二代目の東京株式取引所を設計していたらしい。知らなんだ。なんだか立派で、外観は写真から見ると、なんとなく旧日本郵船小樽支店に似ているような気もしなくはない。こんなに立派な建物を設計していたなんてねぇ、偉いよ七次郎!それでこそ私の応援する七次郎だよ!!という話がしたかった。それだけです。とはいえ、実は私は水準原点も、旧日本郵船小樽支店も見たことがないのです。今、旧日本郵船小樽支店は保存修理中なので、コロナも落ち着いたら見に行きたいものだ。

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ちなみに、佐立七次郎に向けた追悼文のようなもの(タイトルは「故正員工學士佐立七次郎君の建築事蹟」)は曽禰達蔵が書いている。そこには、七次郎は「多く交際するを好まざるを以て友人太だ乏し」と書かれており、友人はかなり少なかったようだが、工部大学校の絆は死ぬまで続いていたようである。責任感が強く、過剰と言えるまでに謙虚で、建築従業者社会に精通し、工事は常に順調に終了した。「臆君は崇敬すべき技師なりし哉」と彼の経歴を紹介しつつつ、回想している。七次郎は、亡くなった後、遺体は解剖し、病原を究め、医術研究の資料としてほしい、と遺言を残していた、と言ったエピソードまで紹介されていて面白い。

さて、かなりマニアックなエピソード紹介までしてしまったが、これだからお散歩は面白い。あぁ、光の速さでGWが終わっていく。毎年、足りないねぇ、と思うけど、コロナであろうが、東京から出なかろうが、足りないねぇ。




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