tissue diary Ⅱ -ねじれ-
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絶望的に、剥がすほど汚くなるステッカー跡のようなとしか形容できないのはわたしが未熟だからでしょうか?然しそのねっとりしたものを周りにつられて人生の誇りと思いだせば途端にいやな粘着質がじぶんから剥がれなくなり爪先まで湿っぽく纏わりついてくるにちがいないのです.現にそういうねっとりしたくだらないものをさも重たそうに差し出してくる,しらじらしい顔で強要してくる輩はたくさん居ります.過去未来挫折転機展望,引かれた遠近法は検閲済みで振ってもからからと鳴るばかりなのでわたしはついあまりに虚しくなり,スマホライトを照らし夜道の側溝を諦めかけた探し物みたいに彷徨うのです.下弦の月に薄く照らされた道,その向こうもまた道でわたしはいったいどこにいるのですか
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い
嗚呼(ああ)と打とうとして(い)になるそんなことばかりのサラリーマン生活秒速瞬き
日陰
きみとは政治思想が違うからねと言うきみの思想の反対側に吊るされる私
昔話
酒席で笑い話として口走った誰も笑わなかったわたしの幼少期,ちちの膝で見ていたアダルトビデオはどれもおんなじ筋書きでそのころ見ていたアニメもどれもそうだったよねヒーローが敵を倒してそれで
サイドメニュー
テイラー・スウィフトが主題歌に似合いそうなあの子の人生に憧れてみれば霧ががった孤高の才能を捩れるほど妬ましいとおもったりもする天気予報が当たらなかった今夜はばくだん丼の気分
一時停止
なにかを聴きたいのだけど適切な音楽は見当たらないしなにかを書きたくてしかたないのだけどマグマの熱源が探し当てられなくてとりあえず家の前のコンビニに入り商品棚を見てまわる助走ばかりうまくなる助走ばかり
姉より
ペンネームに妹の名前を借りていることを一生言い出せかったらどうしようとかまごまごしながらそんな卑小な悩み、取り返しがつかないくらいに自分が成らないと元も子もないんだと頭上で火花が散る、何十回目の夜更け何百回目の溜め息
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ルッキズムの話
こんな直球の題でいいのだろうか。というのは、自分にたいして問うている。わたしにはこれの話をする勇気がいつだってとても無い。こわいのだ。まず世界のことがこわくて、同じくらいじぶん自身のこともこわい。語る(騙る)ことでかたちづくられ浮き彫りになることはもっともっとこわい。だからわたしはそれの話をしない。まだ、できない。
(わたしがそれの話をするときは、きっとまた、物語のかたちを取ることになるだろう。臆病だから。じぶんの外で走る物語と人間にかたらせるかたちでないと、わたしはじぶんの深奥を抉りだせやしないのです)だからこの文章は、それの話でなくて、それに対するわたしのこわいという感情の話になるのだとおもう。
A
すこし前にどうしても暇な時間が生れたとき、わたしにはとりとめもなく考えていることがあった。それは明日世界が滅びるなら最後の晩餐になにを食べたいか?と同じくらいの軽さで、じぶんの初期設定をひとつだけ変えて生れなおせるなら、なにを変えたいか?ということだった。(なんでそんなことを考えはじめたのだろう。仕事で着ぐるみに入っていた時かもしれない)
初期設定。つまり顔貌はじめ、さまざまな才能、個性と呼ばれるもの、はたまた家庭環境や経済的なことだって当然含まれるだろう。禿げの家系に生まれたくないとか、頭が良くなりたいとか、左利きの人が右利きに生まれたかったとかも(本人にとっては切実な問題として)あるかも知れない。
わたしはすこしの間考えて、ひとつに絞れなくてじぶんのなかでランキング3形式に落ち着いた。うちふたつは、いわゆる才能だったり個性にかかわる話である。隠すこともないが、ここで紙幅を費やす必要も感じない、凡庸な人間のよくある羨望だ。残りひとつ、これはいろいろ考えた末に「男に生まれたいだな」とおもった。性自認や性的指向の話ではない。ルッキズムの話である。いや、ほかにも沢山、話しはじめれば腐るほどあるか。じぶんの初期設定をひとつだけ変えて生れなおせるなら。女として、わたしが生きていて、これ以上かなしいことはないだろうに、じぶんの答に、あたらしさもまたなかった。それが多くの女にあてがわれた現実である。
これ以上の説明はしたくない。
B
これはいろんな解釈の余地がある話だが、わたしの描く物語は男性目線のものが大半である。というか、物語が頭に浮かんでくるときからデフォルトのようにそれは男性目線で進行していて、わたしが意図して選ぶまえにそうなっていることがおおい。理由としてひとつは、わたしが女であり女に特有の問題やそこから生じる感情やらを第三者の眼で描こうという無意識が働いている、ということはまず言えるとおもう。然しそれだけではないのではと最近べつの解釈がもちあがってきた。それはわたしが女であり同時にミソジニストでもあるからというものだ。(けしからん、ちゃんとショックを受けたいのだが、いやでもきっとそうなのだろうという諦観が先に来てしまうのはわたしの悪い癖だ、白状する)
ミソジニスト、日本語では「女嫌い」と訳されることもあるが、因みにこれは、浮気性の男性などを指していう「女好き」の反対語では決してないことを念のため断っておく。むしろ上記文脈での「女好き」とミソジニストを指す「女嫌い」は、優れた容姿や媚びるような態度など特定条件のもとでしか女という存在を受け容れない点で≒(ニアリーイコール)といえる。
文章がなにかの指南本のような様相を呈してきたので巻きもどすと、わたしがミソジニストであることについて近ごろ考えているという話だった。女でもミソジニストはあり得る。というか、言い訳くさくなってはならないが、ある程度ミソジニストにならないと女として社会で生きていくのはそう容易くないとわたしはおもう。つまりわたしは弱い人間なのだとおもう。(かわいい・エロい・弱い)女を好む男へ向ける軽蔑(そしてもはや慈悲)の目のじぶん。(かわいい・エロい・弱い)女がなんだかんだ好きな、そうじゃないとなれば許せないまであるじぶん。(かわいい・エロい・弱い)を求めてくる男や風潮に斧を振りかざすじぶん。ときどき完膚なきまでに(かわいい・エロい・弱い)女になりたくなるじぶん。二者はやすやすと両立される。人間はそう一筋縄にいかない。
格闘技
今まで、いちばんすきな作家を聞かれたら川端康成と答えてきた。そこには彼の編みだす"女の描写"がすきというのが実は多分にふくまれている、というこの話までは人に話したことがない。芸術を性の問題と一緒くたには決してしたくないが、それでも、その二つをきっぱり分けることもまた決してできないだろう。やはりわたしの中にはミソジニストBがいる。そしていまこの瞬間も、根強く息をして、物語に人格を映し、台詞を落とし、女であることを苦しむわたしAと格闘するのである。
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