春のカミーノ② 〜Girls Just Want To Have Fun
巡礼の旅にはややそぐわないテンションで、楽しむ気満々の女子二人を率いて、私は懐かしいサン=ジャン=ピエ=ド=ポーの城門をくぐった。国境のこの村までは、早朝のパリから電車を乗り継いで7時間。まだ日は高く、川べりのテラスでビールを飲みたくなる午後だった。
観光客でにぎわうカフェに走り込む前に、やるべきことがあった。シタデル通りの巡礼事務所で、クレデンシャル(巡礼手帳)に最初のスタンプをもらうのだ。童話の世界に迷い込んだような、赤や緑の窓枠の家並みを抜けていくと、すでに巡礼者たちの長い列ができていた。
サン=ジャンの巡礼事務所は、地元の巡礼友の会によって運営されている。フランス語も英語もスペイン語もできなくても、おおよそ心配はいらない。スタッフの皆さんはとても親切で、ホスピタリティー溢れる笑顔で迎えてくれる。
しかし「明日、ピレネーを越えるんです」と私が言うと、応対してくれた男性は顔をひどく曇らせた。どうしたのだろう。まさか私たちの信心のなさが伝わってしまったのだろうか。
「どうしても明日、出発したいですか? 実は雪が降るんですよね……」
外は汗ばむほどの陽気で、夏日といってもよかった。明日のピレネーは雪だと言われても、にわかには信じられない。出発を一日ずらすことをさり気なく勧められたが、悲しい哉、私たちは時間に追われる日本人だった。
Miwakoは楽器を背負ってピレネーを越えることになっていたが、本当に雪が降るのであれば、スーツケースと一緒に荷物搬送を頼んだほうがよさそうだ。雪のピレネーなんて想像しただけで恐ろしかったが、お気楽な二人の女子には黙っていることにした。ここまで来たら、どのみち引き返すことなんてできないのだ。
サン=ジャンの巡礼友の会が発行したクレデンシャルを3ユーロで購入し、今回がカミーノデビューのさくらちゃんは、真新しいホタテ貝も手に入れた。ホタテ貝は、サンティアゴ巡礼のシンボル。これをリュックにぶら下げると、観光客から巡礼者に、モードがカチッと切り替わるから不思議だ。
クレデンシャルに、これから道中で押していくスタンプは、「ズルせず、ちゃんと歩いて巡礼しました」という証明になる。聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに着くまで、教会や巡礼事務所、アルベルゲ(巡礼宿)やバルなどで、様々なデザインのスタンプをもらうのは、巡礼の旅のお楽しみでもある。
さくらちゃんが手にしているのは、日本から持参した熊野古道とカミーノの「共通巡礼手帳」。これもサンティアゴ大聖堂に認められた正式なクレデンシャルだ。
熊野古道とカミーノ。姉妹道となっているこの2つの巡礼道を踏破すると、DUAL PILGRIM(デュアル・ピルグリム 共通巡礼者)の称号が与えられる。サンティアゴ市観光局のHPに写真が掲載されたり、記念のピンバッジがもらえたりもする。(共通巡礼についての詳細はこちら)
🎦 DUAL PILGRIM の紹介動画(制作:田辺市熊野ツーリズムビューロー)
カミーノについては、ラストの100kmさえ歩けば資格がもらえるので、私はこれまでに3回、共通巡礼を達成していた。もちろんカミーノを何十回も(もしかしたら何百回も)踏破している強者は、世界中にたくさんいるわけだが、このバッジを3個も持っているのは珍しいかもしれない。
どうしてそんなことになってしまったのか、自分でも不思議に思うことがある。スペイン帰りの友人夫妻から、パウロ・コエーリョの小説『星の巡礼』を手渡され、夢みるように憧れたのが20年前。当時、出版社に勤めていた私は、長期の海外旅行をするような時間もお金もなく、ヨーロッパに行ったこともなかったのだが……
※カミーノを歩くにいたった経緯は、拙著『スペイン サンティアゴ巡礼の道』またはnote版「星に導かれて巡礼の旅へ」をお読みください。
聖地というのは、必要なときに人を呼ぶのだという。「こいつは役に立ちそうだ」と判断した人間を、何度でも呼びつける。それがたまたま私だったのかもしれない──と今では思っている。
アメリカの聖地セドナにも、かつて何十回も呼ばれたが、そのたびに痛い目に遭ったりと散々だった(それでもまた訪れてしまう魅力が、聖地にはある)。その点、スペインのカミーノは私に優しいように思えた。いやいや、まだ油断はならない。なにしろ今回は、歩くのが超絶遅いMiwakoと、イケイケマダムのさくらちゃんが一緒なのだ。気を引き締めていこう。
ようやくありついた、バスクブランドの生ビール。さくらちゃんは、たちまち2杯飲み干した。明日からピレネー越えなんだから、たいがいにしてね……とは私は言わなかった。なにしろ、今日は彼女の45歳の誕生日なのだ──。
この5月16日を出発の日に選んだのは、まったくの偶然だったけれど、もしかしたら今回の旅は、さくらちゃんのためにお膳立てされたものかもしれない──ふとそう思った。さくらちゃんの家族は今頃、遠い日本で彼女のお誕生日を祝っているのだろうか。
カミーノを歩くと、人生の「よみがえり」が起こるのだという。今日を境に、彼女のまったく新しい人生がスタートするのかもしれない。しかし、さくらちゃんは幸せなマダムで、これまでも十分に人生を楽しんできた。これ以上、どんなよみがえりが必要だというのだろう?
Miwakoはというと、ビールは我慢してコーラをちびちびと飲んでいた。夕方の旧市街での演奏に備えているのである。歩く遅さはともかく、彼女こそ、今回の旅で人生をよみがえらせる気満々だった。さらに、カミーノをテーマにした新曲を書きたい、という意気込みもあった。
またしても、私自身のよみがえりは二の次になりそうな嫌な予感がした。そもそも、3回も共通巡礼を達成しているというのに、私の人生はさほど代わり映えしないというのはいかがなものか……?
昼間のバスクビールはよく回る。陽射しは強く照りつけ、頭がややぼーっとする。いいから今はとにかく楽しもうじゃないか……という気分になってきた。なにしろ天からの最初のお告げが、“Girls Just Want To Have Fun” なのだから。
サン=ジャンは、神聖なる巡礼のスタート地点であると同時に、フレンチバスクにおける一大観光地でもあった。バスク模様の布製品、かわいい生活雑貨、手作りカヌレやマカロンの専門店……女子の心をくすぐるショップが軒を連ねている。
Miwakoもさくらちゃんも大はしゃぎだ。そういえば3年前は、撮影に追われてお買い物や食べ歩きを楽しめず、心残りだった。私も今日だけは巡礼者ではなく観光客として過ごすことにした。
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日が傾き始めた頃、Miwakoはアルトサックスとフルートを手に、シタデル通りに繰り出した。これから毎日、彼女は楽器を背負ってカミーノを歩いては、ジャズのスタンダードナンバーや、自身のオリジナル曲などを演奏することになっている。今日はその第一日目だ。
韓国やアメリカやブラジルなどいろんな国から来た巡礼者たちが、演奏を聴いてくれた。日本から来た青年、市川くん(写真左端)にも出会った。私の書いた『スペイン サンティアゴ巡礼の道』を読んだことがあると言ってくれて、嬉しかった。
紀州名産の梅干し「しらら」は、熊野古道の地元・田辺市の中田食品さんから、差し入れとしてたくさんいただいた。梅干しが巡礼者の救世主であるということは、私たちはこれまでの巡礼旅で、身をもって経験していた。
その昔、熊野信仰を全国に広めた熊野比丘尼ならぬ、梅比丘尼(うめびくに)として巡礼者に梅干しを配るのが、さくらちゃんの今回のミッションであった。
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そしてようやく日が暮れると──旧市街のバスク料理店 Chez Dédé でお誕生日会だ。ここで味わったマッシュルームのオムレツは、大げさではなく、人生最高のオムレツということで3人の意見が一致した。こんな辺境の村であっても、美食の国フランス恐るべし、である。
お店に居合わせたフランス人のお客さんたちも、Miwakoの演奏で大いに盛り上がってくれた。朝の4時半にパリの空港に降り立ってから、貪欲に楽しみ続けた長い一日が終わろうとしていた。いつもは明け方までとことん飲むさくらちゃんも、今夜は早めに店じまいだ。
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夜半過ぎ、私は激しい雨音で目を覚ました。お天気が崩れるという予報は的中したわけだが、雪じゃなく雨でよかった……安堵して、私はまたしばらく眠りに落ちた。
(春のカミーノ③ に続く)
雨の装備完璧!いざ出発!の三羽ガラス
¡Hasta luego!(アスタ ルエゴ またね)
(春のカミーノ③ に続く)