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アメリカの社会問題:「視点」が変わると「正解」も変わる、から難しい

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"The hole is so deep and so bad, and the donut is the beautiful thing."


去年書いた、コロナ関連の日記を非公開にしました。

私はコロナの被害が特に厳しかったニューヨークに住んでおり、コロナ騒動が始まる4ヶ月ほど前に、アーティスト系のリベラルな若者の多いエリアから、保守的な白人率の高い地域にたまたま引っ越しをし、その為にコロナとは関係なく生活環境が一変しました。

私のパートナーは消防士で、コロナ被害が一番ひどくなる直前の3月の後半に、感染しました。4月はあまりに救急車の出動が多くなった為、救急車と救急隊員不足を補う為に、FDNYという同じユニオン(組合)である消防隊員が心肺停止の応急処置に駆り出されていました。
もちろん消防士達にも感染が瞬く間に広がり、消防士達は合間に発生する火事の出動もしつつ、多い時には1日に10件ほどのCPR(あくまで私の彼の署内の話です)に向かっていました。
人手不足の中、働ける人が働かなくてはいけない状況で、出勤日は睡眠が1、2時間ほどしか取れず、帰宅するとクタクタで一日中寝るというような状況でした。

私が去年書いた内容は、要約すると、
・ 私の彼がコロナに感染し、高齢の家族も近くに住んでいるため、同居している私が一人で看病をすることになった
・ 結果私は全く発症せず、無感染、もしくは無症状で終わった
・ それにより、無症状という状態の人が意外に多いのではないかと考え、その無症状の状態が感染を広めてしまうと恐れ、日本も大変なことになる前に、自粛をした方がいいと呼びかける内容

の日記でした。

情報もあまりなく、経験したことのない状況への緊張、次々に耳にする知り合いの訃報、そして日本の家族と離れているという事でさらに不安な気持ちに拍車がかかっており、しばらく毎日心を落ち着かせるのに必死でした。
いてもたってもいられないような気持で、数人の人でも読んでくれたらうれしいくらいの気持ちで書いた日記でした。
ほんの少しですが、それを知らない方にまでシェアもしていただき、そのおかげで知り合えた方もいたり、書いてよかった面はたくさんあったのですが、約1年経ち、考えが色々と変化してきた事で自分の過去に意見に疑問が生まれてきた為、非公開にすることにしました。

私はあくまで政治的には中道派であり、物事によってはかなり偏った考え(リバタリアニズムに賛同する部分もある)もあり、それは多くの人には当てはまらないであろうということも自覚した上で自分なりの意見というものを導き出しています。
合法的に生活しながらも、投票権を持たない「移民」という立場から、アメリカの国民が決めた方向性にアジャストして生活した上で自分の人生に自由な選択をしているので、そういった理由からも、ニュートラルな感覚にならざるを得ない事がたびたびあります。
これはとても繊細な問題で、同じ移民でも出身国やビザのステイタスによって全く意見が変わってくるのです。

私が「私の家の周り、トランプ支持者たくさん住んでるよ」と言うと、たいていの人は「え?そうなの?」と怪訝な顔をしたり、「気を付けてね」などと警告の言葉をかけてくれたりしますが、私が最近一番いやだなと思う事は、この「分断」です。
私はあくまで、トランプ「不」支持の人達を批判したいわけではありません。彼らの大半もまた、権力と戦い続けてきた人間達で、私も彼らの意見に半分以上は賛同しています。
ただ、今の偏向思考は異常であると感じます。同時にそれを煽り続けてきた「メディア」に非常に大きな問題と闇を感じます。

私がパートナーの仕事先や、またこの地域に引っ越してきてから、実際にトランプ政権を支持する人達と接する機会が増え、感じたことは、彼らにもまたグラデーションがあるという事です。もちろん、中には過激な差別者もいるでしょう。しかし大半は、家族との生活を大切に平和に暮らしていきたいと願うシンプルな市民で、考えられているような差別主義者ではありません。
そして、その中には中流階級以下の黒人も少なからずいるのです。
私は白人やアジア人の主張よりも、保守の黒人達の存在や考えを知ることによって、政治に対する価値観が変えられたといっても過言ではありません。

私は彼らの考えを知ることによって、視点が少し違っただけで、全く別の観点が見えるのは当たり前のことだな、と思うようになりました。同時に、保守側の彼らに完全な同調はできないけれど、今の方向性では、差別対象がひっくり返っただけで、問題の根本的な解決にはなっていないのではないかと思うようになりました。
そして、私のこの疑問も揺るぎない結果論でなはく、プロセスの段階だとも感じています。

話を戻すと、このニュートラルな視点を得た事によって、私の以前主張したコロナ感染拡大への「自粛」が、日本において正しい事なのか、正直わからなくなってきたというのが今回の日記の論点です。
この1年で私はメディアの偏向報道に飽き飽きし、反対勢力のメディアを敢えて必ず同時に見るようにしてきました。
すると見えてきたことが、Aの視点を通じて導き出した見解とBの視点を通じて導き出した見解が、科学的にもデータ的にも、違った見解が出されている、という事でした。
という事は、答えを一つに決めてしまうという事は統制を図るのに必要な事であるとは理解しつつも、あまりにも短絡的で危ないのではいかという疑問、そして、それは、ダイバーシティ問題に於いて無視される新たな闇なのではないかという疑問がわきました。
アメリカでは本当に、コロナが猛威を振るっていると思います。
CDCの統計では、コロナ以外の死因も含めた2020年のアメリカ国内の全体死者数が約319万人です。
これは2019年の285万人、2018年の284万人に比べても34、5万人増えています。
しかし、これを死者数だけに焦点を当てると、約12%となかなかの差が出ますが、アメリカの総人口3億3100万人というフィルターをかけた上での死亡者数のパーセンテージを割り出すと、死亡者率は2019年は0.86%、2020年は0.96%と、わずか0.1%の差しか出ていません。
これはまた貧富の差、人種などのフィルターをかけるとさらに数値が変わってきますし、そもそも情報を「すべて」集めるのは確実に無理で、なるべく多くのソースを見るようにはしても、現実問題、普通に仕事をし生活を営むのにニュースや記事を見る時間にそこまで割り当てられません。
なので私たちの価値観はある意味偏らざるを得ないと言えます。
ならば人と違うのが当たり前なのに、なぜ違う意見や価値観をここまで許せない世の中になってしまったのか。

コロナに関しても、諸説あるのは踏まえた上ですが、アメリカと日本では状況が全く違っていることがこの1年ではっきりとわかりました。また、コロナによって浮き彫りになった中小企業や飲食業経営の厳しさや、依然として改善が見られない日本の自殺者の多さなどの観点を踏まえて考えると、生活様式や文化の全く異なる国で起こった悲劇の観点から価値観を押し付ける事への疑問がわき、しばらく考えた末、当の日記を非公開にすることにしました。
私自身、日本から離れ海外に身を置く身ですが、だからこそ、日本の欧米化には複雑な感情を抱いてしまいます。
正義感とは、非常にやっかいで愛すべきエゴだと感じます。

変わらないことの大事さと、変わることの大事さ。
山をある地点から見た形と、また少し離れた地点から見た形が違うように、真実や現象は人(視点)によって違う=すなわち、答えや真実というものは一つではない。


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