非常食の歴史〜しぜんのかがくep.16 ぼうさい豆知識〜備蓄食としてのお菓子〜
備蓄用非常食は今防災用として色々手に入りますが、どんな歴史で作られてきたものなのでしょうか?ここにあるアルファ米に注目して紹介しましょう。後で試食します!
まず日本にはもともと非常食があったんです。和銅6年(713年)、今から1310年前に完成した「出雲風土記」という神話に残っています。島根県の宍道湖(しんじこ)(島根県松江市と出雲市にまたがる湖。シジミが取れることで有名)の近くの場所で宇乃治比古命(うのぢひこ)が「湿地(爾多)の水で乾飯(かれいい)をふやかして食べることとしよう」と言ったのが最古の記録です。
「乾飯(かれいい、ほしいい)」は、江戸時代まで旅行の際の携帯食でした。別名糒(ほしい・ほしいい)、餉(かれい・かれいい)とも言われています。伊勢物語「東下り」の段で、在原業平が都の京を偲んで、三河国に来たときに「かきつばた(からころも着つつなれにしつま(妻)しあれば、はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)」(都に残した妻を想う歌。の歌を詠んだ在原業平が枯飯(かれいひ)の上に涙をこぼしてふやけてしまうという場面は良く知られています。
ご飯を炊いて、天日干しにして保存。食べるときはそのままか、水またはお湯を注いで食べる。実はこの乾飯は、今のアルファ米の原点なんです。
アルファ米はこちらですね。この「アルファ」というのは、お米の中のデンプン(アミロース、アミロペクチン)の状態なんですよ。デンプンを水と加熱することで,デンプン分子が規則性を失い,糊状(α状)になることです。
生の米粒はβ‐でんぷんですが、硬くて芯があって、そのままでは消化できません。そこで 水を加えて加熱することで分子同士のつながりが緩み、すき間から水分子が入り込 んで、α‐でんぷんに変わります(糊化(こか))。
製品化したのは、昭和初期。戦争がきっかけです。第二次世界大戦時の日本軍が、1944年に「火力を利用せず、炊飯を行わずに食べられるご飯」の開発を大阪大学産業科学研究所の二国二郎(ニク二ジロウ)さんと尾西食品に依頼し、アルファ化米が開発されました。
アルファ米は宇宙食としても採用されているんですよ。
その他、最近ではフリーズドライご飯も出てきました。(永谷園は2017年に開発)フリーズドライとは、名前の通り、ご飯を凍らせてから真空に近い状態で乾燥させるんです。賞味期限が8年と長く、アルファ米よりも短い時間で食べられます。
ぼうさい豆知識〜備蓄食としてのお菓子〜
その他、日本には備蓄食として残っているお菓子もあります。
「南部せんべい」…青森県南部、岩手県北部のお菓子。小麦粉の煎餅ですね。江戸時代の南部氏が統治していた地域で作られていました。冷害の時の農民の非常食、合戦の時の携帯食でした。
「堅パン」…大正末期、官営八幡製鐵所が現在の北九州市八幡東区に精米工場を建設した際、精米の過程で出る胚芽を試験的に焼いたもの。製鉄所の職員のための栄養補給食。硬いので子供の顎の発達に良いと北九州市の名物となりました。
「くじら餅」…山形県最上村山地域のお菓子。もち粉、うる粉、砂糖、 しょう油(小麦)、小豆、塩、くるみなど使い、蒸して作ります。
「くじら餅」という名前だが、くじらの肉ではありません。保存が効くことから”久しく持つ良い餅”だといわれ「久持餅(くじらもち)」と昔はもっと大きく、くじらに例えた説、見た目がくじらの皮付きの脂身を塩漬けにした塩くじらに似ていたからなど色々説がある。江戸時代に、新庄藩の第3代藩主・戸沢正庸(とざわまさつね)の時代に兵糧食としてつくられていたという説が有力なため、最上地域の新庄市が発祥ではないかといわれている。旧暦の桃の節句(4月3日)に雛菓子と一緒に供えられる。
「カンパン」…天保13年(1842)、反射炉(大砲を作るための溶解炉)でで有名な伊豆韮山(いずにらやま)の代官、江川太郎左衛門担庵公(たんあんこう)が非常時に備え、保存できる軍用の携帯食としてパンを焼き始めたのが最初です。
日本各地にある長期保存できる美味しいお菓子を見つけてみるもの楽しいですね♪
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神田沙織 がりれでぃ スピンオフ
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