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失敗=悪という思い込み

自分は、物心ついた頃から失敗を極力避ける生き方をしてきた。

失敗しないよう細心の注意を払い、目的達成の妨げとなるリスクを洗い出し、1つ1潰して、目的実現可能性を上げてきた。

それで人生うまくいってきた、と思う。

私のような仕事は、失敗は即クライアントに迷惑をかける。

失敗=悪という思いは、信じて疑わない価値観だった。

しかし、ここ数年、なぜだろうか、「失敗してはならない。」という息苦しさにだんだんと耐えられない心持ちとなってきたのも事実だった。

それを解く鍵を提供してくれたのは、息子だった。


1 自分の価値観形成

幼少期の自分にとって、母は怖い存在だった。父は不在がちだった。

物心ついたときから、母に怒られないように細心の注意を払って行動していたと思う。

集団生活になると、失敗しないよう慎重に行動しているというだけで、しっかりしている子と認識され、周囲の見本となった。

先生に褒められる機会が増え、自己効力感は上がる。学生時代は常に優等生の立場で、沢山のことに挑戦していった。

もちろん挑戦するときに失敗する不安は常にあるのだが、不安を原動力にして、自身を叱咤して目的達成していったように思う。

これまでの受験においては、目的達成のため、おそらく周囲の人よりも広く3倍ほどの不合格リスクを考え、3倍手当するような感覚で準備した。

仕事になれば、会社の一大事、レピュテーションリスク、ステークホルダーとの関係、個人事件であれば人生の一大事で現実の生活に影響が大きく、法的なこと以外にも考慮することは多い。

過去の不正事例や失敗事例、当該分野の行政のガイドライン等最近の動向も踏まえ、あらゆる想定リスクを洗い出し、場合分けして、あらかじめ対応を担当者とともに対応方針をすり合わせ決定しておく。

訴訟で負け筋であれば、判決ではなく少しでも有利な条件で和解するように持ち込み、とにかく敗訴は避ける。

そう、それが日常。私の日常なのだ。


2 息子との間の壁

小学校高学年となる私の息子は、生まれたときから楽観的な性格である。

陽気で、感情的に安定していて、大らかな性格である。

疑うことを知らないとまでは言わないが、純粋さがある。

物心ついたときから、失敗となりそうな要素を念頭において手当し、確実に目的達成を図ろうとする自分の性格とは正反対である。

息子がやることに、私は常にハラハラドキドキしてきた。

息子が小さいときは、幼い子供、それをフォローする親という構図で特段大きな問題は生じなかった(感情的には色々あるが・・・)。

また、私が働いていることもあって、息子ともそれなりに距離もあり、息子との関係は良好であった。

しかし、ここにきて、私と彼の価値観の対立が一気に先鋭化した。

勉強をめぐる対立である。

息子は、中学受験塾に通っており、目標となる志望校も自分で設定して、親に言われなくとも勉強している。

しかし、しかしである。

日々のテキストの解き方でも、テストにおいても、問題文を読み落とし、問題文の読み込みが甘いのである。

私は、息子の隣に座って、一緒に設問を読みながら、方法論を教える。

「人間の目(脳)はときどき過ちを犯すし、見ているようで見ていないということが頻繁にある。」

「問題文に印をつける、スラッシュをつける、回答を両手の指でそれぞれ指差し確認する。」
 など問題に応じた具体的対応策をアドバイスをした。

しかし、息子は、年単位で同じことを繰り返し、対策を取らなかったのである。

私の心はかなりイラついた。

ただ、対策を取ればそれだけで成績は上がるのに、どうしてその方法を取らないのか、理解できなかった。

対応策を取るようにあの手この手を使って理解してもらおうとした。

しかし息子は変わらない。

私と息子の間には、分厚い大きな壁がそびえ立っているように感じた。

その時、ふと思った。

これは、親であっても立ち入ってはいけない、息子の領域なのではないか。

そして、私は、なぜこんなに頑張って息子に間違えない方法を理解させようとしているのか。

私は、何を怖れているんだろうか、と。

まず浮かんできたのが、受験に失敗する息子を見るのが自分が辛い、という気持ちであった。

次に、失敗を回避する術がわかっているのにそれを教えなかったことによる後悔をしたくないという気持ちである。

さらに深堀りすれば、この2つの想念の前提となっているのは、失敗=悪という思いが前提にあった。


■受験に失敗すれば、子供は自信を失い、立ち直れないのではないか。
■失敗により、努力は報われないと考え、自暴自棄になるのではないか。
■受験を失敗させないために、親としてもっと教えておけばよかったと自分で自分を責めることにならないか。

上記は、全て受験の失敗は悪を招くとの考えが当然の前提になっている。

たしかに私はそのような価値観でやってきた。

しかし、今回のことは、子供の成長にとって必要な失敗なのではないか。

中学受験を失敗することによって、高校受験や大学受験で、細心の注意をするようになるか、あるいは、失敗してもへこたれない強い自分を見い出し、何らか挑戦していく可能性もあるのではないか。

そもそも大らかな性格であって失敗してもやっていける器であるから、失敗を避ける対策をする必要性を強く感じない可能性もある。

そこで、はたと気づかされた。

失敗=悪という思い込みが私の中にあり、彼の中には明確にはないことを。

私はこれ以上、この思い込みを息子に植え付けないようにしなければならない、という気持ちが湧き上がってきた。

また、私自身も最近の生き辛さの一端は、この失敗=悪の価値感にがんじがらめになっているような気がしたのだ。

目的、成功、結果を求め続ける生活。それで幸せといえない自分がいた。

自分は、裁判の勝敗。受験の合格、不合格。そういった表面的な成功や失敗に振り回されすぎなのではないか。


3  ”失敗”を振り返る

そこでふと自分の過去にさかのぼって、”失敗”について検討してみた。

自分も司法試験に1回で合格したわけではない。僅差で不合格になり、大変悔しい思いをしたことがある。

でも、合格するタイミングで出会う人が大きく変わったのも事実だった。
1年を待たされることになったものの、次年度合格したタイミングで夫と知り合うことができ、結婚したのだった。

裁判においても、以前、当方主張が認められず、敗訴的な結果となったことがあった。
しかし、敗訴的な結果があったからこそ、裁判外で紛争全体が当方有利に終結したことがあった。

もちろん、敗訴は通常、不利益なのだが、全てではない。

”失敗”とされることを全て悪と決めつけ、恐れているのは、自分の頭の中の思い込みというのが実態なのかもしれない。

「失敗は成功のもと」何度も聞いた言葉が頭をよぎる。
 これまでは、そんなこと言っても成功した方がよいに決まっている、と本音では思っていたのだ。

「何が失敗か、なんて長い人生わからない。」

今度は実感を持って、息子に話せそうだと思った。

                                                                                                                 fin


















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