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海音寺潮五郎『孫子』(上)に見る戦術家とは

私が初めてこの本を読んだのは、20年近く前になると思います。それ以来何度か読み直していましたが、今回10年ぶりくらいに再読する機会がありました。

何度も読む理由は、別に孫子の兵法や戦術に興味があるからではなく、ここで描かれる孫子(上巻では孫子とは孫武のことをいいます)という人物が非常に人間臭く、身近に感じられるからで、もっぱら物語としての出来の良さによるものです。

この本では孫子の兵法を解説するのではなく、『史記』の列伝を中心として関連文書からエピソードを拾って、孫武と彼にまつわる歴史上の人物の人生を語ったものです。もちろん、孫武が本を著したことも実際に将軍として従軍したことも記載されているので、「兵法」なるものの一端に触れることはできます。

私がこの本を読んで考えさせられたのは、戦術家とはどのような人物のことを言うのか、ということです。

人やものの本によって、戦略と戦術の定義は異なりますが、私は戦略とは目標を達成する可能性を極力上げるためのお膳立て、環境づくりであると考えています。目標はそれが困難であればあるほど、達成は環境や周りの人間関係に左右されます。これを目標達成のために最適な状態に整えること。これが戦略です。

戦術とは目標達成のために実際に行うべきタスクであると考えて良いのではないでしょうか。むやみやたらとやるべきことを決めるのではなく、目標達成のために必要かつ効果的な手をひとつひとつ実行していかなければなりません。誤った手段をとったり、非効率的なやり方をしていたのでは、時機を逃してせっかく整えた戦略が生きてきません。

私のこの定義からすると、この本で語られている戦術、兵法とは、多分に戦略を含む、あるいは包含するもののように思います。環境を整え、最適な状態、タイミングで打つべき手を打つ。孫武が彼の人生を通して戦争を分析して得たもの、そして実地で試みたものはこれに尽きるのではないでしょうか。

ですので、この本で語られる戦術家とは、戦略家のことでもあると思います。それでは、この本で語られる戦術家、戦略家とはどういった人たちのことを言うのでしょうか。

この本では、戦術とは読心術に似たものであるとあります。敵の心理を読んでその裏をかいた楠木正成の例も出てきます。孫武の王や同僚に対する神経質なまでの気の使い方を見ても分かると思います。

つまり、戦術家とは人の心を細やかに読み取り、悟り、その状況によって最も最適な発言、行動をとることができる人間のことを言います。

これは人間対人間においては、いわゆる空気を読める人のことで、最近ではあまり評価されることのない能力です。この本を読んでいると孫武という人物が神経質で気が弱く、空気ばかり読んで1人で気苦労している年寄りにしか見えません。人間対人間のレベルでは黙殺されるタイプです。

しかしこの能力は組織対組織、会社対会社、国対国のレベルになると途端にその重要性が高まってきます。空気を読めない、相手の心を知ろうとしない人には戦略、戦術を構築することはできません。

また、えてして戦術家が腹黒いとか言われるのは、人の心を読む、その裏をかくと言ったネガティブな面だけが強調されたものでしょう。しかし本来、戦略、戦術といったものは所詮道具に過ぎず、使う者によって善にも悪にもなり得るのは刃物や銃と同じです。戦略、戦術とは合理的、客観的なもので、感情や主観とは別次元のものです。

世の中が乱れてくると、煽動家や激情家が増えてきて、ともすればそう人たちが社会や政治で活躍する場面が大きなります。それが悪いと言い切ることはできません。明治維新もそうでしたし、世の中が大きく変革するときはそういった人たちのエネルギーが必要になることも多いです。

しかし、私たちが注意しておかなければならないのは、彼らのうち本当に戦略眼を持ち、戦術を組み立てられる人が誰なのか、彼らが達成しようとしている目的が何なのか、しっかり見極めることです。この本はそのための目を肥やすことができる本です。ホンモノとニセモノをしっかり見極める目を私たちが持つこと。AIが当たり前になっている現代において、ますます私たち人間の人を見る目が問われています。

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