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「わかり合えない」を乗り越えるために教育があると思う

企業が行う人材育成も広い意味で「教育」と言えます。

企業の場合はもちろん「仕事で成果を出す」ことが主目的ですが、社会人にもなると様々な人と一緒に仕事をする必要があり、中には自分とは性格も価値観も大きく違う人もいるため、突き詰めていくと社会人としての成長とは「自分とは合わない人とも協働できるようになること」と言えます。

一つの例を紹介しますと、私がマクドナルドの店長をしていたころ、高校生のアルバイトをよく採用していました。
中には高校に進学せずにアルバイトに来るような人もいるので、いわゆる社会常識がまだ身についていない状態です。

そのため、色々な仕事を覚えていくなかでときどきポテトをつまみ食いしたり、コーラを勝手に飲んでしまうようなことを平気でやってしまいます。
(もう時効なので正直に言いますが、私も当時はある程度は黙認していました)

あまりにも度が過ぎると当然厳しく注意することになるのですが、素直に従う人もいれば、心の中で「何でこんなことで怒られるんだよ!」と納得しない人もおり、その場では「すいません」と言うものの、しばらくするとまたつまみ食いをしてしまいます。

ここでもし私が「ふざけるな!ここは仕事場だぞ!遊びじゃないんだ!」と厳しく叱ったとすると、本人はおそらく「何でこの程度でこんなにボロクソに言われなきゃいけないんだ・・・、こんなバイト辞めてやる」と次の日からバックレてしまい、お互いに「社会の常識を知らないガキ」「頭の固い意地悪な大人」として永久にわかり合えないまま終わっていたでしょう。

当時は私も未熟だったので、厳しく罵倒して次の日から急に来なくなったアルバイトは何人もいました。しかし今となって振り返ると、別に相手に問題があったわけでも何でもなく、私が本当の意味で「教育」をしていなかったという反省があります。

社会で働いたこともない未成年のアルバイトにとって、自分の半径2メートルが世界のすべてであり、ポテトの1本ぐらいつまみ食いをしたからといって誰にどんな影響があるのかわからないのは当然です。

それなのに頭ごなしに叱っても相手は「何で叱られるのか」もわからないし、叱られることが自分にとってどんな意味を持つのかも当然わかりません。

そのため、私が本来やるべきことは「働くとはどういうことか、給料をもらうとはどういうことか」から教えることであり、そのうえで「ポテトを1本つまみ食いすると誰にどんな影響があるのか、なぜそれがいけないことなのか」を本人が理解できるまで教えてあげることでした。

すなわち、本人が見えている世界が狭い状態から、教育を通じて視座を引き上げ、見えている世界をほんの少し拡げてあげることが、本人に行動を改めていただくうえで必要なことです。

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このように学生のみならず、社会人にとっても「教育」は自分の視座を引き上げ、見える世界を拡げるものになるので、世界が拡がることにより今まで許せなかったことが許せるようになる、理解できなかったことが理解できるようになります。
その結果として、今まで「わかり合えなかった相手」とも仲良くはなれないにしても共存していくことができるようになります。

例えば、ついこの間まで学生だった新入社員にとって、昭和生まれの上司は簡単にはわかり合えない相手かもしれません。

新人研修でビジネスマナーや仕事の進め方など学ぶのですが、敬語の使い方や名刺交換の仕方、ホウ・レン・ソウの作法などをただ教えるだけでなく、「なぜそれが必要なのか」「上司は何を大事にしているのか」を教えることによって見えている世界が拡がり、一見理不尽にも思える上司の言動に対しても受け止められるようになります。

また、上司の立場でもやはり見えている世界が拡がらないと、世代も価値観も違う部下とはわかり合えないかもしれません。どんなに年齢を重ねて経験を積んでも見えていない世界は必ずありますので、いくつになってもどんなに偉くなっても「教育」によって得られるものはあります

そういう意味で「教育」の役割は企業にとってはもちろん、社会にとっても大事なことではないかと考えています。

今回もお読みいただきありがとうございました。

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