見出し画像

「人に歴史あり」


ある人が今までどんな風に生きてきて…
今どんな風に生活しているか…
そして、これからどんな風に生きていきたいと考えているか?

私は歴史好きなので、とても興味があります。

生きづらさを抱えている人の
今の生活をより良く
将来の生活をより良くするために
サポートしていくのが福祉の仕事だから

歴女は福祉の仕事に向いているのかも

✳︎✳︎✳︎

Facebookに投稿したら、
「天職に出会い活躍されてる○○さんが羨ましいです😍💕」
と、ある方がコメントしてくださいました。

そして、私からのコメント

天職!ですかねぇ〜
実は、19年前に叔父を難病で亡くしています。私が29歳のとき。叔父が49歳でした。

幼少時、祖母や母が「何で、(叔父だけ)こんな病気になっちゃったの?」と嘆き悲しむのをよく見ていました。
「医師になって、その病気を治す方法を研究したい!」なんて思ったことも…(理系は苦手だったのに😅)

✳︎✳︎✳︎

亡き叔父が歴史好きで、私が歴史好きなのは、その影響もあると思います。

叔父が亡くなったときは、まだ難病は障害福祉サービスの一部しか対象ではなかったのですが、今は、就労系サービスなど、難病の方も対象になっています。

「人に歴史あり」
利用者さんだけでなく、そのご家族の歴史や思いも大切にしていくサービス提供を目指したいですね。

✳︎✳︎✳︎

亡くなった叔父のことは、児童指導員をしていたときに県社協か何かの広報誌に書いたことがあります。「福祉の道を歩むことになった原点に、叔父の存在があったからかもしれない」と。

叔父は、神経繊維腫症 I 型(レックリングハウゼン病)という難病でした。

私より上の世代だったら映画「エレファントマン」と言えば、その病気のイメージがわくかもしれません。
幼少時は、肌に薄茶色のシミがいくつかあるくらいですが、成人するくらいに皮膚や内臓などに良性の腫瘍が無数にできてきます。

叔父の場合、その腫瘍がかなり目立っていたため、外見から「うつる」と感染症と間違われて、辛い思いをしていました。

もともと、先天的に目瞼下垂(がんけんかすい)
でもあったようで、学生の頃は、外見のことをあれこれ言われて、いじめにもあっていたようです。

社会人になってからも、腫瘍のことでジロジロ見られたり、陰口を言われたりして、一箇所で長く働くということが難しく、自宅の自室にこもっている時期が長くありました。

私にとっては、叔父というよりは兄のような存在でした。とにかく繊細で優しい人でした。

妹が生まれるときに、母の実家で過ごしていた私は、叔父に遊んでもらい、とても可愛がってもらいました。その後も、夏休みや冬休みなど、祖父母宅に泊まりに行き、叔父と遊ぶのを楽しみにしていました。後から生まれた、いとこたちも同様でした。

叔父は50歳の誕生日を目前にして49歳の若さで亡くなってしまいました。
腸周辺の腫瘍が悪性化して、手術困難になってしまったからでした。

亡くなった瞬間、私の母は
「レックの馬鹿野郎!」と泣き叫んでいました。

病院から祖母を祖父母宅に車で送る役目は私がしました。
美しく月が光り輝く2月の寒い夜に、末の息子を亡くした80を超えた祖母がさめざめと泣いていて、なんともせつなかったです。

あれから19年の月日が流れようとしています。
息子を育てながら…気づいたことがあります。
叔父は、自閉スペクトラム症だったのではないか?と。

叔父が寿命を縮めることになった原因として思い当たることがあります。
ひとつは、かなりの偏食だったこと。
もうひとつは、入浴やシャワー浴が嫌いだったこと。

良性の腫瘍も大きくなると、様々な神経を刺激して、痛みに苦しむようになっていたようです。
叔父は、何度か大学病院に入院して、良性の腫瘍を摘出する手術をしていました。
全身麻酔使用の手術に何度も耐えながら…
その病気が治ることは決してないという残酷な事実と向き合う人生。
辛い思いをたくさんしていたと思います。

もしも、叔父が偏食なく何でもよく食べて、入浴も嫌いでなかったら…
全身麻酔のデトックスがうまくできていたかも?
死に至るような腫瘍の悪性化は起こらなかったかも?
と思い至りました。

もちろん、科学的な根拠はなく、私がそう感じる…というだけです。
(食事栄養療法や自然療法を学ぶと、ブロッコリーなどデトックスに良いとされる食材を食べたり、お風呂やサウナで汗を流したりすることは病気予防になるという理解に至ります)

叔父が亡くなった後、改めてパソコンで病気について調べて、ある当事者の方のブログにたどり着きました。
叔父はまだパソコンを使ったことがなかったので、私がもっと早くこうした情報を教えてあげれば、叔父も仲間とのやりとりを楽しめたかもしれない…何より、病気の辛さをきちんと理解してあげていなかったことを後悔して泣きました。

こうして書くと、叔父の人生は辛く悲しいものだったように思われてしまいそうですが、もちろん、叔父も人生を楽しむ場面もありました。

若い頃は、外見からいろいろ言われることが辛く、自宅にこもりがちでしたが…
40歳を超えたあたりから、周りからあまり言われなくなったのか?気にならなくなったのか?
叔父は、地域の「古文書を読む会」での勉強を楽しみ、発掘作業の仕事に参加するようにもなりました。
亡くなる数ヶ月前から杖を使用する生活になっていましたが、杖をついて発掘作業の仕事に行っていたと祖母が語っていました。

叔父の部屋には、ジグソーパズルの作品やたくさんの漫画や小説、歴史の本、テレビゲームのソフトやUFOキャッチャーでゲットしたぬいぐるみなど所狭しと、叔父が好きだった物が並んでいました。城めぐりも好きで、城の写真やお土産に買った通行手形なども。


広告紙の裏に落書きを教えてくれたのも
ファミコンを教えてくれたのも
戦争はいけないことを教えてくれたのも
横溝正史や赤川次郎の本をかしてくれたのも
大学の歴史散策レポート作成のため
各地に連れて行ってくれたのも
大好きな叔父でした。

叔父の遺品から、叔父の中学生くらいのときの集合写真が出てきました。
クラスメイト何人かの顔が赤く塗りつぶされていました。
それを見た(叔父の義理の姉にあたる)叔母が言いました。
「赤く塗り潰しちゃう強さがあったんだねぇ」と。

叔父がもっと遅くに生まれていたら…
目瞼下垂の手術をして、外見が良くなり、見えにくさから解放されたのに。

そして、今だったら…
一般企業で働く困難さがあったら、就労サポートの事業所で働くことができたのに。
ブログやSNSで当事者同士の交流がもっとできていたのに。

そんな風にも考えてしまいますが…

叔父の思い
祖母の思い
きっとそれらは今の私の中に生きています。

祖母が何度も嘆いていた
「なんで○○だけ、こんな病気になっちゃったんだろう」
というセリフは、私が息子に対しても感じた思いと重なります。

でも、私は、その先へ進みます!

病気が治らなくても
障害が治らなくても
誰もが「より良く生きたい!」という思いを
実現できるように…

嘆き悲しむより
笑い楽しむ時間をより多く持てるように…

自分も
家族も
周りの人も
みんな幸せ(=福祉)になるために…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?