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▼日常▼『Neyasnoe』出口なき絶望は、やがて一篇の詩となる——ロシア“失われた世代”の暗闇を体験する異色ウォーキングシミュレーター【月の裏側のビデオゲーム】

【月の裏側のビデオゲーム】とは、メインストリームと外れた場所で、ビデオゲームの可能性を追求するタイトルを特集するものです。
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シーズンテーマ『日常』で特集しているタイトルです

ある国の、ある場所に住む他人を想像するのはきっかけがなければ難しい。

ロシアによるウクライナへの侵略戦争が2022年に発生して以降、戦火のニュースから他人を想像するきっかけを与えたのは攻撃を受けるウクライナの市民の方だ。戦争に関する様々な報道や映画、テキスト、そしてビデオゲームも含めてウクライナ市民の生活を日本人が想像するきっかけは溢れている。だが、ロシアの市民についてはそうではない。

現在のニュースを追う限り、ロシアは強硬化したプーチン大統領のイメージに引きずられがちである。ビデオゲーム(以外でも)市民がクローズアップされるとき、ある意味でそれは何らかの被害を被っている側であることが少なくない。

そんなイメージにとらわれていた中、『Neyasnoe』に触れて衝撃を受けた。ロシアの発表当時27歳のクリエイターSad 3Dことアレクサンダー・イグナトフが開発したこのウォーキングシミュレーターには戦争の影はおろか、直接の暴力描写はいっさいない。何の事件も起きない。事件が起きた後のことでもない。ある種の日常だけが描かれている。にもかかわらず、完璧な絶望が1時間前後のゲームプレイに張り詰めている。

執筆 / 葛西祝

ウォーキングシミュレーターは2010年代初頭の『Dear Esther』や『Gone Home』によってある程度は形が決まったように思える。簡単に言えば人が消えた場所、残された環境から考察できる背景、主人公と思われる人間のモノローグによる情緒的な体験といった数々である。日本人からするとある意味では新海誠のアニメーションの構造にも近いそれだ。

しかし『Neyasnoe』にはありきたりな情緒も世界への考察もない。舞台は郊外の街や都市部で、そこに人々が暮らす営為が作られている。主人公には一切の言葉もない。目に見えるビルもバーも店も灰色の空の下で荒涼としており、情感ある風景は欠片もない。地面や建物の中ではネズミが這いまわり、ここが不衛生な場所であるとプレイヤーに告げる。枯れた木に誰かが捨てたビニール袋が枝にかかり、風になびいている。

初代PS・SS的な低解像度のテクスチャとローポリゴンで描かれる人々と風景は、『Back in 1995』のようなシンプルな懐かしみ方は皆無だ。荒々しいテクスチャによる人々の目つきは、どうしようもない日々を過ごしていることををプレイヤーに訴える。そのために低解像度を選んだかに見える。

ノイズ交じりの目つきの人々があてどない暮らしをするのと同じく、プレイヤーができるのは堕落しきった行為しかない。キーボードのGをタップすればいつでも煙草を吸う。Eをタップして街の酒を飲む。ドラッグストアで安い錠剤を嚙み砕く。

だらだらとスナックを食い、ビールだのワインだの飲み干し、視界を酩酊させたまま、クラブで流れるトランスで踊り、時間を延々と潰していく。フロアは煙っている。シーシャを吸う他の客の煙が天井に溜まっているからだろうか。ワインを嗜む(どうやら主人公の知り合いらしい)女には「まだ仕事はみつからないの?」、「首都に行った方がいいと思う」と言われる。主人公はアルコールが効いた頭で女の言葉を聞いている。

人生を無駄にするような行為を続けるたびにあるパラメータが上下するアナウンスがある。パラメータは「Lonliness(孤独)」、「Corporeality(身体性、具体性)」、「Refletion(内省)」といずれも普通のゲームでは目にしないものばかりだ。他人と会話すれば「Linliness」のパラメータが変わるし、酒を飲んで酔っ払えば「Corporeality」の値が変わる。

ハイペースでビールやらウォッカやら飲み続ければ、自分の身体や具体性がぐらぐら揺れるのはわかるが、このパラメータは特にゲーム中のイベント発生とか特定のチャレンジに影響するとかそういう要素はひとつもない。ほぼ数字に意味がない。行き詰った主人公や周りの人間と同様に、プレイヤーが行き詰まり無意味な行為を繰り返した軌跡だけが数値としてカウントされているだけだ。

このようにほとんどビデオゲームとして機能している要素が無い。にも関わらず、『Neyasnoe』には明確に体験させようとするものがある。無為な日々の出口のなさである。

「聞けよ。病むなよ」街を歩く3人の男は主人公にそう言う。自分たちに向けても言ってるのかもしれない。無意味な行為によって孤独や実存を揺らがせながら、目的もなく流されるように都市へ、あるいはイベントホールへと流れ着いてゆく。そしてこの無益さは、ロシアからはるか遠い日本に住む自分にも馴染みのある感覚なのである。

無益な日々を体験させるゲームが単なる露悪的なジョークだとか自虐的な笑いに終わらない印象を残すのは、本作が詩や文学にインスピレーションを受けている面も大きい。わかりやすいのは古典文学の引用であろう。街の書店ではイワン・ツルゲーネフの作品がそのままテキストで丸ごと読むことができたりする。それ以外にも、詩の断片が散らばっている。

Sad 3Dは腐りきった日々の空虚さを、なにか詩を詠むような視座から冷静に描いて見せる。『Neyasnoe』はただ行き詰った人間の日常を体験させるだけじゃない。ディテール細かく郊外や街の汚れや人々を描き、社会の閉塞感を批評するようにその体験を作っている。それが凡百のウォーキングシミュレーターとの圧倒的な差になっている。

 “詩を詠むような”と喩えたが、実際に本作ではホールでポエトリー・リーディングを披露するシーンがある。本作には詩人のイリヤ・マゾがSad 3Dと協力する形で制作に参加しており、汚れや破綻を美しさに変えてしまう詩情は彼の功績もあるのかもしれない。そしてポエトリー・リーディングのシーンで登場するのは、イリヤ自身なのだ。

僕は『Neyasnoe』をプレイしていて小説『限りなく透明に近いブルー』がビデオゲームになるとしたらこんな感じなのかもしれないなと思った。

24歳の村上龍の書いたあの小説では、主人公は流されるままに福生米軍基地の近くで麻薬とセックスによる無為な日々を過ごし、随所に幻覚体験のような描写を取り入れたことが印象深い作品だった。物語の最後には主人公が自分を取り巻く世界や社会が地平線の向こうに広がり無力さに怯えている描写で幕を閉じる。

27歳のSad 3Dによる『Neyasnoe』もまた、詳細なディテールとわずかなシュールレアリスティックの混ざりこんだ社会を描き、無力な自分も世界も冷徹に見つめていることで広い視野を獲得した作品になった。

『限りなく透明に近いブルー』では何もかも無くした主人公が最後に先にある世界の到来を待つような一文で終わる。『Neyasnoe』もまた、結末では主人公は遠い世界へ向かう予感で終わる。主人公が行きつくのは具体的な世界なのか。あるいはより虚無に落ち込むのだろうか。

葛西祝
令和ビデオゲーム・グラウンドゼロ主催。
「ジャンル複合ライティング」というスタンスで、ビデオゲームを中核に映画や現代美術、文学、あるいはスポーツや格闘技なども越境するテキストを作り続けている。
●Twitter:@EAbase887 ●公式サイト
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