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【レビュー】『東京珈琲パンデチカ』・コロナ禍でおいしいコーヒーを淹れるゲームは、当時、将来を悲観して焼身自殺した飲食店店主のことを忘れさせることができるのか?

『東京珈琲パンデチカ』をクリアまでひと通り体験して思うことは、「人間はとてつもない危機に見舞われたとて、やれることが限られる」ということだったりする。これはあまり作り手が想定した見方ではないかもしれないけれども。

コロナが蔓延した街で、お客が減ったとしても飲食店はご飯を作ることができることのほとんどだし、喫茶店はコーヒーを作ることがやれることのほとんどである。ただし、店の外に広がる社会にアクセスすることをあきらめたならばだ。

いまや残酷な現実を体験できるゲームジャンルでホットなのは、実は『コールオブデューティ』シリーズだとか『GTA』シリーズではなく、バーや喫茶店などのマスターとしてお客さんとコミュニケーションするADVだ。『VA-11 Hall-A』以降、銃を持って敵と戦う兵士ではなく、一般人として店のなかで飲食を提供する店の外で、社会的な動乱が起きていることを体験するものが増えた。主人公たちは動乱を止めることはできない。やれることは日々の店の営業である。

『東京珈琲パンデチカ』もそのひとつである。しかし、本作は残酷な現実を扱いながら、決定的に残酷な体験をさせることを避けている。コロナ以降の日本というここまで社会的な事象に遭遇し、数多くの破綻がありながらも、「結局は大問題をなかったことにしてしまえる(なかったことにしてしまいたくなる)」とまとめてしまう、作る側の心理的な動きについて考えさせるのである。

執筆 / 葛西祝

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現実のコロナ禍と地続きとして体験する、ある喫茶店の物語


『東京珈琲パンデチカ』は「現実世界の地続きとして本作を体験してもらいたい」という意匠が全編に施されている。冒頭でPCの時間設定に合わせ、ゲームをプレイするその日、その時間が巨大なフォントで表示されるのもそうだ。

このゲームはリリースされた2024年から始まり、コロナが蔓延し、社会が揺らいだ2020年~2021年を振り返る構成を取っている。店主はコロナ禍の中でも、数少ない客に向けてコーヒーを丁寧に作り続けている。

本作の白眉は丁寧なコーヒー作りの体験そのものだろう。コクや甘みなどの味わいが違うコーヒー豆の銘柄を選び、豆を丁寧に擦る。そしてドリップでは、味わいが出るようにお湯の量を調節しながらコーヒーを生み出していく。これらのプロセスの一つずつでコーヒーの味が変わっていく。

お客さんごとにコーヒーの好みは分かれている。プレイヤーは店主として、そんな彼らの好みに合わせてコーヒーを作っていくことが、本作のもっとも面白い体験に違いない。好みにぴったりあったコーヒーを出せば、お客さんはみるみるうちに身の上話を始めてくれる。

もし好みに合わなかったコーヒーを出してしまったとしても、技術は無駄にならない。コーヒーでより味を良くするステータスを獲得でき、次のコーヒー作りに生かせるのである。


このように、主要な体験はコロナ禍で客も消えつつある追い詰められた環境下でも、店主はもくもくとコーヒーを淹れる技術を磨き続けていく感覚が強い。その過程で、数少ないお客さんたちから、同じようにコロナ禍で人生が変わってしまったお話を聞いてゆく。その話の多くは当時の社会で批判されたものばかりである。

東京五輪の延期、感染対策としてまったくの失策だったアベノマスク、そしてコロナの発生が中国の武漢だったことで、ウィルスの陰謀論が語られるなど、いまでも未解決な話題は数多い。ゲームプレイ中にはコロナ禍が過熱した時期のトピックスを一望できる用語集だってある。

排除されたあの時代のお店や、その社会の個人の問題

だが根本的な話で、なぜここまで余力を持って喫茶店でコーヒーを作り続けることができたのだろうか、と思う。コロナによって個人店を運営していくことは非常に難しくなってしまい、自分の近所でも店がどんどん閉店していた。

痛ましいニュースで特に思い出すのは、東京五輪の聖火ランナーに選ばれていたとんかつ屋の店主が焼身自殺を図ったものだ。営業停止を受け、先行きを悲観した自殺は彼だけではなく、三浦春馬さんをはじめ数多くの著名人が自死を選んだ。この事もまた、未解決な話題といっていい。

その意味で『東京珈琲パンデチカ』はあの時期に決定的な将来を悲観する鬱、孤立、そして自殺の問題がスルーされているのが気にかかる。そもそも、舞台となる喫茶店は賃貸じゃなくて、自分の不動産で運営してるのだろうか、だから休業中でもなどなど詮無いことを思わなくもなかった。

ともかく店主の視点でプレイしていて、つい他の同業者が立ちいかなくなっている話などは聞かないものなんだろうか。志村けんさんのコロナ感染による逝去は、言い方を変えればわかりやすくコロナの毒性を恐ろしさを伝えるものだったので本作でも(志村さんの名前は出ないものの)言及されるのだが、人間が社会的に孤立させられる未曽有の事態についてはすべて語られない、いや、体験できないのである。

コロナ禍は、ある社会課題を拡大してみせていたものと考えたほうがいいように思う

コロナ禍というのは、見方を変えればコロナ以前から進行していた数々の課題を明らかにし、何倍にも拡大させたものでもあった。

単純なところで言えば、オンラインで業務やイベントを行うような仕事のスタイルの変化などが挙げられるだろうが、精神的な課題として社会から助けを得られないことによる孤立と鬱があった。

あの当時、いくつかの自死のニュースからはコロナ以前から蔓延している孤立や鬱、将来の悲観といったものがまさか、孤立から遠いように思える著名人のなかでも発生していた(と思われる)ことに衝撃があった。

その意味で、『東京珈琲パンデチカ』はほとんどといっていいほどコロナで生まれた孤立や鬱の課題には触れていない。ゲームの題材としても、コーヒーを通して他人が陥った孤立に関わる体験にすることもできたとは思うが、そこまで核心に迫ったアプローチはしていない。

それよりも、コロナという時代を扱いながら、喫茶店に経済的な苦境みたいなこともなく、いろんなお客さんが来るが全体的においしいコーヒーが出てきてあの時代も過ぎてよかったよかったという風にまとめざるを得ないほうに考えるところはあった。

おいしいコーヒーをふるまうことが、根本的な孤立の問題を(少しばかりは)癒すようなものではなく、その味わいはそもそもの問題をなかったようなことにしてしまう。

あの時代は少なくない死者が出ており、そしてその死の背景にあったものは、実はコロナの前からも、そして今も継続していると思う。コロナとはそうした背景を拡張したものであって、いまも全く過ぎ去ってはいないのだ。表面上のニュースを振り返るのではなく、事態の背景にあった問題を取り上げるべきなのだ……とまで本作に望むのは、酷だろうか。

葛西祝
令和ビデオゲーム・グラウンドゼロ主催。
「ジャンル複合ライティング」というスタンスで、ビデオゲームを中核に映画や現代美術、文学、あるいはスポーツや格闘技なども越境するテキストを作り続けている。
●Twitter:@EAbase887 ●公式サイト
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