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その動きで物語と世界を伝えろ。プレイステーションで実現していた、コンテンポラリーダンスとしてのゲーム——『バウンド:王国の欠片』や『detuned グミ先輩の不思議空間』などを振り返って【アートハウス・ゲームシーン】
ビデオゲームとはゲームプレイによるアクションこそが、なにより物語や世界観を雄弁に表現してくれるものだ。
そんなアクションは、危険地帯をジャンプしてクリアしたり、膨大な敵を華麗なコンボで叩きのめしたりするといった動きがほとんどだった。しかしビデオゲームが年数を重ね、広い表現を目指す中で、現実のあるジャンルのアクションを模したみたいな実験的なタイトルが出てくる。
そこで、まさかのダンスによって物語を表現するジャンル、コンテンポラリーダンスを扱っているとしか思えない、特異なタイトルがプレイステーションにていくつか存在した……ということを、過去のPSアーカイブをやり直しながら思い出したので、あらためて言葉にしておこうと思う。
執筆 / 葛西祝
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コンテンポラリーダンスとデモシーン
コンテンポラリーダンスに関しては、さすがに普段ビデオゲームを遊んでいる人を考えるとかなり距離が遠そうなジャンルだ。本テキストに合わせてかなり簡単に説明してしまえば、言葉を使わずに身体動作だけで現代的な世界観を表現するダンスといえる。
従来の伝統的なクラシックダンスやバレエの構造を越え、さまざまな地域のダンスや、時に現代美術やテクノロジーと融合した演出によって、いまこの時代を切り取るかのような、前衛的な振り付けを特徴としている。
この分野の代表的な振付師といえばアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルだろう。
特に上の動画のような、アンヌが振り付けたミニマル音楽の大家スティーブ・ライヒの無機質なメロディのループに合わせたダンスは、ビデオゲームとコンテンポラリーダンスの関係を観るうえでわかりやすいかもしれない。アンヌの振り付けは身体的な動作と舞台演出が合いまり、社会的な抑圧にかけられた人間という世界観がわかりやすいように思う。
そんなコンテンポラリーダンスに近いアクションをビデオゲームに落とし込んだのは、純粋なルールやメカニクスによる遊びを作るゲームデザイナーではなかった。 “デモシーン”と呼ばれる、リアルタイム3Dをプログラミングしてアニメーションにするカルチャー出身のクリエイターが一部、生み出してきたというのが興味深いところである。
デモシーンはビデオゲームの世界と密接につながっている。たとえば『CONTROL』のRemedyや「Pay Day」シリーズのStarbreeze Studiosといった、著名なタイトルを作るデベロッパーも元々はデモ映像を作るところからスタートしている。なのでデモシーンの作り手がアートハウス的なゲームを作るわけではないのだが、ある時期のプレイステーションではそうではなかった。
交わることが想像しづらい、フィジカルな表現のコンテンポラリーダンスと3DCGのアニメーションのプログラムを作るデモシーン。両者に共通しているのは、言葉を使わずアクションだけで世界観を表現してしまうことだろう。このふたつはプレイステーションという場で奇跡的に交わることになる。
『バウンド:王国の欠片』
僕が思うに「ビデオゲームにおけるコンテンポラリーダンス」を実現した金字塔が本作である。後に続くダンスのタイトルがほぼない孤高の傑作。
幼少時代の家庭関係に不和を抱えた女性の深層心理を表すような、立方体が海のように蠢く抽象的な世界。女性の抑圧された精神を振り払うように踊り、先へ進んでいく主人公の“王女”の姿は、まさしくビデオゲームでプレイできるコンテンポラリーとは何かを(現時点で)端的に体験できるものだ。
開発のPlasticはデモシーンで数々の作品を作り上げてきたチームであり、「バウンド」以前にもPS3にて『Linger in Shadows』をリリースしていた。「バウンド」でもリアルタイム描画で躍動するオブジェクトの表現などに、デモ制作で培った技術が生かされている。
そこで「バウンド」では、これまでに実現しきれなかっただろう、広範囲にわたる物語の表現をダンスのゲームプレイによって実現しているわけである。
ただ、いまやり直してみるといくつか課題もある。さまざまなダンスアクションがあまりゲームプレイとして機能しないシーンが多く、踊っているだけに終わってしまうところが体験の強度を弱くしているのは否めない。
たぶんPlasticとしては、ゲームのルールやメカニクスに基づく作りを入れてしまうことで広がりが出なくなるのを避けたんだろうなと。脚本のない映画こそが映像の生々しい姿を表現できるのだ……というのに近い意味で、ルールの存在を消していったゲームこそ生々しい体験を表現できるのだ、とアートハウス系のクリエイターは考えがちなところがある。
『detuned グミ先輩の不思議空間』
たぶんPS3のダウンロードゲームの中でも、プレイした誰もがまともな解釈がされないまま「何だったんだろうあのゲームは……」という記憶だけが残っているだろう一作。
しかし、こちらも「コンテンポラリーダンスとデモシーン」という文脈から振り返れば、本当は何を見せたかったゲームなのかが見えてくると思う。
だが『detuned』もまた、デモシーンのクリエイターによる実験的なビデオゲームの一つだったと言える。開発はドイツのデモシーンにて活躍したFarbrausch。
動的にダンサーの男の顔が象やバルーンに変化していく動きとか、ゲームプレイが実質的にモーションの再生や巻き戻しくらいしかないのはPlasticの『Linger in Shadows』に近い。
実質的に映像で完結するデモを何とかゲームプレイに落とし込もうとした拙さはあるけれど、デジタルで体験できるコンテンポラリーダンスとして考えると、なかなか興味深い一作だったと思う。
見方によってはアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルのミニマルかつ社会的な抑圧みたいな雰囲気を感じさせる振り付けに加え、演出によってはドラッギーな映像に変わりながらその中を踊るなど、わかりやすく精神的な不安を表現するパフォーマンスと見ていいのかもしれない
いまはPlayStation Plusにてストリーミングでプレイ可能。
『INSIDE』
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あとはデモシーン出身ではないが、コンテンポラリーダンスの要素を感じさせる言葉なきアクションの代表格といえばPlaydeadの本作だ。少年が何か全体主義社会から逃げ出そうとする先で見る、無気力に生命を奪われた人間たちの姿はいまだにセンセーショナルな衝撃があるだろう。
こちらはパズルベースのプラットフォーマーということもあり、やはり体験の強度の高さから名作とされている。メインのプレイヤーが直接ダンスで表現するようなアクションはないけれども、今後、コンテンポラリーダンスとしての強度のあるゲームが出てくる可能性を考えた時、大きなヒントになる一作と思う。
こうして振り返ってみると、むしろ2000年代後半のSIEがデモシーンのクリエイターに、普通のルールが搭載されていないビデオゲームを作ってもらうということ自体が異質だった。
今回のテキストみたいな観点だと、さまざまな偶然によって、ほとんどのクリエイターが着手していなかった(そして今も着手されない)クリエイティブが存在していたのかもしれないな、とあらためて思う。
これらのゲームには、通常の戦いや挑戦をクリアするようなわかりやすいアクションではないアクションで、どれだけ物語や世界を表現できるのかという可能性が存在しているのである。
葛西祝
令和ビデオゲーム・グラウンドゼロ主催。
「ジャンル複合ライティング」というスタンスで、ビデオゲームを中核に映画や現代美術、文学、あるいはスポーツや格闘技なども越境するテキストを作り続けている。
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