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「でも……」いまなら言えそうな気もした。




 公衆便所みたいな家にひとり、僕だけが取り残された。
 十七歳にもなって、なにを甘えたことを言っているのだと思う。頭ではわかっているけど、長年の、姉さんとの生活で染みついた感覚に、僕は最近、苦しんでいた。
 米粒ひとつも残っていない台所で、姉さんと腹の虫を鳴かせながら、お母さんの帰りをひたすら待っていた幼少期から、ずっと、僕は姉さんに寄生している。
 どんなときも、五歳年上のたったひとりの姉さんにくっついて、生きてきた。姉さんのおかげで、体も大きくなって、いまでは姉さんよりも背が高くなった。成長すると同時に、僕と姉さんは、大人の遊びも覚えた。それは米粒ひとつない台所で、空腹を紛らせるため、二人でよくやった、しりとりや、ずいずいずっころばしのように、飢餓感をごまかす遊戯にも似ていた。
 うちの家の周辺は、まだ道路が舗装されておらず、土の道だ。
 いまでは土の道に入った途端、姉さんの足音が聞こえるようになった。お母さんの足音はいまだにわからないのに、姉さんの足音は、土の道に入った最初の一歩目から、僕の耳は聞きわけられるのだ。
 あ……よかった。
 いつの間にか、うつぶせで、姉さんの枕に顔を突っ伏していた僕は、枕元の目覚まし時計を見た。午後十一時半を回っていた。
 足音が、どんどん近づいてくる。どうしようか迷ったけど、僕はそのまま姉さんの枕に顔を埋めることにした。
 ぎぃ、立て付けの悪い玄関のドアが開く音のあと、ただいま~と、歌うような声がした。
 あれ、寝てるん? 不思議そうに独り言をいって、土間の台所の洗い場で手を洗い始めた。それから、こっちに来るのかと思ったら、今度はトイレのドアを開ける音がした。
 狭い家では、オシッコの音も聞こえる。同じ屋根の下に住んでいるから、互いの排泄音など気にしなくなっていたが、今夜は聞き入ってしまった。だいぶ我慢していたのか、オシッコの音が長かった。ようやくトイレの水を流す音がして、ふたたび、土間の台所から蛇口をひねる音。どうせならオシッコをしたあとに、まとめて洗えばいいのに。つい起き上がって言いそうになったが、こらえた。
 姉さんが帰ってきて、飛び跳ねたいほど嬉しいのに、十七歳の僕はまだ拗ねていた。
「はる……寝てるん?」
 声が近くなった。布団の足元が少し沈んだ。姉さんがそこに立っているのだ。姉さんから見れば、電気をつけっぱなしで、うつぶせに倒れている弟は寝ているのか、起きているのか、よくわからないのだろう。
「ねえ、そこ、お姉ちゃんの布団なんやけど……」
 無視だ、無視。あんな意地悪なことをされたのだ、口なんかきいてやるものか。
「もう……」
 呆れたように呟いたあと、蛍光灯の紐を引っ張る音がした。あれ? 姉さんも寝るのか。寝る前は歯磨きをして、パジャマに着替えるのが習慣なのに、それらの音はしなかった。その代わり、姉さんの匂いが急に強くなった。
 隣の、本来は僕の布団に、姉さんが横たわってきた。
「はる」
 こちらに体を向けているみたいで、僕の耳に息がふきかかった。
 にわかにお酒くさかった。
 あの男とお酒を飲んでいたのだとわかり、僕はますます面白くないとばかりに拗ねた。完全に狸寝入りを決め込み、本当にこのまま寝てやろうかと思った。実際、姉さんが傍にいるとわかっていれば、眠ることもできそうだった。だけど「ねえ、はる」今夜の姉さんはしつこい。ねえー、ねえー、ついには肩まで揺すり始めた。
 こうなるともう、僕は姉さんに勝てない。
「……なんだよ」
 一応、寝ていたふりをして、面倒くさそうに目を開けた。だけど、姉さんのほうを向くことはまだできなかった。姉さんは、あ、起きた、と嬉しそうに声を張り上げたあと、
「さっきは、ごめんな」
 一気にトーンを落として、謝ってきた。
「なにが?」
 姉さんの枕に片頬をくっつけながら、ぷいっと逆方向を見ながら言った。
「なにって。せっかく迎えに来てくれたのに、店長と話があったから、ちょっと冷たい態度、とってしもうたやろ、うち……」
「別にかまへん。全然、気にしてへんし。それに、迎えに行ったわけでもないし」
「……そう?」
「いちいち謝らなくてええわ。俺、そんなに器の小さいヤツと違うねん」
「そっか。ごめん」
「まあ、ええわ。で、なんやねん、いったい?」
「ん? なにが、なんやねん?」
「だから……大事な話って、なんやってん?」
 そっぽ向いた先には、大量の、文庫本が積み重なっていた。本好きの姉さんが、古本屋でせっせと買い集めたものだ。
「あ~、それな。ねえ、聞いて。お姉ちゃん、実はな……」
 嬉しそうな声で、もったいぶった言い方をしてきたので、僕は少し恐怖した。店長さんと付き合うことになってん、そんなことを言われそうな気がした。



「え? なに?」
「なんやと思う?」
「知らん!」
「ふふ、お姉ちゃん、ちょっと出世してん」
「……は?」
「これからはお店のディスプレイとか、商品の仕入れとか、新商品を紹介する文章とかも書かせてもらうことになったんやで」
 まくしたてながら、姉さんが、僕の体にじゃれついてきた。
「……偉くなったん?」
 それでも僕はまだ心を許せないでいた。
「そう。少しやけど、お給料も上がるで。アパート借りる計画も、はるが高校に行く計画も、これでだいぶ進むで」
「……あの店長とは、その話をしていたん?」
「そうやで。せっかくいい話を振ってもらっていたから、なるべく早く返事をしたくて」
 ふーん、興味のない振りをしながら、僕はようやく姉さんのほうに向き直った。
 姉さんは僕の枕に片頬をくっつけて、じっとこっちを見て微笑んでいた。
「そういや、はる、ご飯食べた? お姉ちゃん、悪いけど柏木さん、あの店長と食べてきたんやわ。お腹空いていたら、何か作るで」
「食べてへん……でも、大丈夫」
「ほんまに? でも、あかんやろ、なんか作るわ」
「いらんって!」
 つい声を張り上げてしまったのは、心配させやがって、という怒りがあったからだ。
「そんなに怒らなくてええやん。あ、あれやろ……あんた」
 にぃと、白い歯を見せて、いつもの意地悪な顔になっていた。
「なに?」
「拗ねているんやろ」
「なにに?」
「ん~? 言っていいの? お姉ちゃんが、店長とご飯食べてきたから」
「違うわ! 別に姉さんが誰とご飯食べようと知ったことやない。あと、これからもかまへんで。仕事場の人と、ご飯食べにいっても……俺、ひとりでも大丈夫やから」
「ほんまに?」
「ほんまや」
「じゃあ、お姉ちゃんが、あの柏木さんに告白されたって言うたら?」
 やっぱり姉さんのほうを向かなければよかった。自分でもわかるほど、頬がひくつき、唇が震えた。全部、姉さんに見られてしまった。
「嘘やって。そんなことあるわけないやろ」
 なにがそんなに面白いのか、姉さんは目が見えなくなるほどの垂れ目で笑った。こんなにも笑っている姉さんを見たのは、久しぶりで、一瞬見とれてしまったが、
「くだらない」
 僕はふたたびそっぽ向いて、山積みの古本を見た。
 その途端、背中に柔らかいものがまとわりついてきた。
 姉さんが後ろからくっついてきた。
「ごめんって。冗談やから、許して」
 僕の背中にぴったりと寄り添い、媚びるように囁く。お酒を飲んでいるせいか、ワンピース越しに感じる、姉さんの乳房の体温が高かった。
「……でも」
 いまなら言えそうな気もした。


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