成瀬怜哲学【幸福とは】

人は生まれた瞬間から幸せを追い求める。
生まれてくる理由も死ぬ理由もない。
ただ、生きている限りは幸せを求める。 - 成瀬怜

一般的に苦しいことがあっても、「でもその分楽しいことがいっぱいあったよね、乗り越えてきてよかった、昔のおかげで今がある」などと考えることが多い。

人生が困難だらけでも、幸せな瞬間のために生きていると人は言う。

だが私はどんなに楽しいと分類されるような経験をしたとしても自分の中に満足できない点が共存する限りそれは有効ではない。

人生がいわゆる幸せだらけでも、心の深層に継続的な幸福への疑いが存在すれば全てが虚偽。


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この状態に陥ったのはこのような考えに至ったためだ。向上心の高い者は共感してくれるだろう。

『人生は走馬灯。起きる前から決まっていて起きる前から終了している』

ある程度人生がどういうものか分かってくると、それが到達点のないものだと悟る。生涯学習を前提に、自分の(興味こそあるが)疎い分野に突っ込んでいっては高みを目指し、たくさんの目標を経てては達成するも、さらなる高みを観測し挫折するサイクルに入る。

例え具体的に自分が将来何をするかを知らなくとも、そこには強敵が沢山いて、どう足掻いてもたどり着く事のできない、その分野の神のような存在がいる事に気づいてしまう。

このような圧倒的存在への挫折は通常子供の時にあり、それをきっかけに、「まあ、僕はそこまで目指さなくていいや。自分のペースでできることから頑張ってみよう。」と、「凡人」に落ち着いていくが、性格上それができないと分かっている人は一生気の休む事のない戦場のような場所で戦って行かねばならないと考え絶望する。

そのような観点から、人生は既に終了しているのに敢えてまた同じことを繰り返さなければならない。苦痛も快楽も経験し直す必要性があることに憂いているのだ。跡をつけては波に消される広大な砂浜のように、努力は無かったことになる。振り返った時にはもう存在しない微々たるもの。

終わりがないのだ。報われないのだ。これが不幸以外の何なのだ。

終わりのない戦い、というのは聞こえはいいが、戦っている本人からしてみてば苦痛以外の何者でもない。


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そもそも人は疲れを感じやすい。疲れるから何事にも終わりがあるし、自ら終わる時間さえ設定しまくる。

「そんな事ないよ?楽しい時間はずっと過ごしていたいよー。」と反論するものもいるだろう。だが考えてみて欲しい。中高生時代の運動部では、どんなにスポーツが好きでも練習が長引くと辛くなり、最後の方は常に休憩時間を待望している。仲良しメンツで集まっても、話が尽きて座っているのも疲れてくると、「もう帰っちゃうのー?寂しいよー。」など言いつつ、やっとの解散に安堵する。

人生は果てしなく長いものに見えるが、こうして、細かな区切り目や休憩時間が会って初めて人間はその身に余る果てしない時間を生きることができるのだ。大抵の人間は人生の長さを過度に意識しないので「人生に対する」疲れは感じないようになっているのだ。


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つまり幸福とは、「ニンゲン」として生きる上での共通の前提として認められている「時間が直線的概念で、直進しかしないこと」が卓上の議論はもちろん、日常的な自然な感覚としての把握がスムーズに行なわれていることだ。

私は受験期とその後しばらく、朝の3、4時まで「明日」を恐れて眠れない夜が数年続いた。本来夜が来たら、余程重大な試験や予定がない限り次の日を過度に意識しないが、人生が連続的であると考え始めると、「明日が来て欲しくない。ここで私が寝なければこの数時間は人生の休み時間となる。時間に気に留めず作業に集中すればするほど終わりのない苦痛がある。」と考えてしまう。

作業というのは終えてみれば何でもないことだ。始めるハードルが高いだけで、一回始めてしまうと気づけば数時間立っていたなんていうことがザラだ。しかし、「どんな作業も無意識的に人は終わりを待ち望む。つまり苦痛が伴う」と認識してしまうとあらゆる行為に恐怖心が芽生える。

そうやって現実逃避をし、結果的に作業開始のハードルの低い、充実感や進展のない行為ばかりやってしまい、ハードルの高いものへの挑戦が遠のき耐性がなくなる。

またもや考えすぎなのである。

作業は何も考えずに初めてしまえ。


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