それでも私は生きていく(ミア・ハンセン・ラブ監督)
主演のレア・セドゥを目当てに。
監督自身、実体験をもとに作る方らしいのだけど、まさにフィルムをここからここまで、と切り取ったかのような、人生そのものを観ている気持ちになった。
夫を亡くしたシングルマザー、新たな恋、親の介護、等々、母として、女として、娘として。
悲喜交々日々の波を乗りこなしている姿は共感しかない。
何より、派手さも化粧っけも無く生活に追われる姿を、普通に、だけどチャーミングに演じるレア・セドゥを改めて好きになってしまう。
彼女の素晴らしさが一層心に染み入る作品であった。
立ち姿ひとつ、視線ひとつに物語が立ち現れるその在り方に目が離せない。
気づけばラストシーンで観ているわたしの方も、ほうっと安心してしまう。
思えばここ最近、没入して作品を観ていなかった気がする。
というよりは、感情移入するということが少なくなったような。
もちろん映画体験を通して感情を揺さぶられたり打たれたりしているわけだけど、どこかで一歩引いているような自分もいる。
そりゃ、体力も状況も、色んな意味で若い時とは違う。
今思えば、あの時は演じることはもちろん、観ることだって120%没入していたし、後先考えないことの方が多くて、生活だって今より混沌としていた。
側から見れば今だって別に大して変わらないのかもしれないけれど、でもやっぱり、なにか違う。
生きるということへの取り組み方も違うし、世界には自分だけではない、と確かに感じてもいる。
きっとレア・セドゥ演じる主人公サンドラもそうなのだろう。
娘のこと、父のこと。
かつては自分だけで生きればよかったところから、結婚して子どもが生まれ、親が老いていく。
そうなると自分だけではない誰かの人生と寄り添いながら恋をしたり仕事をしたりする。
でもだからこそ、自分が少女であったことやかつてのように夢を見ること、それから自分という人間の輪郭など、日常に塗れてなかなか見えなくなっていたことを思い出していくことができるのだと思う。
人というのは、案外自分そのもの以外のところで形作られているのかもしれない。
パスカル・グレゴリー演じるサンドラの父、ゲオルクは病にかかり記憶も薄れていっているが、哲学教師であった父の姿をサンドラは「本棚」の中に見出したという。
本のラインナップを見ている方が父らしい、と。
誰かやモノとの関係性、記憶、思い出。
人を形作るものがその人の身体を離れても尚その人物を表すのだとしたら、
自分が自分を忘れそうになっても、誰かと過ごした日々や、そばに居たモノ、記した言葉などが自分をこの世界に残して居てくれるのかもしれない。
みんなそうだと思うが、生きていれば色々あるし、日々穏やかなだけじゃなく大変な思いもするし、もう嫌だと、死にたいと、思うこともあるだろう。
ただ今思うことは、何があっても、誰といてもいなくても、わたしは、自分から死ぬことはないということ。
もちろん疲れることもあるし泣き言が言いたくなるときもある。
でも、それでも、私は生きていく、と、やっと今なら言えるのかもしれない。
この作品のエンドロールの後ろ姿のように、希望を背負えてるかはわからないけど、でもそれでも、わたしも生きていこう、そう思った。
この記事が参加している募集
サポートありがとうございます!励みになります❤️🔥\\\\٩( 'ω' )و ////