大切さを知るということ
7月中旬からとあるキャンプ場で、9月公開予定のweb連続ショートドラマ『おやじキャンプ飯』の撮影に参加させてもらっていた。
一昨日クランクアップし、いま思うことを記したい。
この企画はあまりにも急ピッチで進んだものだった。
5月初旬、監督から「リモートドラマをやりたい」と持ちかけられ、会議を進めたがなかなかいい着地点が見つからなかった。
そんな中、監督が「いつかキャンプドラマをやりたい」と言ったことから、どんどん話は進み、本当に制作することになってしまった。
6月、主演に近藤芳正さんをむかえると聞いたときは身震いした。
反町隆史さん主演の『GTO』の中丸教頭や、『私は代行屋』の乾刑事が好きだったし、あらゆるドラマや映画で存在感を放つあの近藤さんが主演をしてくれるなんて、夢にも思っていなかった。
脚本会議もどんどん進み、短いページながらも脚本を2本書かせてもらった。
会議のメンバーともああでもない、こうでもないといいながら主人公やそのほかのゲストなどの細かい描写を詰めていった。
当初から私は撮影がはじまったら、現場で手伝わせてもらうつもりだった。
近藤さんやゲストに会いたいというのもあったが、自分が書いた脚本がどんなふうに作りあげられるのかこの目で見たかったからだ。
今までラジオドラマやVTRの台本など書いてきたが、現場に参加したのはほぼ初めて。
「現場行きたいです」と言えたのも、スタッフが知らないメンバーだらけではなかったからかもしれない。
案の定、クランクインは緊張した。
近藤さんに挨拶をするときもしどろもどろで、何を話したか覚えていない。
現場ではどういうふうに動いていいかわからないし、補佐の補佐をすることすらままならなかったと思う。
「よーいスタート!」の声がかかると、目の前で自分たちが考えてきたキャラクターたちが動く。
ひとつひとつの動きや息遣い、発する言葉があまりにも自然で、「そこに生きている」感覚に鳥肌が立った。
頭の中で描いてきた情景が立体的になる瞬間は、なによりも輝いていた。
不思議だったのが、「このキャラクターをもっとこうすればよかったかな」と思わなかったことだ。
それは役者さんたちが脚本に描かれていない行間を読み込み、スッと自分の中に役を入れ込み、「そこに生きている」感覚で演じてくれたからだと思う。
先輩脚本家たちが「自分が思っている以上に、魅力的に演じてくれる才能ある役者さんのおかげなんだ」と言っていたのを思い出した。
と、同時に脚本はあくまで設計図であり平面図で、そのキャラクターに命や息吹き、血や肉を付けてくれるのは役者さんであると、改めて感じたのだ。
そして、そのキャラクターが違和感なくひとつひとつのシーンに溶け込めるよう演出する監督さんや美術さん、照明さん、カメラマンさんなどがプロとしての仕事をしてくれるから、よりいっそうキャラクターたちが魅力的に映る。
私は"プロ”の現場を目の当たりにして、改めて脚本の大切さを知った。
スタッフさんたちは何度も私が書いた脚本を広げながら、キャラクターたちの立ち位置や動きを考えていた。
役者さんたちは私が書いたセリフを小声で練習したり、確認したりして本番に臨んでいた。
私が書いた脚本が現場でもこんなふうに使われていて、「ああ、やっぱり脚本は設計図なんだ」と感じた。その設計図に欠陥があってはいけない、とも思った。ひとつ欠陥があれば、たちまち崩れてしまう。
だから何度も改稿を重ねるのだが。
自分が何気なく書いたセリフやト書きが、こんなにも人を動かすのか…と。
昔、シナリオ・センターの恩師が、
「このト書きに書いてある『たくあん』は半月切りなの?丸型なの?」
と聞いてきたとき、「そんなのどっちでもよくない!?」と思った。
でも先生が言いたかったのは「現場のスタッフが困らないように、ト書きを細部まで考えなさい」だった。
あまり書きすぎてゴチャゴチャするのもよくないが、「きっとこのたくあんは半月切りだ」と用意したくなるような、わかりやすい且つ想像しやすい情景を描くのが脚本家の仕事だ、と思った。
別の先生はこう言っていた。
「あなたが書いたセリフひとつで、演じる役者が売れるかもしれない。そう思いながら書きなさい」
そのときの私はまだプロの脚本家になろうなんて思ってなくて、起承転結が学べばいいやくらいに思っていたから、「脚本家って大変!」と感じた。
でも今になってはお二方が言っていた意味がよくわかる。
脚本の大切さを学んだ撮影期間はあっという間に過ぎ、クランクアップをむかえた。
充足な日々だったからしばらくロスになりそうだが、切り替えながら次の作品に向かわないといけない。
そのときの作品はまた違ったものになるだろう。
学んだ日々が、私を成長させてくれたのだから。