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桃太郎の教育的価値


人生は物語。
どうも横山黎です。

今回は「卒業論文『芥川龍之介研究 『桃太郎』を中心に』の第4章『桃太郎の教育的価値』の原稿を共有する」というテーマで話していこうと思います。



📚桃太郎の教育的価値

敗戦をきっかけに教科書から姿を消した「桃太郎」だが、教科書に掲載されなくなったことと、教育的価値がなくなったことは同義ではない。繰り返しになるが、教科書から消えたのは戦争のプロパガンダとして利用され、軍国主義だった当時の日本を象徴する存在だったからである。「桃太郎」に教育的価値がなくなったというわけではない。これに関して滑川は次のようにいっている。

ながい間日本人に親しまれ、愛好されてきた国民童話の筆頭に位置を占めてきた桃太郎が、教科書から除外されなければならない根源的な理由はないはずである。民間交渉伝承説話の素朴な桃太郎を教材化する勇気をもっていいのではないか。

滑川道夫『桃太郎の変容』

 また、鳥越も政治的意図によって危険思想の桃太郎を登場させることに警鐘を鳴らしつつも、「民間伝承本来の「民衆の子」としての桃太郎ならば、もちろん教科書にのることも大いに賛成である。」とその教育的価値を認めている。

 したがって、第一章の最後に、戦後教科書に掲載されることがなくなった昔話「桃太郎」の教育的価値について論じていく。また、『羅生門』や『トロッコ』など、複数の芥川作品が教材として採用されているが、芥川『桃太郎』が教材利用されたことはない。教科書に掲載されたことのない芥川『桃太郎』の教育的価値についても併せて論じていく。

 文部科学省が公布する次期教育振興基本計画の概要によると、次期計画のコンセプトとして二つの軸が示されている。ひとつは「2040年以降の社会を見据えた持続可能な社会の創り手の育成」、もうひとつは「日本社会に根差したウェルビーイングの向上」である。

 前者のなかには、「将来の予測が困難な時代において、未来に向けて自らが社会の創り手となり、課題解決などを通じて、持続可能な社会を維持・発展させていく」や「Society5.0で活躍する、主体性、リーダーシップ、創造力、課題発見・解決能力、論理的思考力、表現力、チームワークなどを備えた人材の育成」という項目がある。「自ら」や「主体性」という言葉がみられるように、目の前の問題に主体的に取り組む姿勢、そして解決する力が求められている。

 『ふたりのももたろう』の鬼退治をする桃太郎は、鬼ヶ島に行くためにその旨をおじいさんとおばあさんに宣言し、鬼に打ち勝つための体力や技術の向上を目的に努力する。その結果、鬼に打ち勝つことができた。努力する過程を描かず生まれ持った強さを武器に鬼を倒しにいく桃太郎が描かれた従来の「桃太郎」とは異なる一面である。

 また、犬、猿、雉が家来として桃太郎についていくのではなく、自発的に鬼退治を希望する流れであることも注目に値する。主体的に行動する姿が描かれているのだ。その意図について考えるとき、先程紹介した教育計画と結び付けることは難くない。

 また、後者の「日本社会に根差したウェルビーイングの向上」のなかには、「多様な個人それぞれが幸せや生きがいを感じるとともに、地域や社会が幸せな豊かさを感じられるものとなるための教育の在り方」や「幸福感、学校や地域でのつながり、利他性、協調性、自己肯定感、自己実現等が含まれ、協調的要素と獲得的要素を調和的・一致的に育む」という項目がある。ダイバーシティという言葉が使われるようになってから時間が経ったが、これからの教育のスローガンとしても依然としてふさわしいことが分かる。ひとりひとり異なる思想、価値観、趣味嗜好を糾弾するでも、排斥するのでもなく、認め、受け入れ、手を取り合う姿が必要になってくるのだ。

 いうまでもなく、昨今の「桃太郎」の物語ではテーマとして「共生」「多様性」が掲げられている。犬、猿、雉は家来ではなく、上下関係のない仲間として描かれている。『ふたりのももたろう』の鬼の子の物語では、見た目や好みが違っても気にせずに、個性を尊重する桃太郎が描かれている。このような人物をヒーローとして描く意図は、繰り返すが、教育計画と結びつけて考えることができるのだ。

 以上のように、昨今出版されている「桃太郎」の物語は、現代教育が重んじる主体性や多様性の重要性を説いている。今後も「桃太郎」を題材にした絵本や書籍が出版されることも考えられるが、おそらく似たような、メッセージ性の物語が展開されることだろう。「桃太郎」の物語はシンプルで分かりやすい王道の物語だからこそ、その時代の目指すべき姿、英雄像を描きやすい。つまり、その時代の教育の目指すべき学習者の姿が描かれるということだ。

 戦争のプロパガンダとして利用された代償で、教科書から姿を消した「桃太郎」だが、物語のシンプルさ、親しみやすさ、認知度、どの要素を取っても、教材としての価値が高いと考える。幼児教育、あるいは小学校における道徳教育で使う教材として十分に学習効果を発揮できるだろう。

 教育的効果を望めるのは、中等国語教育においても例外ではない。各時代の「桃太郎」の文章を資料教材として提示することで、古典に対する興味を膨らませ、研究内容を発表する場をつくれば「話す力・聞く力」を伸ばす国語の授業を展開することができる。また、古典の変遷を扱うことは、高校国語の古典の内容のひとつであるため古典の授業で取り扱う必然性があり、日本の歴史を背景に変遷を辿るため、教科横断型の授業を展開することも可能なのだ。自国文化理解にもつながるので、総合的な学習にも応用が利くだろう。

 教材としての価値が高いのは、昔話「桃太郎」だけではなく、芥川『桃太郎』も例外ではない。

 教科書に掲載される芥川作品といえば『羅生門』、『鼻』、『トロッコ』などが挙げられる。特に『羅生門』は高校国語の定番教材であり、今の高校生が必ず学習する教材のひとつだ。物語の読解に加え、『羅生門』の原典のひとつされる『今昔物語集』収録の「羅城門登上層見死人盗人語第十八」や「太刀帯陣売魚姫語第三十一」との比較などを行う授業が多い。

 言うまでもないが、芥川『桃太郎』も当時からすべての日本人の身近にあった昔話「桃太郎」を原典としており、作品比較を行うことで、クリティカルシンキングを養う授業を展開できるのではないか。また、芥川『桃太郎』は単純に昔話「桃太郎」を題材に善悪を反転させて読者への驚きを与えるだけの作品でもなければ、侵略者桃太郎の残忍さ、平和愛好者の鬼が復讐を企て争いが収束しない戦争の摂理と虚しさを描くだけの作品でもない。第六節に何度も登場する「天才」という言葉に注目し、物語の解釈を改めることを狙える。これに関しては第二章、第三章に渡って詳しく論じていく。

 芥川『桃太郎』には、「猿は親類同士の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣にした」という教育上ふさわしくない表現があるため、公の教科書に教材として載せることに抵抗があるかもしれない。しかし、『羅生門』でも老婆の着物を剥ぎとり、手荒く蹴倒す下人が描かれる。広義の意味では、下人の行為も「凌辱」といえるのではないか。本文中の表現を理由に、芥川『桃太郎』が教科書に掲載されない筋合いはない。



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