【教育論】生徒が授業をする授業をやるべき
――主要教科を扱う授業だけじゃなくて、学習者自身の知的好奇心を膨らませる授業が1コマでもあっていいと思うのです。長い目でみたら、人生に必要な力を獲得できるのは後者ですから。
人生は物語。
どうも横山黎です。
今回は「生徒が授業をする授業をやるべき」というテーマで話していこうと思います。
📚飲み屋で盛り上がった教育論
僕は普段創作に関する記事を投稿しているんですが、教育学部の大学生でもあるので、たまに僕なりに教育論を語っています。
久しぶりに教育について語りますね。
というのも、昨日、同じ学科の子と呑んできて、そのときに教育の話になったんです。いろいろ語り合って、やっぱりこれやった方がいいよね、と再認識できたことがあるので、それについて今日は記事にしていこうと思います。
ちなみに、昨日呑んだ子と会話することがめっちゃ好きなんですよ。お互いエピソードを持ち寄って、それを抽象化して結論付けていくので、やがてテーマがぼんやり浮かんでくるんですよね。
走り出したときはゴールが見えていないんですが、併走しているうちに目指すべき場所が分かってくるんです。「あ、今日はこんな場所に来れたんだ」と、テープを切る瞬間の満足度といったらたまりません。
以前にも、その子との会話の題材にした記事を書いたことがあるので、是非のぞいてみてください。
そんなこんなで本題に入りますね。今回は「生徒が授業をする授業があってもいいよね」って話です。
📚生徒が授業をする授業
僕は経験上、アウトプットすることが最大の勉強法だと考えています。アウトプットするためにはインプットしなければいけないし、そもそもアウトプットはインプットを伴う行為なので、知識の定着が確実に確かめられるんですよね。
たとえば、僕は一年くらい前に『桃太郎』にはまって、その歴史をめちゃくちゃ調べていたんですよ。桃太郎に関する本や論文を読み漁っていたんです。で、調べたこと、思ったことを、毎日記事にして、noteで公開していたんです。
そんなことを1カ月くらい続けていたから、めちゃくちゃ桃太郎について詳しくなれたし、知識が定着したんですよね。それは、毎日アウトプットしていたからだといえます。
吸収したものを自分の言葉で再現できるかどうか、それが知識の定着を意味するわけですから、アウトプットしてみなければ、自分は本当にインプットしたことを理解しているのか、どれくらい定着しているのか、分からないんですよね。
言語化してみて行き詰ったら、もう一度調べてみる。インプットとアウトプットの繰り返しこそが勉強といえるのではないでしょうか。
しかし、学校教育に目を向けるとどうでしょう。学習する場所といいつつも、学習者は本当に学習しているのでしょうか。
従来の授業って、先生が教えたいことを教える、講義型じゃないですか。少しずつその数は減ってきてはいると思いますが、未だにそういう形態の授業は蔓延っています。
講義型の授業で学習しているのは誰でしょう? 言い換えれば、インプット、アウトプットを繰り返しているのは誰でしょう? 生徒、ではありません。教師です。そうです。講義型の授業で1番学習しているのは、教師なのです。教師がインプットしたものをアウトプットしている。それが講義型の授業です。学習者はインプットしているだけなのです。
従来の授業で生徒がアウトプットする瞬間は、宿題とか小テストとか試験。しかし、その取り組み具合って人によって異なるし、「とりあえずやっておけばいい」「赤点を取らなければいい」という知的好奇心からは遠い動機で向き合うのがオチじゃないですか。
で、結局「分からない」「点数取れない」→「やりたくない」「勉強はつまらない」という流れに陥ってしまうわけです。
本来、勉強する、学ぶという行為は、知的好奇心に依るものであってやりたいことのはずなんですよね。知らないことを知るって楽しいことだし、必要なこと。しかし、多くの学校で展開される授業は、それとは程遠いものに思えてならないのです。
これまでの話をまとめると、
学ぶ
=インプット+アウトプット
=知的好奇心からくるもの
という等式が成り立つわけです。で、これを一気に叶える方法が「生徒が授業をする」だと思うのです。
📚授業をするという最大の勉強法
講義型の授業で1番学習しているのが講義をする人なんだから、生徒が講義をする立場になればいいのです。
授業をするとなると、やっぱりちゃんとしなきゃ、準備しなきゃと思うわけじゃないですか。だから、自ずとインプットの量が増えてきます。本番を想定して、教壇に立って練習する人もいるでしょう。準備の段階でアウトプットもすることになるのです。
実は僕も高校時代にそういう授業があったんですよね。高2のときの数学の授業です。大学入試の過去問を1題ごとに生徒に割り振って、担当の生徒がその問題の解き方を授業していくというもの。
授業をしなきゃいけないから、まず答えが分からないでは済まされないので、友達に訊いたりして、とにかく答えを出すことになります。その後、どのように板書すればいいのか、もっときれいな解法はないのか、いろいろ考えるわけですよね。で、いざ本番を迎えて、授業を終えた後、先生や別の友達から指摘を受けるんです。ここは正確にはこうだよね、ここもう少し整理できたらよかったよね、みたいに。
この授業スタイルのおかげで、1問1問をより深く理解することにつながったのです。
しかし、この場合、「知的好奇心からくるもの」という要素が失われつつあります。数学の問題を割り振られた時点で、強制力が働いているわけですから、主体的とはいえません。
ですから、授業の題材も全部、生徒自身に決めてもらうようにすればいいと考えます。とにかく何でもいい。自分の興味のあることをとことん調べて、みんなの前で授業をする。そういう場所をつくるべきだと思うのです。
一年前の僕が桃太郎に興味を持ってとことん調べたみたいに、そのとき自分が興味あることに熱中すればいいのです。好きな漫画でもアニメでもいいし、あまり知られていないような国でもいい。そういえば、以前、生徒が先生の前でポケモンの授業をするYouTubeの動画を観たことがあります。それでいいんです。
学校で本当に教えなきゃいけないのは、受験で打ち勝つ姑息なスキルではなく、古典文法でも三角関数でもなく、生きていくために必要な、自分の生活をより豊かにするために必要な知識の獲得方法です。
主要教科を扱う授業だけじゃなくて、学習者自身の知的好奇心を膨らませる授業が1コマでもあっていいと思うのです。長い目でみたら、人生に必要な力を獲得できるのは後者ですから。
長くなりましたが、話をまとめると、「生徒が興味を持ったことについてとことん調べて、それをみんなの前で授業する授業をつくるべき」という結論になりますね。
将来教壇に立つかどうか分かりませんが、将来子どもに教育するときはアウトプットすること、知的好奇心を刺激することを忘れずに向き合おうと思います。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
20230112 横山黎