ラル

はじめて降り立ったシドニーは、やわらかい霧雨にけむっていた。

冬のはじまりを迎えたシドニー。

タクシーに揺られながら、空港から市街地へ向かう。


 シドニーは不思議な街だ。オリエンタルとヨーロピアンの混在。うまく調和しあって、溶け込みあって、独特の雰囲気を作り出している。

車窓にうつる景色には、どういうわけか叶がいた。日本においてきてしまった叶。もう二度と会わないと誓った叶。わたしを深く深く傷つけ、ぼろきれみたいに扱える叶。

叶のすらりと伸びた脚が好きだった。ものを考えるときの深すぎる眼が好きだった。繊細で自分勝手だったけれど、叶はわたしにとって優しすぎる男だった。

叶とのいちばんの思い出は、猫の名前を一緒に考えたことだ。実際に猫はいないし、飼う予定もほとんどなかったけれど、名前だけ考えた。

叶は「ラルにしよう」と言った。

わたしが理由を尋ねると、叶は『ラルフへ』という小説が好きだからだ、とこたえた。

ラル。この世にいないラル。ラルという名前が特段気に入ったわけでも、もう飼うときめた猫が存在しているわけでもないのに、わたしはたまらずその名前が好きになった。叶が考えた名前。わたしと叶の猫の名前。

結局、猫はやっぱり飼えなかった。

ラルには、もう会えない。

わたしはシドニーに来た。これからここで、新しい人生を始める。ラルも叶も心の中にしまったままで。



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