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建武の新政の失敗の原因は、多岐にわたりますが、主な理由としては、後醍醐天皇の理想と現実との乖離、土地政策の失敗、武士と公家の間の不和、そして足利尊氏との対立が挙げられます。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒した後、天皇中心の政治を復活させることを目指しました。この政治体制は「建武の新政」と呼ばれ、1334年から1336年まで続きました。後醍醐天皇は、古代の理想的な天皇親政を復活させようとしましたが、その理想は当時の政治状況とは合致していませんでした。特に、武士たちが政治の主要な役割を担っていた時代背景とは大きく異なり、天皇が直接政治を行うという考え方は受け入れられませんでした。

また、建武の新政のもとで行われた土地政策は、武士や農民の土地を保証することに失敗しました。土地は当時の日本において最も重要な財産であり、その保証がなければ、武士や農民は不安定な状態に置かれました。逆に、足利尊氏は武士たちに対して土地を保証し、多くの支持を集めることに成功しました。

さらに、後醍醐天皇の政策は、公家と武士の間の不和を引き起こしました。公家からの国司と武士からの守護を各地域に配置し、公家と武家のバランスを取ろうとしましたが、これが逆に混乱を招きました。

最終的に、後醍醐天皇と足利尊氏との間の対立が激化し、足利尊氏が光厳上皇から院宣を得て、1336年に室町幕府を開いたことで、建武の新政は終焉を迎えました。この結果、日本は南北朝時代に突入し、長期にわたる抗争の時代が始まりました。

建武の新政の失敗は、後醍醐天皇の理想と現実とのギャップ、土地政策の不備、公家と武士の間の不協和音、そして足利尊氏との政治的対立によるものであると言えるでしょう。これらの要因が複合的に作用し、わずか3年で新政は崩壊しました。この歴史的な出来事は、理想と現実のバランスを取ることの重要性を教えてくれます。

足利尊氏は、日本の歴史において重要な役割を果たした人物です。彼は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍し、室町幕府の初代征夷大将軍として知られています。足利尊氏は、鎌倉幕府の滅亡とその後の政治体制の変革に大きく関わり、日本の歴史の流れを変えたと言えるでしょう。

足利尊氏は1305年に生まれ、若くして武士としての道を歩み始めました。彼は当初、鎌倉幕府に仕え、幕府の命に従って後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧する役割を担いました。しかし、後醍醐天皇の理念に共感し、やがて幕府に対して反旗を翻すことになります。この決断は、鎌倉幕府の崩壊と新しい時代の幕開けをもたらしました。

尊氏はその後、建武の新政においても重要な地位を占めましたが、後醍醐天皇との間に生じた対立は、やがて建武の乱へと発展します。尊氏はこの内乱を制し、1338年に室町幕府を開いて征夷大将軍に就任しました。彼の政治的手腕は、日本の武家政治の新たな時代を築く基盤となりました。

足利尊氏はまた、文化人としても知られており、歌人としても活動していました。彼の執奏により、『新千載和歌集』が編纂されるなど、文化面でも影響力を持っていました。さらに、彼は天龍寺の建立を行うなど、宗教面でも貢献をしています。

しかし、尊氏の時代は内乱にも見舞われました。観応の擾乱と呼ばれる内部分裂は、尊氏の政治的な挑戦の一つであり、この乱を通じて尊氏は自らの政権を安定させることに成功しました。尊氏の死後、室町幕府は約240年間続く長い歴史を持つことになります。

足利尊氏の生涯は、権力の掌握と文化的な業績によって、日本の中世史において非常に重要な位置を占めています。彼の決断と行動は、日本の政治体制だけでなく、文化や宗教にも大きな影響を与えたのです。


後醍醐天皇が「建武」という元号を選定した理由

後醍醐天皇による「建武」の元号選定は、日本史上重要な転換点の一つです。1333年、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、新しい時代の始まりを象徴するために「建武」という元号を選びました。この元号は、中国の後漢の光武帝が使用した「建武」に由来しており、政治的な独立と自立を意味するものでした。

光武帝劉秀が、愚かな皇帝 新の王莽を打倒するための「建武(けんぶ)」
▶︎成功

後醍醐天皇が、愚かな得宗 鎌倉幕府の北条一族を打倒するための「建武(けんむ)」
▶︎失敗

「建武」の選定は、天皇が中心となって政治を行うという理念、「建武の新政」の開始を告げるものであり、武士から政治の実権を取り戻すという強い意志の表れでもありました。しかし、この新政は多くの理不尽な政策を乱発し、人々の支持を得られず、約3年間で失敗に終わりました。

後醍醐天皇の政策があまりにも理不尽すぎたため、人々の支持を得られず、建武の新政は短い期間で失敗に終わりました。政治の実権を武士から天皇の元へ取り戻そうとした後醍醐天皇の試みは、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。

「二条川原の落書」とは、1334年に建武政権の政庁近くの二条河原で掲げられたとされる風刺文です。この文書は、当時の政治や社会の混乱を風刺した88節からなる七五調の文書であり、専門家の間でも高い評価を受けています。作者は不明ですが、漢詩や和歌に精通した教養人によるものと推測されています。この落書は、建武政権への批判だけでなく、混乱期の中で右往左往する武士や民衆、彼らが創り出した新たな文化や風習までも批判しており、そのリズミカルな七五調と内容のタイムリーさが、今なお多くの人々に読まれ続けています。

本文

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀にせ綸旨
召人 早馬 虚騒動そらさわぎ
生頸 還俗 自由まま出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍そらいくさ
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛ほそつづら
追従ついしょう 讒人ざんにん 禅律僧 下克上スル成出者なりづもの

器用ノ堪否かんぷ沙汰モナク モルル人ナキ決断所
キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ持テ 内裏マシワリ珍シヤ
賢者カホナル伝奏ハ 我モ/\トミユレトモ
巧ナリケル詐いつわりハ ヲロカナルニヤヲトルラム

為中美物いなかびぶつ ニアキミチテ マナ板烏帽子ユカメツヽ 気色メキタル京侍
タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好いろごのみ イクソハクソヤ数不知しれず 内裏ヲカミト名付タル
人ノ妻鞆めどもノウカレメハ ヨソノミル目モ心地アシ
尾羽ヲレユカムヱセ小鷹 手コトニ誰モスヱタレト 鳥トル事ハ更ニナシ
作ノオホ刀 太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サカリニソ指ホラス

ハサラ扇五骨 ヒロコシヤセ馬薄小袖
日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕
下衆上臈ノキハモナク 大口おおぐちニキル美精好びせいごう

直垂猶不捨すてず 弓モ引ヱヌ犬追物
落馬矢数ニマサリタリ 誰ヲ師匠トナケレトモ
遍あまねくハヤル小笠懸 事新キ風情也

京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌
在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ
譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也

田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ 田楽ハナヲハヤル也
茶香十炷ちゃこうじっしゅノ寄合モ 鎌倉釣ニ有鹿ト 都ハイトヽ倍増ス

町コトニ立篝屋かがりやハ 荒涼五間板三枚
幕引マワス役所鞆 其数シラス満々リ
諸人ノ敷地不定 半作ノ家是多シ
去年火災ノ空地共 クソ福ニコソナリニケレ
適たまたまノコル家々ハ 点定セラレテ置去ヌ

非職ノ兵仗ハヤリツヽ 路次ノ礼儀辻々ハナシ
花山桃林サヒシクテ 牛馬華洛ニ遍満ス
四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル
朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ 夕ニ賞アル功臣ハ 左右ニオヨハヌ事ソカシ
サセル忠功ナケレトモ 過分ノ昇進スルモアリ 定テ損ソアルラント 仰テ信ヲトルハカリ

天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマ/\ノ 事ヲミキクゾ不思議ナル
京童ノ口スサミ 十分ノ一ヲモラスナリ

現代語訳

最近都で見る物を、思いつくままあげてみる。

人の寝込みを襲う者。刃物かざして脅しつけ、有り金身ぐるみ奪う者。帝の偽の命令書。緊急招集よくかかり、使いの馬もバタバタと。しらけた喧嘩はそこここで。生首見慣れたものになり。昨日の僧がもう俗人、今日の俗人明日の僧。出家もヘチマもありゃしない。

急に羽振りがよくなる奴。落ちぶれ路頭に迷う奴。所領の保証やご褒美の、ために戦功でっち上げ。訴訟で所領を取り戻す、そのため出てくる田舎者。小箱に入れた権利証、持っているからすぐわかる。

おべんちゃらやら悪口の、才能だけはある奴や、コネを持ってる禅・律僧、ぽっと出てきた馬の骨。能力なんかは確かめず、こいつらみんなお役人。着たこともない正装で、持ったこともない笏を手に、御所に並んでいるサマは、似合わない上に場違いだ。

皆もっともな顔をして、帝に意見を申すけど、得意で語る嘘八百、その下手なこと下手なこと。

名品珍品取り集め、烏帽子を曲げてかぶってる、今流行のスタイルで、下心なんか見え見えの、お上りさんのお侍。夕暮れどきになったなら、浮かれて歩く狒狒親爺。その数のまあ多いこと。


彼らがこんなになれたのも、帝格別のお引き立て。それゆえこれらの伊達者は、「内裏拝み」と呼ばれてる。今をときめく執事殿、人の妻にも懸想して、地に足さえもつかぬよう、傍で見るにも見苦しい。

毛並みの悪い鷹モドキ、誰も彼もが手に入れて、手に止まらせて得意顔。鷹は狩りには使われず、格好だけの役立たず。

格好だけというならば、これも最近目立つもの。鉛作りの大刀。人も切れない代物を、太刀より大きくこしらえて、得意顔してさしてるが、あの釣り合いの悪いこと。

はやりの派手な扇には、今までにない五ツ骨。大きな輿に乗る方も、痩せぎすの駄馬に乗る人も、上着は流行りの薄小袖。日々の食料買うために、古い鎧は質に入れ、武士は馬にも乗らないで、内裏行くのに駕籠で行く。


身分上下の区別なく、大口袴が大流行り、生地は精好の高級品。
鎧兜は捨てないが、弓も引けなくなっていて、犬追物をしてみれば、落馬の回数多すぎて、矢を射る数を超す始末。

誰に師事するわけでなく、笠懸辺りで大流行、皆自己流で形だけ。
誰か新たに一流派、興すわけではないけれど、京・鎌倉のやり方を、あれもこれもと取り合わせ、調和とれないエセ連歌。そこここで開く連歌会、採点基準もあやしくて、誰も彼でも審査員。

旧家新興の区別なく、なんでもありのこの世界。
闘犬とともに田楽は、それに耽った鎌倉の、最後の得宗高時が、身上つぶした元凶と、皆が知ってはいるけれど、田楽は今も大流行り。きき茶・きき香の催しも、鎌倉なみに大流行。

ここしばらくで急激に、都は大きくなってきた。各町ごとに建てられた、武士の詰め所は間にあわせ。五間・三間板ばりで、突貫工事の安普請。急場づくりのお役所は、武士の陣屋のやり方で、幕で囲ってあるばかり。


これらの建物次々と、至る所に建てられて、今では数え切れぬほど。その一方で人々は、住むところさえ定まらず。造りかけの家数多い。去年の火災で焼け落ちて、空き地となった土地々々も、禍いこえて復興す。しかし一方偶然に、焼け残ってた家々は、横暴無頼な輩ども、有無をいわさず差し押さえ、そこにそのまま放置され。

兵士であっても職がない、そういう輩が増えている。辻で出会えば挨拶の、かわりに噂をひそひそと。
ちょっと田舎に行ってまで、風雅を愛でる人もなく、公卿も武家も京にいて、保身出世に奔走す。

武威を誇った鎌倉の、頼朝の頃の家柄は、かなり高位であるはずの、武士が今では落ちぶれて、位・家柄意味もなし。
朝からせっせと御主人の、牛馬の世話する一方で、日暮れに事件が起きたなら、いの一番に駆けつける、そんなまじめな男には、出世栄達縁がない。

さして手柄もないけれど、いつの間にやら大出世、そんな男も中にいる。
落ち度があれば必ずや、損してしまうことになる、そう考えてすることは、上司にゴマをするばかり。
天下統一オメデタイ。

建武年間この御代に、生まれて出て来てこその、様々奇妙なことを見て、または聞いては不思議がる。以上落書を長々と、書いて連ねてきたけれど、これでも京の人々が、口ずさんでる噂から、一割程をとりあげて、ここに挙げたに過ぎません。

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