ファントム(虚戦士)の肉体
ファントム性について考えてた頃のメモをもとに、少し加筆したものです
「祈りの美」に対になる「戦闘の意思」があり、武そのものは純粋闘志の煌めきをもって、祈るMuse(女神)の慈愛と対になる。強さは極まると、弱さそのものの場所に出る。そして弱さは極まると、強さそのものの場所に出る。
「武闘」の起源を探って。
人は闘い生きてきた。
人の群れは生き物を殺し、肉を裂き、血を啜り、生きてきた。生きることと殺すことは常に隣り合わせであり、生きるとは即ち殺すことでもある。
また、人間という種族が持つ、他の動物と比べて際立つ特徴の1つは、道具を扱うことだ。人は身体操作の延長で道具を扱い、文明をゼロから組み上げる。ごく原始的な道具である「棒」や「石」などを初めとして、道具と人は共闘し、生き物を殺し、文明を築き、遍く神に背を向け、そして自然に反旗を翻してきた。
古来、動物との闘いは、夢見の戦いであり、相互の幻術的世界観のぶつかり合いでもあった。
狩猟採集文化とは、その動物・植物との関わり合いの中で、必然的にシャーマニックな闘いと共にあったと想像できる。
アニマルとの闘い。相手は、敵か盟友となる。盟友=敵を殺し、食糧を手に入れるとき、殺すと同時にまた自分も死ぬこととなる。そうして狩りのたびに転生しながら、自分が誰かも分からなくなりながら、人は同じ肉体を生きながらえさせてきた。
それくらい緊迫した、夢世界のリアリティの中を人は生きてきたと、確かな手応えをもって想像する。
生き物との生死のやり取りは、4次元空間を通じて行われていた。
生死のやりとりにおいて、体術・武器術と幻術は表裏一体。
そういった生死のやりとりを伴う”武”の起源を考えるとき、現代における、ただ一部の機能的な動きができるようになるための鍛え方や、スポーツ的なルールに守られた世界での”鍛え”や、見た目上よく見せる/強く見せるための体づくり、筋トレなどはどう解釈できるのか。どれもどこか子どもだまし的な要素が浮かび上がってくるような気がする。
その肉体はいったいいつどこでどのように役立つのか?自分の意識が身体と接続していない、いわゆる”身体が無い”状態に対する虚しさを、さらに増強させる方向での”鍛え”になっていはいまいか。そこに滑らかな、”生物としての人間”たらしめる身体となっていく方向はあるのか。
ファントム(虚戦士)の肉体になるには、まず意味のない筋肉をつけないことが第一段目にあると思う。日常で必要無いなら、それは必要ないってことなんだと。現代社会での”サバイブ”では、極端な話、まったく肉体を動かさずパソコンと向き合ってバーチャルな成果を挙げて報酬を得るということもあると思うが、そういった職業上の体の動きにつきものの体の歪みや痛み、偏りに対して、スムーズに生活を送るための調整的な身体づくり(筋トレとかストレッチ)とか、そういう体づくりはあると思う。それはそれで”サバイブ”の、必然性を宿すと思う。人生を生き抜く上での内的必然性。そしてデスクワークや、例えば接客業とか配送業とか、そういった職業での日常動作での身体の違和に対して、その勤務時間中の動きの丁寧さを上げる方向での身体づくりというのは、一般的な調整的な体づくりよりももっと自然だと思うし、総合的に見た身体への向き合いとして質が高いと思う。そこに日常の仕事での身体の歪みや偏りは何も恥じる必要は無い気がしていて、その動作の丁寧さが十分に上がっていれば、結果としてそもそも身体の壊れ、痛みも発生しないんじゃないかという気もする。昔の農家のおばあちゃんは、歪んだ体でも滑らかに身体が成り立っている。あれの現代版を目指すということ。日本人の身体。
外傷を除けば、身体の違和は、丁寧さを上げることによってかなりの割合が解消することができ、丁寧さを上げることで、そこに人生の内的必然性を宿した身体というものが出来上がる気がしていて、そう考えると、身体の居心地の悪さには、外的要因(どんな職業でどこでどんな生活をしている)よりも、そもそもかなり精神的要因が働いているんじゃないかという見立てもできる。これは、偏っていても歪んでいても、痛むような事態にならなかったり、滑らかな身体があると考えると、逆説的だが、身体の居心地悪さの原因は、本質的には肉体の歪みや偏りには無いと考えることもできるからだ。
身体の居心地の悪さに対しての対処は、筋トレとかジム通い、ストレッチとか、はたまたマインドフルネスとか(だけ)じゃなくて、身体操作の丁寧さを上げることや、いわゆる”体の声を聞く”ことによって、自分の身体・そして人生に対して個別最適化された何らかの動き・アクションを行うことではないか。
職業なりなんなりの自分の唯一無二の生活というこの内的必然性を宿した体を誇りに思うという姿勢一つで、”日本人の身体”への回帰の道が開けるような気もしている。
里山を生きる美しい身体はもう手に入らないとしても、都市文明での充実した体はつくれるはず。それには、生活の内的必然性への誇りと、動きへの丁寧さ
ファントム(虚戦士)にとって、その内実としての殺法(殺す技・暗殺術)はもちろんのこと、見た目の強さも重要な要素になるだろう。特にその戦闘の場面での見た目上の強さ。それはすなわち本当にただ見た目が強そうという表層的な意味だけではなく、やる前に結果が分かるような生物の危機察知本能を使った結果予測のようなレベルを含めた、表に出る強さ。
つまりこれは相手に対して力の塊である霊的な肉を見せるということでもある。
肉体的な争いは、ルール無用の場所であればあるほど、一見強さそうに見えなくても殺法に長けている方が場を掌握する。
見た目の肉は、勝負を決する直接的な要因には本来ならない。しかしそこを競い合うことが合理的であった生物的本能の実態があり、そこが現代では遊離して、見た目を競う、芸術化した肉体美勝負の世界がある、身体の増強がある、スポーツ的争いがある。
これはある意味、実際の腕力勝負ではなくて、強そう感や、あるルールのもとでの成果という社会的地位を得てその地位で殴る、全然本当の肉体の部分での勝負ではない、観念上の勝負をやっていると見ることもできる。
第一、人類が今全力で誰かを何かを殺しにかかるなら、銃だの戦車だの戦闘機だの爆弾だので勝負するのだから、生身の肉体の強さみたいなのを誇る行為はどれも必然的に虚しいし無意味さをもっている。その”強さ”、意味はいずこに?と。
そういう観点からしても、現代の生身の肉体の強さを競うあらゆる勝負はすべて、その”強そう”感を争う広義の幻術勝負なんじゃないか?とかやっぱり思うわけです。
本当に争いに勝ちたいなら、ボクシングジムに通うよりも銃の扱いや、戦車・戦闘機の操縦方法を覚えた方が良いんじゃない?となる時代状況だということ
体を鍛えることの意味、それが実際に引き起こしている多層的な現実を考える。
今、われわれはどのように自らの肉体への”鍛え”と向き合うべきか?
無自覚的だとしても、幻術的効果を狙って、「実」の筋肉を増強させ、筋肉のでかい形だとか、浮き上がりだとかを見せることを狙う筋肉づくりがあると。これはジムにて実現できる。
そして一方ではホロウ(虚)がもうもうと立ち込める、幻影の肉体。虚の筋肉による霊的な肉の実体化という形での実力の発揮の仕方があると。
これは霊的戦士が、その戦闘の意思という"精神"を体の形として実体化させる”戦闘の所作”であり、これはその戦いの意思、世界への挑戦、世界との共闘という行為が空間と身体のコラボレーションの中で滲み出るようなものだろうか。
虚(ホロウ)のはずが、実際の実の肉体よりもありありとしたリアリティを感じさせる。なぜならそれは、実質的な意味において本当の実行力をもっている"実力"であるために、本当にそっちがリアルだからである、とも言える。
限りなくリアルに近い虚(ホロウ)と、限りなく嘘(うそ)に近い見かけ上の実の筋肉
世に存在する”武”の実際の在り処は、神聖さへの態度、すなわち儀礼性の位置にあるのではないか。その霊性の力があれば、ファントムの肉体の具現化、これも実現できるはずだ。
ファントムの、肉体化できるような霊性の力は、力の純粋な核心として、世界に対して実際の影響力を持つ、という気がしてならないが、そのような時空の捻じ曲げが今、この世界の実社会で、いつどう活きるのか?
観念世界で、イデオロギーの争いがあって、その結実として戦争が起きるという、感情・マインドの争いが先にあって、そのあとに実際の戦闘が紐づくという構造が現代の実社会における戦闘の構図だとするならば、私たちの生活の中のあらゆる外交的な場面は、フラクタルにその争いの構造をもち、連鎖して全員総合決戦で現在進行形で戦闘しているのが今の世の中だと言えるだろうか。そこで自らの持ち場における”武”の煌めきが、連鎖的に何か効果を発揮するのだろうか。するのかもしれない。
ここで、争いを未然に防ぐ、または終結させる実質的な力としての”武”は、それと同様の結末を引き起こす”祈り”の力と、どこかとても近い、兄弟のような関係性を感じることもある。不思議だ。
結論はないが、私(たち)は今日も戦闘中である。