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⑤ "モノ"はストーリーと共に展開する。

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モノはストーリーと共に展開する。


完全に人間の内面だけでは内面の話は一切完結しない。

つまり、モノ(物質)が、人間個人の意志も象徴しうるし、人間同士の関係性も象徴する。

モノの方に、つまり人間の"外側"に自分の心がある。とまで捉えてみるとしっくりくる。


あるモノをどう配置し、どこに置き、何を置き、誰と置くのか?そこにすべて端的に内面世界で展開されてきたストーリーが現れるように思う。物を通して、精神の「相」が現れる。

モノを通して、人と人の尊重と和解も現れる。狂気と冷静さの間の揺れ動きも現れる。

人と人がうまくいかないのは、お互いの共犯関係と捉えた方が良いとはよく言われる。どちらか一方にだけ責任がある訳ではないということだ。

そういう意味で、2人の人間がたとえ軽く衝突したとしても、また関係性を結び直して良い状態に戻り、そしてその象徴として何らかのモノが現れる / 変わる のは、お互いの変化の証として日常にありふれたことのようにも思える。

これは、2人の人間に限った話ではなくて、集団と集団、国家と国家のレベルでもそうかもしれない


関係性には様々な種類があり、そしてこの世のすべては関係性の中にある。

人間の精神の働きをより一般化して、精神エネルギーの物理的な流れであると捉えると、関係性が衝突した後に、それが再び結ばれることとは、
何らかの"エネルギー"と"エネルギー"がその衝突を確認し、衝突ではなく融合の方向へとそのエネルギー間の関係性の線引きを変えることと言えそう。

この関係性の線引きを変えるとは具体的に言うと、不文律(暗黙の了解)をどこに設定し、目に見える線引き(明示的な了解)をどこに設定するか、を書き換えること。

当事者としてこの関係性の線引きを書き換えに行くには、やはり④番の記事で語ったような、外環境に目を向けるやり方は、実行可能性も高く、使い勝手は良いとおもう。④番の記事を参照いただきたい。

しかしこの関係性の衝突が深刻な場面の場合、痛みを伴ったり、本音の会話を伴ったりするわけで、1対1の関係性でそれを実行するのは骨が折れる。そのため膠着状態の物語(関係性)には、第三者が介入し、関係性の線引きを書き換えることに一定の意味があると思う。

第三者の方がむしろ、④番の記事で書いたような調整は、試みやすいとおもう。

関係性の線引きのし直しは、1人対1人だけでなく、1人対所属しているチーム・組織や、1人と街の間、1人と自然の間など大きい単位でも成り立つのだと思う。チームとチーム、組織と組織の争いに対する介入にも同じ原理が働いていると思われる。

この記事の最初の話に戻ると、
そうした、日常生活の精神活動の"切れ端"が"モノ"として具現化され、我々の生活を形づくっていく。




奥行き / 物語 の無い空間とは何か?

「文化」を持たず、すなわち明確な「奥行き」を持たず、「文明の利器」として「便利」「使える」「役に立つ」「世間で必要と言われるから」等の理由でできあがった空間は、奥行きが無い。それは人々がものごとを対象化し変な客観視をおこない、自分と関係が無いと思うことによりできあがっている。

その人間性を失った空間は、"かたちだけ"の使われてる風・なんかやってる風であり、何の思いも無い分、一時の盛り上がりはあっても、結局は誰の目にも空虚にうつることになってしまう。
それが人間の欲望の成れの果てとも言えるだろう。

また一見文化がありそうでしかし中々それを感じられ無い空間もある。目で見ると文化がありそうなのに、感じるものが全然無いような空間の話です。
そしてこれがなぜそうなるのかと言うと、これは「世間様に減点されないように」という消極的理由によって、「奥行き」っぽいものを「平面」化した空間、つまり三次元のものも二次元で描いてそれっぽく見えるように、四次元のものを三次元でそれっぽく表したような、"意味ある風"だけど内実は意味の流れが無い、象徴として機能してない「モノ」たちの空間(強いていうなら、暗黙のうちに世間に迎合したいという悲しい欲望を自己完結的に表すという"意味"を象徴するモノたちの空間。)として出現してしまう。美学が無いことが、その空間の質にダイレクトに影響してしまう


全く無いように見えても人間味は大抵どこかに存在している。それを大切にしたい。

ここまでの話の"空間"は"身体性の無い"空間とも言える。人間が身体をもって生きる限り、精密な生命は常に物語を織りなしこの世界に物語を放出している。それが生命としての常である。しかし、その生命性が失われているときがある。
だが、人間は身体をもって生活しているので完全に身体性の無い空間というのは中々あり得ないんじゃないかと思う。特に人間が暮らす空間・プライベートな空間ではそれは、そうそう起こり得ないのではないか。死んでる空間は、都会の一角や、灰色の公共施設の一部によくあるようにおもう。

通常は、どんな人間も、文脈の中で、脈々と強力な意味の流れを汲んできた象徴としての"モノ"を少なからず持っているため、少々のミニマリストやホームレスであっても、人間味(奥行き)のあるモノは持ち合わせているだろう。

普通の人は、アルバムや写真や思い出の品、子供の頃のおもちゃやぬいぐるみ、を超えて、机や椅子、ペン、カーペット、クッション、ソファ、ライト、などなんでもかんでも、そこに奥行きのストーリーが存在する空間を出現させているのではないだろうか。

1人の人間がいれば、その人に付随した物語と、その象徴であるモノ(物質)がある。


象徴としてのモノに光をあて、それをツールにコミュニティを再接続する。

こうした"象徴"的なモノ(物質)を積極的に取り出し、社会という文脈にふたたび接続させていくことが、個別的であると同時に普遍的な物語を社会や地域コミュニティに生むことになるとおもう。これがコミュニティにつよい繋がりを生み、実生活で人間性を復権させていくという一連のプロセスになるはずだ。

物に下支えされて、人間コミュニティの人間性が復権する。

反対にこうしたちょっとの物語も存在しないモノができあがってしまう現実が世にあるのは、特にビジネスや政治において、あらゆる人が妥協に妥協を重ね(特に誘惑や欲望に負け)、ビジネスの悪いところが出てしまったときに出来上がるのだと思う。

世の中を本当に動かす物質はいま、数限られていて、意味や象徴や役割をきちんと持つ前に、「モノ」をモノというだけでひたすら展開・複製していくこと(資本主義的を不自然に使ったときの在り方)は、この世界を一見豊かにしているように見えても、見えない豊かさ(意味の流れのところ)の世界では、負債を生んでいるのかもしれない。

そんな世の中なのに、「物語・身体性・奥行き」と「ものづくり」を両立させ、世に展開している人々には心からの敬意を表したい。




番外編


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