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春秋時代の易占 季友の生涯に関する占い② 季友の父と母

今月は1週間が5回ありますので、今週は先週と同じテーマ、春秋時代の易占 季友の生涯に関する占いについてお話します。

今日は季友の家族、とくに両親のことについてです。

1.季友の家族
季友は、魯の桓公とその正室 文姜ぶんきょうとの間に生まれました。
兄には後に桓公の後を継いで魯国の君主となる荘公がいます。
さらに腹違いの2人の兄弟として慶父けいほ叔牙しゅくががいます。

2)季友の母  文姜ぶんきょう(岩波文庫「春秋左氏伝(上)」102-103頁、桓公18年、107頁 荘公元年、108頁 荘公2年)

季友の母、 文姜ぶんきょうは、隣国 斉の僖公きこうの娘でした。
文姜ぶんきょうには、兄がいました。
後に斉の君主となる襄公じょうこうです。
この襄公じょうこう文姜ぶんきょうは、若いころ近親相姦の関係にありました。

当時の君主の娘は、年頃となると近隣の諸侯と政略結婚をします。
BC709年春 斉の僖公きこうと魯の桓公は嬴(斉の邑)で会合して婚約を結び、9月、 文姜ぶんきょうは魯国に実際に嫁ぎました。

http://sino.newdu.com/m/view.php?aid=246779

文姜ぶんきょうと兄との関係も疎遠となります。
桓公との間には、2人の子供(のちの荘公と季友)が生まれ平穏な生活を送るようになりました。

3)斉国への旅行

BC694年、春 桓公は、斉国との同盟関係を確かなものにするため斉国に訪問します。

冯梦龙、蔡元放 - 《东周列国志》(绣像本), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=146140647による


その際、 文姜ぶんきょうを伴おうとすると、家来が諫めます。
「国家の外交であり、妻を伴っていくのは軽率な行為です」と。

しかし、 文姜ぶんきょうのたっての願いで同伴することとなりました(※2)。

wilipedeaより。パブリックドメイン。

当時の斉の君主は文姜ぶんきょうの兄である襄公。
そしてあろうことか、襄公じょうこう文姜ぶんきょうは情を再び交わし、それが桓公に知れるところとなります。

http://sino.newdu.com/m/view.php?aid=246779

桓公が、 文姜ぶんきょうを責めると、文姜はそれを襄公じょうこうに告げます。
怒った襄公じょうこうは、4月10日、桓公の馬車に公子彭生を同乗させ、車上で桓公を暗殺させます。

桓公が亡くなったということはすぐさま魯に伝わります。
魯国では、斉を討つべしとの意見もありましたが、当時の国際情勢では魯国、斉国お互いにとってあり得ない選択でした。
魯国には、 文姜ぶんきょうにつき従った家来もたくさんいます。
そして、戦いを指揮すべき君主たる桓公の遺体すらまだ斉の国にある状態なのです。

とはいえ、このまま放っておくわけにもいきません。
遺体を引き取りに魯の重臣が斉に赴きます。
そして、斉に申し入れをしました。

「我が君は、斉君の威を畏み、国を後にしてこちらに来て、旧好をあたためられました。
行事が終わっても国に戻れず、だれも責任を問われないとすると、今後の斉国と他の諸侯との関係にも悪い影響しか及ばないのではないでしょうか。
せめて公子彭生には責任を取らせてください」

襄公じょうこうは、公子彭生に責任転嫁をし、公子彭生は処刑されました。

魯国の次の君主は、桓公と文姜の子供であり、季友の兄が即位しました。
荘公です。

母の文姜は、斉に留まり魯国には帰りませんでした。
その後、斉の襄公と文姜との姦通が、魯国にも知れるところとなりました。

荘公は母子の縁を切りました。

ただ、魯の国には、斉国をルーツにもつ家来や勢力があり、それらが荘公や季友を推す勢力でもあります。
その斉国にルーツを持つ勢力を切り捨てるわけにはいきません。
むしろ、荘公や季友は、その勢力を活用し、他の勢力と対峙しながら国政を運営してく必要がありました。

しかし、荘公、季友にとっては、斉国が実家である母が実家の叔父(しかも斉国の君主)と通じたあげく、その叔父に父が殺されるというトラウマにもなりかねない経験のもと、新たな時代を踏み出すこととなります。

wikipedeaより一部加工

(冒頭画像引用元)Yeu Ninje, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1956670による

※1)今回は桓公の時代のご紹介です。

※2)ホントに桓公は家来のいうことを聞きませんね。家来はいいことをいっているのに。似たような話を以前少しご紹介しました。

※3)本日はまだ季友が成長する前の出来事ですので、前回ご紹介した季友に関する占いは今回は絡みません。

成長したら側近として君の側におり、執政となって君を補佐する人物と なります。
この人が亡くなったら、もはや魯は栄えることはできないでしょう。
父親の桓公さまと同様に、国君と同様に扱われるでしょう。

ただ、この桓公の不幸な最期は、以後の魯国の政治的混乱のきっかけ、まさに「魯の閨室の描き出す乱脈な唐草模様」(「春秋左氏占話考」加藤大岳著58頁)の一草ともいえますので、ご紹介いたしました。



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