日本史における84年の奈良時代③ 長屋王の変 藤原氏VS皇族
この時代に藤原氏は勢力を拡大するが、反藤原氏との激しい政権争いを繰り広げる。
逝去にともない藤原の姓を賜った中臣鎌足の息子、藤原不比等が実権を握る。しかし、720年に不比等が逝去すると政権のトップに長屋王が立つ。長屋王は優秀な人物で祖父は天武天皇、正妻は元明天皇の娘、吉備内親王。
724年に不比等の娘、文武天皇の夫人宮子が産んだ聖武天皇が即位する。皇后にはなれなかったが、皇族ではない宮子が天皇夫人になり産んだ子供が天皇になるのだから藤原氏には大きな一歩。不比等の息子達、藤原4兄弟も順調に出世する。しかし、母親が皇族でない聖武天皇の即位に反感を持つ者も多く、その中心人物が最高位左大臣に昇進した長屋王であった。
ここで事件が起こる。聖武天皇は自分の母親の藤原宮子の権威を上げるために大夫人という尊称を与えた。これに対し長屋王は法的な根拠を用いて大夫人を撤回させて、皇太夫人と修正させてしまう。天皇の勅令がひっくり返ることはまずない。裏で画策をしていた藤原氏にとっては痛手であった。
聖武天皇は即位前に不比等の娘、光明子を妃にして安倍内親王(後の女帝孝謙天皇)をもうけている。光明子は宮子の異母妹にあたる。藤原氏も着々と皇族に入り込んでいる。
聖武天皇即位後に光明子は待望の男子を出産。生後ひと月で皇太子にするも1年余りで亡くなる。弔いのために金鐘寺(後の東大寺)が造営された説もある。生まれてひと月で皇太子とは藤原氏もかなり焦っていたのだろうが、これも反藤原氏にしてみれば腹立たしいことだったろう。
とうとう729年に長屋王の変が起こる。発端は長屋王が謀反を企てているという密告だ。その夜の内に周囲の関を固め、宮中の警護の兵が長屋王宅を取り囲んだ。翌日役人たちは長屋王を糾問した。詳細は不明。その翌日長屋王は家族と共に自害し、宅内の者たちも捕らえられた。これが長屋王の変。
これは藤原氏が仕組んだ冤罪と考えられている。その後光明子は皇后となり、藤原4兄弟も全員公卿となり実権を握ることになる。しかし、737年に九州より拡大した天然痘により藤原4兄弟は全員亡くなる。人々は長屋王の祟りだと噂したという。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 10月21日(月)】