日本史における84年の奈良時代④相次ぐ女性天皇の即位と藤原氏の浮き沈み
不比等の息子達、藤原四兄弟は長屋王を引きずりおろし、9人の公卿のうち4人を兄弟で占め、8年間に渡り政権を握ることになる。藤原武智麻呂は南家、房前は北家、宇合は式家、麻呂は京家、それぞれ後の政治や文化に多くの業績を残す藤原四家の開祖となる。聖武天皇の母宮子、聖武天皇の皇后光明子はともに異母姉妹なのだから怖いものなしのはずだった。
しかし、737年の天然痘の流行により藤原四兄弟4人全員が相次いで亡くなる。この時日本人口の三分一が死亡したと伝えられる。公卿も生き残ったのは二人だけ、その一人橘諸兄が政治の中心となる。藤原四兄弟の子も幼く藤原氏の隆盛もここで一端止まることになる。何が起こるかわからない。
橘諸兄は光明皇后とは兄弟なのだが、父親が不比等ではなく母が同じという異父兄弟なので藤原氏ではない。敏達天皇の末裔で臣籍降下している。
彼は公家の吉備真備、法相宗の僧、玄昉を重用する。二人とも遣唐使として大陸に渡った経験がある。この時代大陸の文化に日本は傾倒している。
橘諸兄は藤原四兄弟の宇合の息子・広嗣を太宰府に赴任させる。これに不満を持った藤原広嗣は吉備真備、玄昉の更迭を求め740年に反乱を起こす。しかし、反乱軍は鎮圧され、広嗣は殺害される。藤原氏の復活はまだ先の話、聖武天皇はこの頃から遷都を繰り返すようになる。
話は変わるが、平城京に遷都した奈良時代の最初の元明天皇は女帝であった。彼女は天智天皇の娘で夫の文武天皇が早世し、子の聖武が幼かったため即位した。次の元正天皇も女帝で、父は天武・持統両天皇の子で即位できなかった草壁皇子、母は元明天皇だ。恐ろしい血縁関係。女性天皇はこの時期に集中している。元明天皇の即位も幼い聖武のピンチヒッターであった。
そして聖武天皇の次の天皇も女帝孝謙天皇。このお方は後に称徳天皇として二度天皇になっている。重祚しているのは皇極天皇と孝謙天皇史上二人だけで、しかも二人とも女帝なのだ。
孝謙天皇の父は聖武天皇、母は光明皇后、天武系最後の天皇で、この後江戸時代初期まで850年ほど女性天皇は立っていない。聖武に男の子はいたのだが、藤原氏の画策で安倍内親王として女性初の皇太子となり、孝謙天皇として即位する。母の光明皇后が皇太后になり天皇の後見人となる。そして光明皇太后の甥で藤原四兄弟の武智麻呂の息子、藤原仲麻呂が権勢を振るうようになる。藤原氏の復活なるか。橘諸兄は勢力を失っていく。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 10月24日(木)】