日本史における84年の奈良時代① 聖武天皇と遷都
奈良時代は、710年平城京に遷都してから、794年に平安京に遷都されるまでの84年間なのだが、この間に下記の様に都は移動する。これまでは天皇が交代する度に都、つまり天皇の住居は変わるのが一般的であったが、天武天皇が起案し、皇后持統天皇、元明天皇三代に渡り整えられてきた藤原京は初めて唐風の条坊制による都だった。中央に朱雀大路、南北の坊と東西の条と呼ばれる大路を碁盤の目のように配置した都市型の都となる。
そして710年に元明天皇により唐の長安をモデルに造られた平城京に都が移り奈良時代が始まる。この都も条坊制で東西に一条から九条の大路、朱雀大路を挟んで左京4坊、右京4坊の約5キロ四方に及んでいる。
聖武天皇の時代に都は三度変わりまた平城京に戻る。恭仁京への遷都は当時の権力者橘諸兄によるものとされる。彼の本拠地なのだ。政権を握っていた藤原四兄弟が天然痘で亡くなり、それで権力を得た橘諸兄と藤原氏との政権争いがあり、藤原広嗣が九州で挙兵し反乱を起こした時期の話だ。この後聖武天皇はしばしば近江国甲賀郡紫香楽に離宮を建て行幸した。ここへ遷都し大仏を建てようとした。結局臣下の反対や山火事、地震などで実現しなかった。難波京へ遷都するが、1年で平城京に戻ってくる。何れも未完成。
この度重なる遷都で臣下や駆り出される民衆は怒り狂ったに違いない。
★710年 藤原京から平城京(奈良県奈良市-大和郡山市)へ
★740年 平城京から恭仁京(京都府木津川市)へ
★743年 恭仁京から紫香楽宮(滋賀県甲賀市)へ
★744年 紫香楽宮から難波京(大阪府大阪市)へ
★745年 難波京から平城京へ
★784年 平城京から長岡京(京都府向日市-長岡京市-京都市)へ
★794年 長岡京から平安京へ
聖武天皇は文武天皇の長男として生まれる。母親は藤原宮子、藤原不比等の長女で、異母妹に後に聖武天皇の皇后になる光明子がいる。ここで歴史は大きく動く。藤原不比等の父は中臣鎌足、栄華を極める藤原氏の祖なのだ。宮子は聖武天皇を産むのだが皇后ではなかった。皇后は皇族、つまり天皇家の者しかなれなかったからだ。一度仁徳天皇の時に例外があったようだが。聖武天皇には藤原氏の血が入った。そして聖武天皇の皇后には宮子の妹の光明子が入り、藤原氏は更に盤石な体制を固める。
この藤原不比等という人はかなりの切れ者だったようだ。律令制度、日本の規範の基礎を築きながら藤原体制を作り上げている。
聖武天皇は奈良の大仏を造って、仏教による鎮護国家を目指した。
桓武天皇は奈良仏教の勢力の拡大を嫌い、長岡京へ遷都するが、ここで不幸が続いたため10年で平安京へ移る。一度福原へ平清盛が遷都したり天皇が二人いた時代もあるが、ほぼ千年に渡り都は京都だった。
【REG's Diary たぶれ落窪草紙 10月19日(土)】