ここが変だよ川越ゲッター(とダイナミックプロ未監修派生作品群)~論理筋ツッコミまとめメモ

どうしてこんなに掘り返してしまったかって騙されて腹が立ったのと同時に原作版の二次創作書きたかったからその論理構造と主張の終点を確かめたかったんである。
二次書く時いつもやることなんだけど、そこさえ理解していれば、明らかに原作と異なったおかしな事にはならんだろうと。物語の論理構築にも必要であるし。
(正直に言うんだがスパロボ含むダイナミックプロ未監修派生作品群を先に見ていたのだがその時点でははまらず漫画読むまで忍殺に戻る気満々だった。こういう前提だったので元々はプロット構造とベース作品の話まで掘り返す気はなかったし、それらもチェンゲ考察もダイナミック作品気に入って耽読しながら丁寧に追っていたら勝手に繋がって見えたからまとめたというだけ)
で、だ。
自分なりに考察の結果を得て、終着点をどこに起きたかったのか人物の核はなんだったのか把握したら原作筋の漫画版、東映版、そこに戻そうとしたアイサガ、ダイノゲッター、ゲッターロボの論理筋を持つ五右衛門や爆末伝、Reハニーなんかも書けた。私は過去デモンベインの二次創作も書いていてそちらの方もそれを踏まえて読み直すことができた。

ところが自分でも吃驚するほど川越ゲッター筋(OVA、アニアクなどだが2Z以降のスパロボなどもこちらの文脈にある)が書けなくて、考えるほどツッコミどころが無限沸きしてキリがなく、つっこんだ端から忘れそうになってきたので根本的な論理筋でおかしいと思う大きな部分だけでもメモっておこうと思って。
(原作筋に戻そうとした時に直すべき箇所でもあるし。因みに私はいわゆる腐女子だがブロマンスとかシスターフッドみたいな感情や関係性に惹かれて自分が納得できる読みたいものを書いてるだけの自給自足タイプ)
以下に記すのは辞書レベルの単語の意味の話とか、純論理的思考で考えた時におかしいっていう物の話に限定する。


一行まとめ

長くなるんで結論から言うんだけど、多分そもそも川越ゲッターやダイナミックプロ未監修派生作品群は客観的、科学的な論理筋や整合性ぶん投げてる。

「社会進化論(というか、進化を進歩と捉える誤解釈=ダーウィン以前の進化論。自種族こそが進歩的存在である→選民思想や優生思想、植民地支配や人種主義の根拠ともされた。現在では科学ではないとされているイデオロギー)」と「同調性」をベースに『超存在に選ばれ、弱肉強食の単一先鋭化の先に君臨した種族は千年王国を作り、(自らより強い種族に出会わない限り)永劫滅びない』というまったく主観的な思想(これに信仰が伴えば宗教)が基本となっている。
なお私は20年以上前から人間台風一神教原理主義者なので宗教であること自体はどうでもいい。ぶっちゃけ聖書だってどこの神話だって信仰が伴わなければどっかの誰かが書いたフィクションにすぎない。

大問題なのが「この論理を前提にダイナミックプロ未監修派生作品群で言っている事は元来のゲッターロボでは悪の理屈であり、基本筋滅亡する」という部分にあって、あのタイトルを使用する限り、いずれ悪(未来人類とエンペラー)になり滅亡する未来を先伸ばしにして誤魔化しているだけという点にある。

色々考えたんだがこれをゲッターロボの理屈で言うなら「ゲッター線を神として全宇宙の独裁支配を狙う未来人類のプロパガンダ映像」って考えるのが一番しっくり来るのかなあっていう。
割りと言ってることが反社会的なテロリストの思想(しかもそれをきちんと否定しない)なんで、フィクションとして「これは言ってることが反社のヤカラかテロ屋の理屈」って理解して楽しむのはまあいいけど、その辺わからずにこれを鵜呑みにして疑問に持たないのはどうかとも思う。
(実際包み隠さず正直に言えば、原作知るまで恐らく川越ゲッターやスパロボからのファンに多いのだろうゲッター線がどうたりとかカルト系の一神教じみてるし、客観的に見て身勝手で暴力的なヤカラをヒーローのように持ち上げている様子は私人逮捕系YouTuberとその取り巻きとかに近く見えていた。今界隈と距離を置いているのも概ねそれが理由である。あとやたら攻撃的で作品下げろ圧力や村八分にされたとかも聞くしやられたし二年見てるだけで問題複数起きてたし。
なお原作はそんな話ではない上に根本的に人間の話であって、ロボットもゲッター線も控えめに言って重要度は低く、二度吃驚したというか何回驚いても終わらんというか)

なあ、これ本当に本気でゲッターロボだと思って言ってんの?
本気で言ってるならあまりにもあんまりすぎるから製作者はわざと「ゲッターロボではない」ものを作ってるとでもしなきゃおかしい気がするんだけど。

日本語の単語意味レベルのそもそも論

多分この辺の単語とか全部履き違えたり誤解釈している。

念のために言うが、辞書レベルの話である。なんなら義務教育レベルの話すら混じっている。
もしこれらの言葉をすべて正しく理解してその通りに作っていたならば、川越ゲッターなどの未監修派生はあんな内容に「なるはずがない」。
本気でやってるならまずプロの仕事ではない。

*どうにも川越ゲッターをはじめとする未監修の派生作品は、これらの単語を正しい意味で使った評価やまとめ、あらすじを見て、それらすべて誤った意味の方で受け取り、その言ってしまえば根本的な誤読である間違った思い込みのまま製作したような歪さを感じる

川越ゲッター(デヴォゲもだが)は「そもそも協調性の話になっていない」とは原作を知らなければ色々と調べ直しもなにもしていない初見から思っていて、新ゲッターが原作に一番近いとか言う真っ赤な嘘を嘘と知らなかったから、てっきり原作もそうなのだろう(設定との整合性すら放棄して自分さえ良ければ良いとか言ってる子供だましだろう。そういうのはそういうので嫌いじゃないけど)し、名作とか言ってもたかが知れてんだろうと思っていた。
結果的に全然違ったどころか、作中できっちり明言もされんのになんだこれ、あれ作った人間もあれが原作に近いとか言ってる自称ファンも揃って日本語読めてないのか? と心底驚き、単純に界隈の読解能力が不安になった。
(勿論全員がそうではなく、以前の私のように騙されている人間もいようが、複数回指摘したにも関わらず明らかな誤情報や誤読を平気で流して是正、自浄の気配もないのはいかがなものか)
ついでにそんな適当な話ならそんな傷にもならんだろうという心を残したまま読んで武蔵の最後を三ヶ月引きずった。

逆にきちんと理解してまっとうに「協調性」をテーマのひとつとする作品にしていたらどうなるかって、私が見たものでわかりやすいのをあげるならGガン(これはベースにダイナミックプロ作品強いとも思う)とか近年ならグリッドマンシリーズとかになる。
「ゲッターロボ」は「協調性が大事」と東映も漫画も作中きちんと言われている作品なので、本来ならばああいう事言ってないと根本的におかしい。

正直、まさかそんな辞書レベルで用語を片端から間違えてるなんて到底思ってなくて、言ってることから逆算して根っこの理屈がこうでないとこうならないという手順を踏んだ。えらく手間だった、先に言え。

元来のゲッターロボは「多様性」を前提に「協調性」をコンセプトに置いてだろう、驚くほどに細部までそのイメージに繋がるもので統一されていて、「三原色+黒白(號では光の三原色+黒)」=全ての色が作れる、「全員バラバラな服装」=個性は皆異なる、そもそもにして「組み合わせを変えて複数の形態を持つ、3人ともがメインパイロットになるロボット」=対等な三人での協調性の結果としての変化と更なる多様性、など細かな設定や要素の部分から話筋に至るまで高レベルの統一感があった。自然に概念を理解できるような形であったし、その完成度が本当に高かった。
のに、川越ゲッターやダイナミックプロ未監修の派生作品はその「協調性」のためにあった設定はほぼそのままで「同調性」の話に持っていこうとしてるんだから、なにもかも噛み合わないしイメージからバラバラでとっちらかるのは当然といえばそうである。
「お前はなにがやりてえんだよ、言いたいこと統一しろ」という感想は至極当然といえばそうなる。
正反対の事言いたいんだったらオリジナルで一から組み直すべきであった(それを実際にやったのが旧エヴァ)し、ゲッターロボやりたいんだったらおとなしく協調性の話にすれば良かったのにどっち付かずになって単純に完成度だだ下がってるだけになっている
川越ゲッターの理屈で同調性の話にするなら「最初から選ばれた特別な一人がメインパイロット固定で合体したら形態はひとつしかなく、分離したらただ弱くなるだけ」とかにすると思う。そうして神話や古典レベルの「神に選ばれた特別なただ一人の英雄譚(善なる独裁を前提に支配者の正当性確保であったり権威付けのためである事も多い。別にそれはそういう話というだけであって良い悪いとかではない)」をやればいいだけなのに何をわざわざこんな正反対のもの使ってやってるのかがわからない。非合理的。そもそもこのタイトル使う必要がない。

論理的整合性の取れてなさ

以下は現代的な倫理観と論理的整合性を基準とする。
具体的に言えば「個人の尊重」とか「自由の尊重」とかそういうレベルの一般的な戦後価値観である。
ゆえに事前情報無しに見たら人によっては盛大にツッコみたくなる可能性が大きい部分。
実は石川作品は全般的に倫理観や道徳の規範が今見てもめちゃ高い。ついでにダブスタとかの「筋が通らない」事は敵の所業として潰して回る傾向が強い。

・本能や狂気などは持て囃すに値するものか

簡単にいう。
それなら動物でいい。「人間」である必要性が根本的にない。

それは感情も思考も信頼も絆もなにもかも「ヒト種」の中でも一定年齢以上に達し、人格を確立して複雑な思考によって様々な感情を獲得した「人間」のあらゆる活動すべてが無意味であると言っているのとほぼ同じである。飯食って寝てトイレいくことだけ持て囃すようなもんである。

絆も信頼も友情も愛情もなにもかも要らんとか野性動物ドキュメンタリーで良くない?
本能に任せる=運命に任せるでもあるでしょ、最初から決まりきった道筋の話を一直線するだけでは?

(とは言っても、石川作品は動物も本能だけで生きている訳ではなく、ノーブルサバージュとかに該当する素朴な理性や心、思いやりは基本持ち合わせるっぽいのでそれすら完全に失ってると動物ですらないのかもしれない。そもそも本能自体には善悪もなにもない。それは生物であれば等しく持っているし、故に石川作品ではそれはあるものと肯定しつつも制御、抑制する理性が問われている)

大体狂気とか言うけど、本当の人間の狂気というのはまっとうに思考能力があってこそ発揮される(多様性とは思考の結果なので、思考しなければ単純化する)のに、思考を放棄した本能任せの狂気なんて存在するんだろうか。
野性動物がヒト襲ったってそれは狂ってるとは言わんだろう。
「同族殺しするのはヒト種だけ」とかもただの勘違いだし。
「理性なんて要らない、本能で生きろ」とはそういう存在になるということで、それはただの必然であって狂気ではないのでは?
(本能は全生物が生来的に持っているのだから、それだけになればみんな同じことするし違いなんて無くなるという理屈)
私は以前から川越ゲッターの狂気は薄っぺらだと言ってるんだが、その理由のひとつである。
ヘルシングの少佐だってボダランの登場人物だって彼らなりに筋はあって大真面目に言ってるから最高に狂ってるんじゃないか。ただ暴れてるだけなら動物と変わらんのである。ボダランだと通常サイコみたいな存在になっちゃうのでは?
それはそれで「こいつらはどうなってもいい存在です、気軽に死んだり殺したりするのをお楽しみください」話ならある種の利点だが。

「人間というのは思考する生き物、理性ある存在であるからそれを放棄し、本能任せに生きることこそが狂気である」と仮定してみるとその理屈は理解できるんだが、それを有り難がる意味はやっぱりよくわからない。
人間社会に紛れ込んでる人狼を有り難がって自分から食われにいくんだろうか。そういうこととしか思えないんだが。

「ヒトは野生に返るべきだ!」というのは容易いができる人間なんてろくにいるはずがないだろ。
12月から4月まで雪が降り、外で寝れば秋からすでに凍死し、日々野性動物に襲われる危険性のわずかにもある土地を知らんから言えるとしか思えない。
コンクリートジャングルを前提に、水も電気も屋根もあって凍死もせず動物にも襲われないとかそれは既に野生なんかではない。生まれてこのかたスイッチひとつで明かりも水も炎も得られる環境にいるために甘く見ているのかもしれないが、大自然舐めるのもいい加減にしていただきたい。
(余談だが元々道民であった私は道理でホームレスという存在が成立するはずだと関東圏に住むようになってようやく納得した。外で寝るとか自殺行為でしかないと思っていたからである)

「だからこそ本能任せに生きることが可能な強い人間がすごい!」というのは勝手だが、どうして自分はできない側にいると思わないんですか。
それは弱肉強食の理論である。弱いものは死ねって話である。
そして大多数の人間は完全自然環境下では脆弱で死ぬ側にある。そんなに食われたいか?

ああ、あとそういうこと言いたいんだったら、「社会」を前提にしないと成立しないお金も権威も権力も必要無いですよね? 自分は色んなものにタダ乗りしながら周囲にはそんなものは要らないといったところで説得力皆無です。本気なら全部捨てて身一つで言ってください。

そもそもにして、「本能任せに生きる」ことは「強く生きる」ことではないだろう。真の強さとは単に物理の話ではない。
漫画版も東映版もやられきってないだけで、本来なら負けていたとかそういう描写は入ってるので物理的に無敵ですごい!なんて話でないのはわからないだろうか。特に竜馬なんかはわかりやすく、どんだけべこべこにされても折れないめげないへこたれない不屈の精神にこそ強さがあるんだろ、あの話。
極限状態において見せる闘争心も「生存本能にすら逆らって死に立ち向かう」、言わば武士とかの方に近いんであって。

自分は本当は社会(他人)に生かされているという理解のないチンピラがそうイキりながら当然の自滅をする話ならまあわかるが。

・過剰な報復の肯定

言うまでもない負の連鎖。

ネオゲの冒頭、號くんが完全に無抵抗な相手を笑いながら殴り続けるのや新ゲもこれであったが、突き詰めて考えたら自滅するしかないだろ。自滅前提じゃないならきちんと止めて叱れ。
漫画版の未来人類をこの理屈で擁護しようとする言説も見かけるが、「正当防衛」とは「頬殴られたら相手を殺していいという話ではない」ことから説明が必要か?

自分は報復で相手を殲滅していいが相手は自分を殲滅してはいけないとかただのダブスタでもある。
「銃を撃っていいやつは撃たれる覚悟のあるやつだけだ」って皆好きでしょ? これの話する時だけ忘れるの都合よすぎない? まあどうも川越ゲッターの人物はこの覚悟から足りてないんだけど。
(前述した本能を優先してると「生存本能が優先されるから自分の命は懸けられない」で筋は通っているが。追い詰められてビビりきり闇雲に突っ込む場合もある)

これではないとするために原作は「やられてからやり返す」「敵側から主人公側への、生存権を認めない前提での容赦のない虐殺が先にある」として「防衛」の論理となっているし、同時に必要以上の追い討ちや戦闘に関わらない敵対勢力(民間人とか)を殲滅する行動は取らない。

現実世界でもこの泥沼自滅の回避のために例えばハンムラビ法典なら「目には目を、歯には歯を」の後の「しかしそれ以上はしてはいけない」に重点があるし、戦争犯罪を規定する国際法なども存在しているのである。江戸時代の敵討ち法の成立過程にも広範囲に渡ってしまった報復の範囲を法で規定して抑制する意図があったはずでもある。
法治国家とはそういうものであって、感情よりもそうした規定(法律というのは原則こういった個人の権利を最低限保証し、軋轢が起きたときに対処するための最小限の規定である)を優先するものである。お気持ちが何より優先する(情治主義)というのは法治国家を壊す考え方である。

本来、そういった抑止の規定を守ることができない、感情の制御ができない人間は戦場においては処罰対象であるし、そんな人間に強大な力を渡すとか自滅前提でもないと論理的に筋が通らない。

正直川越ゲッターの人類はこの時点で基本的に死にたがりのポンコツにしか見えない。(ネオゲに関しては號くんは漫画の號くんではなく極道兵器の岩鬼前身に近く、赤尾がそうだったように隼人も色々わかってた上での博打であった解釈は充分可能だが。思い返せば確か首相の名前に岩鬼が使われてるとか世界事態がとち狂ってるとも読める演出はあった)
そうでなければ自分達だけ棚上げして甘く見ながら他人には厳しいダブスタ思考である。

・利己主義の肯定

お前の乗っているそのロボットはお前が設計してお前が全部組み立ててお前だけで動かしてるんか。
そもそも人間が現代社会で生きるのには他人が前提にあるのにガン無視して「俺が」とかダサいとは思わんのか。
インフラは自然環境下で整ってる訳じゃないのも知らんのか。

この辺はダイノゲッターの追加エピソードのナガレが「一人でやれる」と言って本当にゲッターも使わず生身の一人で乗り込んでいる描写とか、ダイナミックプロ公式監修作品ではきっちり筋を通そうとしていたこともある。

・選ばれた特別な一人だけに優位性があるとする選民思想

「ならお前一人だけでやれ」というのは割りとナチュラルなツッコミではなかろうか。
この手の主人公を持つ物語構造というのは「選ばれたただ一人の英雄(とそのお供か手下か子分)のお話」である。
その人物がより強いというなら他の面子より目立ってしんどい目を引き受け、相応の責任もまた引き受けるべきだろう。
どうして他の面子と同じだけしか働く気がないんですか。相応の働きもせずに権威だけ欲しいんですか。
子分を守って戦えない親分に親分の資格なんか無いです。
子分や縄張りを自分の所有物扱いするヤクザすらそこは筋通す(所有物なので自分の面子に関わる)んだぞ。まあ気に入らなかったら殴るんだけど。新ゲッターの新竜馬なんかは半端にこれだったが。
本来上下関係ではなく役職の区分である上司でも、なんかあった時に責任をきちんと負えないのはダメです。職責放棄です。
そういう主張をするならあれらの話のなかで起きた様々な問題の責任はまずその選ばれた特別な人間が背負うのが筋というものです。そういう時だけ都合良く他人の責任にして擦り付けるんじゃありません。

「新ゲッターの最後で新竜馬は守ろうとした」というのは自由だが、「弱いから食われるんだ」と堂々叫んでる時点でなかなかそれは難しい話である。
それは「弱いやつは食われていろ」という弱肉強食の肯定にしかならず、他の面子も世界も弱者であってどうでもいいから切り捨てて一人だけで突っ込んだと言う方が筋が通るだろう。
本当に弱者を守る気があるなら「強いからって好き勝手やっていい訳じゃねえ」と弱肉強食を否定して叫ぶべきであるし、実際石川作品の主人公はそう叫ぶのである。

さらに言うと「3人ともがメインパイロット」になる機体で一人だけ特別とかその時点で噛み合っていない。素直に考えたら対等にするはずだろうに。
実際に東映資料では「三人ともが主人公である(からこそ脚本の上原さんが興味を持った)」と読み取れるものがある。一人だけを主人公にした時点で「ゲッターロボではない」といえばそうなる。
ましてや、そうして他の人物を子分か奴隷の扱いとした上で、しかしいなければ満足に動かせないともなればその選ばれた人物は「ただ威張り散らかしてるだけのチンピラ」にしかならない。

・弱肉強食を肯定するとどうなるか

単純に考えれば、最後の一人になってその一人も強いやつに食われて終わるか、不滅の生命など存在するはずないので孤独に死んで全滅する。
漫画版デビルマンのラストである。
主人公だからそうならないなんて自分に都合のいい棚上げは通用しない。ダイナミック作品においては明確に幻想である。(言っておくがいわゆる主人公補正も一種の選民思想の表れと言える)

*一応で書いとくが、そもそも弱肉強食とか言ってられるの「健康な成人男性」にのみ限定されるだろうし、大概それを言う奴は自分の数十年後とか老いて弱者になることなど頭に無いから言えるんだろとしか私には思えない。
この世界に絶対的な強者など存在しない。いずれ皆老いて死ぬことは摂理である。本能がどうの運命がどうの自然の摂理がどうたりとかいいながらそれを宣うなら最低限老いる前に腹かっさばくなり敗けは素直に認めて大人しく食われるなりして筋を通したらどうなんだ。できないならただの口だけだろ。ダブスタ多すぎなんだよ。

・選民思想と弱肉強食の理論

これの組み合わせというのは要するに「俺は力のある神なんだから弱者は黙って言う事聞いてろ」ということだが、「どうしててめえのいうこと聞いてやる義理がある」というのは極当然な話であろう。
力があるからなんだって? それを言い出したら野性動物にもろくに勝てやしない山にほっぽりだされたらあっさり死ねる人類は最弱の部類に入ると思うんだけどよくまあ言えたものである。一度北の方の人がいない山にでも行ってヒグマと言わねえからエゾシカとタイマンステゴロ勝負して勝ってから言え。
その理論なら人類は野性動物様の餌になって食われて貢ぎ物する世界でないとおかしいだろ。

「神をはじめとするなにかひとつの絶対的な価値観や目標(強者)のためにそれ以外(弱者)はその道具か奴隷であれ」と言い換えることもできるだろう。こうすれば全体主義でもある

この論理は唯一神を持つ宗教的な「最初からその存在が上位である事が決定付けられて覆らない」前提になければ成立しない。
力があっても頭が悪ければ? 神だからなに? どうしてお前が全能で正しいと思ってられる訳? そもそも強いからなんだって?
本当に個人主義者やアナキストであるならばこういった言い分こそ鼻につくものである。本来の石川作品は典型的にそれであり、絶望的に相性が悪い。「てめえが特別だと思って他人が頭下げるのが当然とか調子くれてんじゃねえぞ」の方である。

宗教とは思想である。
そこに根拠や整合性などは必要としない。
しかし同時にその思想の枠外にいる者にとっては全く無価値であるし、なに言ってんだこいつ状態で意味はわからないし支持する必要性も義理もなにも存在しない。
あくまでもそれはその集団内のみの価値観と信仰であって普遍的なものではない。

川越ゲッターや派生の言い分はそういった意味では正しく宗教であってそこに客観的な整合性や論理は存在していない。

・皆が同じであることが良いはずだという欺瞞

三つの心を単なる意見の一致か「同調性」としてるからだろうけど、デヴォゲの最後とかがわかりやすくそうで、「意見の一致のために個人の性被害は許すべき」って、原作は個人の権利や尊厳や意思は目的のためには軽視して良いって話じゃないでしょ。それが良いことだっていうのは現代倫理観的にもおかしくない?
(こういう事書くと隼人はって言われそうだけど、隼人の役割は「人類の生存のために合理的思考で時に冷徹な選択すら行う」のは確かだけど、特に漫画版では今ここにある危機を回避するために必要だった犠牲を出す、社会や世界の維持のために誰かがしなければいけない選択と責任を一手に引き受けてきたスタンスであって、個人の権利や尊厳を軽視とかしてないしああいった極端な全体主義の肯定もしてない)

選民思想と弱肉強食の理屈での集団は全体主義にもなるって前述したけど、全体主義の何が怖いって目的のためには個人を道具か奴隷の扱いにするのが怖いんよ。
決定権とかが各人ではなくひとつの価値観や目標、それを決定する場所にしかないから構成部位には尊厳とか権利とか存在しなくなる。剥奪される。

そもそも、「個」である限り、すべて生命は「同じ」になることは不可能で、「対立」から逃れることはできない
「協調性」というのは、皆が違う個性=多様性を持つ存在であるという大前提があるから「双方に主体性を持ちつつ、譲れる場所は譲り合いましょう」という話であって、故に譲り合いの前段階として大なり小なりの対立が生じるのは必然である。
(対立自体が悪いことだと勘違いしてる人も多かろうけど、自他理解とかに必要なプロセスだったりもして、尽く排除しようとするのはよろしくない)
対立の後に協調に至れる事が次善策であり、現実的には最善策でもある。最初から「正解」を決めて、一方的に「お前が合わせろ」「合わせないお前が悪い」とかいう同調圧力の話ではない。

確かにみんな争うこともなく同じ意見でもって協調しあえたら良いことなんだけど、各々が個性=多様性を持っている前提なら大きな集団になるほどそんな訳あるはずないのだわ。
そして「寛容のパラドックス」という考えがあるように、多様性を維持するためには多様性を否定する思想は否定しなければならない。恐竜帝国や百鬼帝国が人間社会の侵略を実行する限り否定されなければならなかった理由でもある。
多様性を尊重し、個人の権利や尊厳を尊重する気があるなら、「他者に同調するために自分の尊厳や意思=個は捨てろ」なんて読める描写入るはずないだろ。

ゲッターロボ號における竜馬の台詞「すばらしいことだよ」の元ネタはアーサー・C・クラークの「宇宙の旅シリーズ」だろう。(「2010年宇宙の旅」。漫画版號の91年までには「2061年宇宙の旅」までが執筆、刊行されている)
この中にモノリスというゲッター線のモチーフでもあるだろう存在があるが、クラーク氏は後年これに否定的であった。
宇宙の旅シリーズのモノリスに似た存在はそれ以前に執筆された「幼年期の終わり」にも存在する。
このあらすじなどは大いなる意思╱オーバーマインドとゲッター線╱オーバーロードと人類を想起させはしないだろうか。そして、この話は石川先生が描いた未来人類にも似た「意識が統一されてしまった人類というバッドエンド展開」でもあった。
デヴォゲはこれをまるで『三つの心を一つに』の派生強化系であるかのように押し出すようでナンセンスではないかとも思う。知らないなんてそんなはずないでしょう?

(個である限り対立から逃れられないのだから)「みんな同じであるべき」として画一化を図るのは「個の剥奪」だし「同調╱同化の強制」となる。
これを極端に見せた例が「市民、幸福ですか?」のパラノイアだったりする訳で。
結果どうなるって異物は排除・抹殺して平和とのたまう詭弁のディストピアの爆誕である
ゲッター線=エンペラーと未来人類って典型的なこれだよね

これが良いことだって? 少なくとも私にはそうは思えないし、石川作品は一貫して敵が枠変えただけの選民思想と弱肉強食と全体主義の組み合わせだったじゃないか。

極左とか極右なら両手あげて歓迎する思想かもしれないし、それは勝手にしろだけど、石川作品の理屈ではないでしょ。

・進化を進歩と考えることのおかしさ

最初に言うがその考え方がすでに科学的根拠がない思想である。

例えば、進化というのは遺伝子変異で起きる場合があるというのは結構多くの人が何となく把握していると思う。
遺伝子変異=異常って聞いてどうしていいことしか起きないと思えるんだね。
進化というのは決まった一方向に進むものではない。
一度獲得した形質を失うことだってある(深海生物とか)し、一見デメリットしかないような遺伝配列がある環境下ではメリットとなって残ることだってある。
この時点で科学的に進化を進歩とするには論理がおかしいだろう。

この辺は社会進化論がどのようにフルボッコにされて、現在では学問ではなく思想、イデオロギーと理解されていることなんかがわかりやすいだろう。

同じ存在のまま他者を食って形状を変えるってそれ進化じゃなくて強化だろとも思う。
進化ならその種ではないものに新しく変化しなければならないのに、種は保ったままとか違うじゃん。そもそも進化してないじゃん。

正直に言えば人類が自分達こそが進化した特別な存在だと思い込んでいた時代の思い上がりの傲慢な思想であると私は思う。
フィクションで言うのも信じるのも勝手だが、石川作品では毎度ボコボコにされてる考え方でもある。

だから筋を通せって言ってんだろ。

総じて

どうも川越ゲッターをはじめとする派生作品の根底理論は

『超存在に選ばれ、弱肉強食の単一先鋭化の先に君臨した種族は千年王国を作り、(自らより強い種族に出会わない限り)永劫滅びない』
(弱者には権利とか尊厳とか無いから、強者の道具か養分になってろも内包してる)

とでもしなければ成立しないとは新ゲッターの考察でも指摘したが、真面目に言ってんのかと聞きたくなる。なんですかその一神教。

ましてこの理屈をもって過剰報復での侵略の肯定とかどうして今イスラエルっていうかシオニストとかロシアが全世界的に批難されてるかわかってる?って聞きたい。(念のために言うけど私がここで言ってるのはあくまでそういった主張での過剰報復、戦争犯罪への批難であって、ハマスとかが悪くないって話ではない)
川越ゲッター自体は製作時期がそれ以前になるが、持ち上げてる信者にはまんまとこれに乗っかって「選ばれた特別な竜馬╱人類はそれゆえ他者を支配して他種族を殲滅しても許される」みたいな選民思想でキャッキャしてるの端から見てると特に現状では言ってることがかなり被ってて色々とどうかって発想無いのかとも聞きたい。国際情勢とか興味ないのか。
(そういえばシオニストはガンダムのジオンの名前の元ネタではって話もあったっけ)

この論理筋を基本にした未監修作品、どうにも「自分に都合の悪いことをことごとく棚上げしてる甘ちゃんお花畑思考」だしその内容が「強い俺は世界の中心で回りは全部奴隷であるべき」みたいな感じがあって、随分舐めてんなあとも思う。
「自分は選ばれた存在だから他人を支配していい(自分がやりたくてやってるんじゃないみたいな逃避、もしくは責任を選んだ存在に擦り付けての正当化)」「俺がお前を殺しても、お前たちが殴ってきたのが悪い」「俺たちを受け入れなかったお前たちが悪い」「運命だから」「本能だから」って、ことごとく他人に責任おっかぶせて自分で責任一切取る気がないみたいな思想も、大人として恥ずかしいとは思わないんだろうか。

思うのも言うのも勝手だけど、自己選択と自己責任が伴わない自由なんてありません。お前たちが言ってるのは自由のふりした傍若無人とか我儘ってだけです。
自分達は赤ちゃんなのでなにもかも責任取れません、よしよししてくださいって言ってるのと同じです。
もしくは超存在とか敵対する存在に原因も理由もなにもかも押し付けて自分の責任逃れながらなんかの道具か部品やってるだけです。
好き勝手やってるつもりで神だか運命だかゲッター線だかの手のひらの上で転がされてキャンキャン尻尾振ってる図ですよ。
この手の話、読み手が独裁者に感情移入するのを前提で書いてるんだろうけども、ある程度俯瞰して見てると「なんで自分がずっと独裁者でいられると無根拠に思ってるわけ? どうせ同じ繰り返しするんだから潔く腹を切るべきでは? そもそも自分が奴隷になる立場は考えてないよね?」なども思ってしまってキリがない。ゲッターロボの名前がついてなければそういうものとして割りきって見れるのに。
個人の感想:ぐだぐだ言い訳してる話より、潔く腹切ってる話とか全滅する話の方が好きです

しかも、実は根底にこの理屈がなければ成立しないのだが、同時にその考え方を確定させる根拠が作中どこにもない。

根拠とできるものが存在せず、「主人公だからいい人間のはずだ」「人類に味方してるんだからゲッター線は悪いものではないはず」みたいな見てる側の勝手な思い込みでしかその理屈が通用しないので、そういった固定観念の薄い人間ほどそんな宗教にはついていけず「は????」となりやすいという。
まあ、実際我が家がそれで、尽くクライマックスで水ぶっかけられて「最後の最後になっても協調性すら学ばないとかここまで全部無意味か?」と盛り下がったんだが。

これが「ゲッターロボ」でなければまあその選民思想での宗教を前提にしてもよかったんだが、いかんせんその名前をつけてしまったばかりにとんでもない皮肉になり下がってもいる。

本来であるならそういったものは完膚なきまでべこべこにしておめーの国に引っ込んでろとやるべき原作であるために、完全に悪側の動きになってしまっている。
「ゲッター線を神として全宇宙の独裁支配を狙う未来人類のプロパガンダ映像」って言われた方がまだ納得する。
戦中の戦意高揚映画の昔から現在に至るまで思想の流布に娯楽作品が使われるのはお約束でもあり。ブラックサンは許してないです。
って書いて思い出したんだけど、「機動戦艦ナデシコ(96年)」の劇中劇「ゲキガンガー3(とても原作ゲッターを理解してる再構成をしていた)」ってマジでこの使い方(都合良い切り取りなどで本来のメッセージ性とは異なる曲解をされて木星連合の経典扱い)されてなかったっけ……?

最初にも言ったが別に宗教であることはどうでもいいんだが、その理屈でもってよりによって原作を書き換える=侵略するなんて鬼畜生な行いかなとも思う。
こういう事言うのも支持するのも別に構わないけど、正反対の事言ってた原作に偽装して出すのは結構悪質な詐欺だし、愚弄ではとか。
それに引っ掛かれば自分達は竜馬のつもりで、内実はアークの未来人類だしナデシコの木星連合だしガクエン退屈男のタツマである。なんとも皮肉であるとしか言えない。
誰かの上っ面だけ借りて自分の言いたいこと言い散らかすなんて虎の威を借る狐よりひどいし、自分の言葉や作品(オリジナル)で語ってほしい。

川越ゲッターとその派生を真に受けるほどきちんとした協調性等の理解からは遠ざかるし、正直得することがあまりない。
言ってることが反社会的なヤクザかテロリストの理屈(弱肉強食=弱者の無救済を始め、過剰な報復に伴う自己の正当化、これを根にしてだろう正当防衛の否定と双方が悪いとする論=俺だけが悪い訳じゃないという責任転嫁、武力による現状変更の肯定、暴力的アナキズムなどなど)なのくらいは理解しておいた方がいいだろうとも思う。

こういった主張になんだかとても見覚えがあるのですけど学生運動崩れ左派=新左翼╱ニセ左翼(極左)に媚でも売ってるんです? 70年代暴れまわって「ガクエン退屈男」で痛烈に批判されましたのに? 新ゲッター自体が偽史運動=意図的に偽造された歴史っぽいなとは思ってたし、オカルトやスピリチュアルからヤマギシ会も新左翼に繋がるところあるし、川越監督の担当作品の並びもなんかあれだし、あの時代ダイナミック作品持ち上げてたサブカルインテリ層って左派でしたよねとか、全体にある反知性主義っぽい感じとか色々細々引っ掛かるところが多すぎて我慢できない量蓄積してきたので記載しますけど。
新ゲッターの「新」は何を指すのか意味不明と思ってたの、そこからニセゲッターを指していたなら意味も合うけど。
なんなら「ネオ」ゲッターロボってどっからよって不思議だったのも「ネオ・リベラリズム(新自由主義と訳されるもの複数のうちのひとつ。90年代以降に悪い意味での自由放任主義や実質は利己主義みたいな使われ方を良くしていた言葉╱本来の意味は違う)」じゃねって気もしないではないけど。
「多様性を前提にした協調性と見せかけて、実質は自分達の思想を中心とした同調性を押し付ける」って昨今問題になってる環境団体やらポリコレやらなんやらに似てるなとかも思うけど。

あと、これは結構本気でいうのだけど、ブラックサンもそうだったけど、これや遡れば90年代から始まっていただろうダイナミックプロ作品のねじ曲がった解釈での流布も含め、それらが意図的であれどうであれ、本当はそういった歪んだ像を振り撒いた左派やサブカル好きである程きちんと批判しなければならなかった。
少数派だから、弱者だから、自分達は正義なんだから何をやっても許されるべきだ。だから他人の権利や尊厳を踏みにじり、主張を切り取りねじ曲げても自分達に都合良く使う。
先述部分に気付いてしまえば、端から見ればそういう図にしかならないでしょ。これをきちんと批判できないというなら身内に駄々甘く馴れ合ってるだけ、アナキストを気取り他者を盾にしながらの、知識人という肩書きを持つ権威の犬ってダサい姿です。
私はその当の00年前後、サブカルとオタクの浅瀬にいた人間でした。色々わからないながらに親しみがありました。
でもそんなダサいものを愛好した訳じゃないです。私が好きだったロックやアナキズムの精神性は私にはそんなものじゃなかった。故に私は私の意思と判断でもってこれを批判します。

更に言うのだけれど、もしこれらはすべて監督が意図的にそうしていたというなら左派による左派(新左翼やネオリベ╱なぜ現在の左派がリベラルを自称するのかにも繋がる話かもだが)批判であった可能性はないだろうか。永井先生のガクエン退屈男をその根幹に含んでいるなら尚更。
明言がない以上はそういう読み方もできるという話止まりではあるが、誰も指摘せず表面だけ鵜呑みにして持ち上げるだけとか作品の事も監督の事も原作の事もなにひとつきちんと見ていないじゃないか。それはあまりに可哀想な話だと思う。
本当にあれが好きだというなら、身勝手に自分の主張ばかり押し付けていないできちんと向き合うべきではないの。それは愛情なんかではなく、単なる依存や執着、盲信と支配欲じゃないか。自分で考えることを捨てた人を狂信者っていうんだよ。

フィクションで礼賛するのは勝手だ(我が国には思想や信教、表現の自由があって、実際に害を与えない限りには保証されてもいる)が、そういった反社会的思想セットを丸飲みしてる人間がどう見られるのかも自己責任である。
だからクズはクズだと言って愛せといっている。それは現代倫理では正しくなんかないしそいつらは明らかに悪い。悪いものは悪いとわかっていてフィクションとして楽しむなら本来そこは理解できてなきゃおかしいんである。無理な正当化なんてするだけやばみが増すだけだとは言いたい。クズの悪党だから好き!って言えばいいだけです。ただし原作と一緒にすんな。

川越監督は色々わかってるんだよすごい!っていうなら、あれはわざとゲッターロボと反対の理屈で作ってるって言った方が正解なんである。
真面目に作ってあれで、真面目にあれがゲッターロボだと思ってるってんなら日本語読解力とか論理的思考レベルから相当にヤバイと言う話でしかなくなってしまう。
(私は指摘するだけまだ優しいとすら言われた。しかも複数人から。話通じないから言うだけ無駄と見切って冷たい目線送ってる人間が私のそんな広くない交際範囲だけでも片手の指埋まる程度はいる)

言ってしまえば幼稚な話であってもまあそういうものとして面白いとこは面白いし別に嫌いじゃないけど、どう考えたって未来人類とエンペラーだろこれっていう感じがあってなんとも冷めた目で見てしまうのは否めない。
(そういえば他のも見たけど、十中八九ゲッター派生における「ガクエン退屈男」と「極道兵器」の使い方は理性を削って世界が滅ぶ方向性になってる文脈繋がりで意図的だろうと思う)
本当にせめてゲッターロボの名前がついていなければ、色々わかった上で「こいつらチンピラじゃん」って笑いながら見たり、転生チート無双ものみたいな俺TUEEEEEE用の手軽な現実逃避用コンテンツみたいな扱いが余裕でできたのだが……。

なおこういったツッコミ無限沸きしながら、隼人のした事を、ひいてはあそこまでの人々の犠牲や道程を無為にするのはあんまりだろうと無い頭絞ってアニアクを原作筋に戻すために書いたのがこれだったりする。

製作者意図を考えるなら素直に滅ぼした方がその意思を汲んでいるのかもしれない、その方がアニアクという作品へは真摯だし愛情なのかもしれないとすら思い悩んだが、あの作品が「ゲッターロボサーガ」のシーンを使った以上、私にはそのまま滅ぼすことはできなかった。
かといって、あの理屈を全肯定して拓馬や未来人類は悪くないなんて私の倫理観や信条からはとても言えなかった。原作のゲッターロボが好きだったから、石川先生と真逆の事言うなんて無理だった。
だから変える以上は自分の精一杯をやったつもりだ。結果ボコボコにしたけど。

なんか川越ゲッターアンチが攻撃してるとかって勝手に思い込んでる人がいるみたいだけど、本当にアンチだったらこんな話書いてないよ。
むしろ自称ファンにすらきちんと作品意図から内容まで理解されず、まともな評価をされたことがない可哀想な作品だなって最近は同情的だよ。


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